スケッチブックに風が吹く
伊藤充季
本編
その絵には、ありふれた港町の風景が描かれていました。
抜けるような、雲ひとつない青空の下に、光をはね返して輝く海が。海に近い通りに開かれた市場のにぎわいが。市場のそばを、てんでんばらばらに行く人々のざわめきが。みごとな白色に塗られた家々の壁が。そんな、ひとつひとつの、とりとめなく、ありふれた情景が、その絵にはいきいきと描かれていました。
そして、この絵の右下部分によく注目すると、船でも待っているのでしょうか、ふたりの女の子が並んで佇んでいるうしろ姿を確認することができました。右側に立っている女の子は、鞄を持っていて、短い黒髪に、動きやすそうな服と、長いスカートをはいていました。左側の女の子は、淡い金の長髪に、ひらひらした上等そうなかわいらしい服と、これまた長いスカートをはいていました。左の女の子は、今にもスキップでもしだしそうな調子で、体はうきうきしており、絵を見ているだけでも、楽しそうにしているのが一目でわかるくらいでした。
それからきっと、このとき、この港町にはやさしい風が吹いたのだと思われました。このふたりの女の子の、スカートがひらめき、髪の毛もちょっとだけふわりと浮きあがっていたり、市場の人びとが帽子を押さえていたり、あたりには葉っぱが舞う様子なんかが描かれていたからです。
そうしてこのお話は、そんな風が吹いたある午後から、ずっと昔にさかのぼって、はじまるのです。
* * *
いまから十何年か前のことです。
サンダース公爵領内、ある街の郊外に、その女の子は住んでいました。短い黒髪に、きりっとした目、身長は、子どもがまちがえて軒に引っ掛けてしまったボールなんかのおもちゃを、とってあげられるくらい。
彼女は、父母との三人暮らしで、名前をアンナ・ジェーンといいました。アンナの母はメイドで、そうするとやはり、娘であるアンナも、大きくなればメイドになるのが当たり前のことでした。
しかし、アンナの母はたびたび彼女にこう言いもしたのです。
「アンナ、あなた、やりたいことがあるのだったら、メイドになどならなくてもよいから、そのときは言いなさいね」
そのたびにアンナは、
「ありがとう、お母さん」
と静かに答えるのでしたが、本当のところ、アンナにはやりたいことなんてなにひとつありませんでした。彼女の趣味といえば、一週間に一度、外に出て絵を描くという、とてもつつましいものでしたし、画用紙や鉛筆、絵具といった画材も、彼女の両親の収入では、そう簡単には手に入りませんでしたから、それで身を立てるというのは、彼女にとって想像もつかないことだったのです。
そして十五才のとき、アンナは、メイドになりました。
彼女が仕事をはじめてから何年かの間は、まったく、ろくなことがありませんでした。
最初に住み込みで勤めはじめた、マーティン男爵の家では、男爵にも、男爵夫人にも、また先輩の住み込みメイドたちにさえ、さんざんな扱いを受けて、男爵の屋敷から出て行くまで、彼女には耐えることしかできませんでした。しかし、彼女にとって最も情けなかったのは、同年代くらいの、男爵の娘と会話したときのことでした。
あるとき、午後の休憩時間に、アンナは階段の窓から外を見て、手許のメモ帳に手早くスケッチをしていました。長くとどまっていると、いつ男爵夫人に見つかるかもしれず、見つかれば小言を言われるのは確実だったので、あとは部屋に戻って清書するつもりだったのです。そのとき、アンナの背後に接近する陰がありましたが、彼女はあんまりスケッチに夢中になっていたので、気づきませんでした。
「あら」
背後からそう声が響いたときに、アンナはようやく誰かがいることに気づきました。急いで手許のメモ帳を隠して、さっと振り向くと、アンナはわが目を疑いました。そこに立っていたのは、男爵の娘、ユリアでした。
「あなた、絵なんて描くのね」
ユリアは、ゆったりとそう言いました。アンナはびっくりして、声も出せませんでした。彼女がそうやってメイドに話しかけるところなど、アンナは見たこともなかったし、まさか自分が話しかけられるなど、想像もしていなかったからです。
ユリアはゆっくりとこちらに近づき、手許に隠したメモ帳をさっと奪い取りました。そしてスケッチした風景を三秒ほど眺めてから、メモ帳をぽいと床に放り投げました。
「悪くないけど」
余裕のある口調を崩さず、彼女はそう言いました。
「メイドの手は、絵なんか描くよりも、汚い床掃除のほうが活きるのではなくて?」
そうしていじわるな笑みを口許に浮かべると、放ったメモ帳を踏みつけ、何度かごしごしと床にこすりつけて、その場を立ち去りました。
アンナは、そのときこそ、貧富や、身分の差というものをはっきりと、身に染みるように感じました。
――きっと、ユリアは、粗悪な紙でできたメモ帳なんて、簡単に何十冊も買えるのだろう。でも、わたしにとっては、身を切る思いで買った一冊なのに……。
メモ帳事件の三日くらいあと、アンナは自分の部屋のベッドのうえに、新品のスケッチブックと、「ごめんなさいね、アンナ ユリアより」と書かれた紙片が置かれているのを見つけました。
――いつのまにこんなものが? 他のメイドに持ち込ませたのだろうか。まさか、自分で持ち込んだわけではないだろう――とアンナは考えましたが、そんなことは置いておいても、どうにもこうにもそれを受け取る気は起こらなかったので、いっそ窓から投げ捨てようかとも考えました。しかし、生来の貧乏性が邪魔をし、それももったいないと思われたので、だれかに譲るということを思いつきました。
彼女は、休憩時間にそっと屋敷を抜け出して、下町に行き、そこらで絵を描いている女の子を見つけると、その子にプレゼントすることにしました。
「これ、あげる」
アンナは突然そう言うと、女の子にスケッチブックを手渡して、立ち去ろうとしました。女の子は暫くポカンとしていましたが、立ち去ろうとする彼女を見て、
「ちょっと!」
と叫びました。
「なに?」
「こんなもの、ほんとにいいの? 高かったでしょう」
「いいの、いいの。減るもんじゃないし」
「減るもんじゃない、って言われても……」
「まあ、貰っといてよ。絵は好き?」
女の子は相好を崩し、
「うん、好きよ! お母さんは仕立て屋だけど、わたし、画家になりたいの」
「そう、応援してるわ」
すると女の子がアンナに駆け寄り、
「これあげる!」
と言って、みごとな蝶々や民家や草原などがスケッチされた紙を何枚か手渡しました。
「わたし、いつかきっと、りっぱな画家になる! だから、持っておいて損はないわよ」
「ふふ、ありがと」
アンナはなんだか妙に嬉しいような気分になって、それを受けとりました。
「あなた、名前は?」
「エイプリルよ! ルーシー・エイプリル……あなたは?」
「わたし? わたしはアンナ。ありがと、エイプリル。これは後生大事に持っておくわね」
そうしてアンナは立ち去りました。
エイプリルはすぐに家に帰ると、さっきのできごとを頭のなかで思いかえしました。
うららかな午後に、とつぜんメイドのエプロンドレスをつけて下町にやってきて、スケッチブックをくれた妙な人、アンナ。エイプリルは彼女のことを思いだしながら、簡単にスケッチしました。スケッチブックはすばらしい上等で、鉛筆の走り方がほかの紙とはまったく違いました。そして、このスケッチブックがあれば、どうしてもりっぱな画家になれるような気がして、エイプリルはたまらなくうれしくなるのでした。
そんなエイプリルとは裏腹に、こっそりと屋敷に帰ってきたアンナを待っていたのは、男爵夫人のきびしい顔つきと、突然の解雇通知でした。理由を尋ねる間もなく、彼女は荷物をまとめさせられ、最後の給料 (それも、雀の涙ほどの額でした) とともに、屋敷を追い出されてしまったのでした。
屋敷の前で唖然としていると、どこからか視線を感じ、上のほうを向くと、窓のむこうから、ユリアが恨めしそうにこちらを見下ろしているのが見えました。気のせいか、彼女の眼もとは赤く、こちらを見下ろす視線は、じっとしていて、ぴくりとも動かないようでした。
アンナは、もしかするとあのスケッチブックを、勝手に誰かに譲ったのがばれたのかもしれない、と思って、悪いことをしたような気分になりました。再び窓のほうを見ると、彼女の姿はもうなく、仕方がないので、アンナはいったん家に帰ることにしました。
こうして、アンナの初仕事であった、マーティン男爵の屋敷での住み込みメイドは、最低一年の契約だったところが、わずか半年で終わってしまったのでした。
それからアンナは、四軒の家で働きました。最初の仕事が半年で解雇となった、という経歴を持っている彼女を雇ってくれる屋敷はあまり見つからず、あったとしても、臨時雇いや、住み込みで半年などといった、短期間のものが主でした。そういった事情もあり、どこの家でも、貴族や先輩のメイドたちは、彼女をぞんざいに扱い、そのたびに彼女は落ち込んだり、腹をたてたりしました。
それでも、休憩時間や、数少ない休日に絵を描いて過ごすのはやはり楽しく、子どものころに遊びまわった草原や、むかし両親と出かけた川辺のことを思い出しながら風景画を描いて気をまぎらしていました。しかし、たまにユリアとのあの事件を思い出すと、何ともやりきれないような気分になりました。そして、あのスケッチブックの子、エイプリルはいま、どうしているだろうとぼんやり考えたりすると、どうしてわたしは、メイドをやっているんだろう、と物思いに沈んだりもしてしまうのでした。
そうしてあっという間に、マーティン男爵の屋敷を去ってから二年が過ぎ、アンナは十七歳になりました。ちょうど失職中だった彼女は、毎度のように、次の仕事場を捜しました。彼女を雇ってくれる屋敷は、やはりなかなか見つかりませんでしたが、労働条件も内容も見ずにがむしゃらに捜していると、やっとのことで仕事にありつき、アンナは仕事場となる屋敷へと向かいました。
その屋敷は、彼女の家から歩いて四十分くらいで、下町と、貴族が住む区域のちょうど境界くらいにありました。
行ってみて、アンナはしばらく立ち尽くしました。
建てられて何十年かは経っていそうな、ぼろぼろの壁。一部には
メイドが正面玄関から屋敷へ出たり入ったりするのは、どこの屋敷でも御法度でしたが、初日だけは、屋敷の構造も知らないわけですから、正面から入るのも仕方がないというふうに、慣例で認められていました。そのため、アンナは堂々と正面玄関から入っていきました。
「ごめんください……」
扉がおおげさな音をたてて開き、重苦しい空気が流れる屋内へと入っていきました。内部は薄暗く、誰の気配もしません。冷たい空気が頬をさし、ただ彼女の足音だけが響きました。
人が出払っているのだろうか、と思い、アンナはずんずんと奥へ進んでいきました。
「ごめんください、ごめんください」
しかし、何度呼びかけても返答の気配はありません。やはり、この屋敷は間違いだったのか。すると、ここはもう廃墟なのではないか。そう思って、立ち去ろうとしたとき、どこからか足音が近づいてくるのを感じました。
その足音は、ばたばたとうるさく、元気で、ものすごい速さでこちらに向かって近づいてきました。そして、階上のドアが、バン! と勢いよく開かれ、それに続けて元気な声が聞こえました。
「あなた、アンナ?」
アンナは多少びっくりしましたが、気を持ち直して、
「はい、わたしがアンナです」
と声を張って言いました。
「待ってたよ!」
声の主は、階段をスキップするように素早く降りてきて、長い髪をひらりとひるがえしながら、アンナの目の前に姿を現しました。
「わたし、スカーレット! よろしくね!」
アンナは、スカーレット、と名乗った女の子を見て、驚きました。
――おそらく同い年くらい。なんの曇りもない笑顔。白く、美しい肌。淡い金の長髪はまるでシルクのよう。なによりも、おそらくこの屋敷に住む貴族の娘と思われる、目の前のかわいらしい女の子が、真っ先に、メイドである自分に話しかけてくるなんて。それも、こんなにも笑顔で。
屈託のないスカーレットの様子に、アンナは思わず見とれてしまいましたが、すぐに気を持ち直して、
「し、失礼しました。こちらこそ、雇っていただきありがとうございます」
と言いました。
「ところで――スカーレット……お嬢様。ご主人様方はいま、出払っていらっしゃるのでしょうか」
「いや?」
不思議そうな顔をして、スカーレットはそう答えました。
「では、いったいどちらへ?」
「ああ、それは、この家に住んでるの、わたしだけだもの」
やはり、にこにこと晴れやかな笑顔で、彼女はそう言いました。
「それは、どういうことですか?」
アンナはさすがに混乱を隠せず、そう訊ねましたが、
「どういうこともなにも、そのままの意味だよ?」
とスカーレットは言うばかりでした。
いくつもの不可解な点はありましたが、ともかく仕事は仕事でしたから、その日からアンナは、スカーレットの屋敷に住み込みでメイドとして働くことになったのでした。
まず、彼女は家の外をきれいにしました。何日もかけて蔦を取り払い、壁を拭いてぴかぴかにしてから、雑草を全部抜いて、新しく花を植えました。その次に内部の清掃に取り掛かりました。屋敷内にはたくさんの部屋があり、両手両足の指でも数えきれないくらいでした。しかし、スカーレットの自室のほか、キッチン、ダイニング、浴場、トイレといった、生活に必要な場所以外はほとんど使われておらず、どの部屋も埃まみれで、ベッドやタンスと言った調度のたぐいもめちゃくちゃでしたし、蜘蛛の巣も張りほうだいでした。時間はかかりましたが、アンナはこれらの部屋を、ひとつひとつ綺麗に掃除していくことにしました。
そういうわけで、掃除が終わるまでのあいだ、彼女のスケジュールは、朝から掃除をして、スカーレットに食事を出し、昼まで掃除をして、スカーレットに食事を出し、夕方まで掃除をし、スカーレットに食事を出し、あとはできるだけ掃除をして、何日かに一度体を清めて寝る、というものになりました。キッチンで働いたことはありませんでしたが、料理の基礎は母親に教わっていたので、試行錯誤して、ときに失敗しながらも、何とかすることができました。
そうして、忙しく働いていると、毎日へとへとになって寝てしまうので「スカーレットはどうして、こんな屋敷にひとりで住んでいるのだろう」とか「スカーレットの両親は、いつ帰ってくるのだろう」などといった不可解な疑問について、考える暇もありませんでした。
住み込みはじめて二週間ほどが経ち、掃除も落ち着き始めたある日の朝、いつも通りにアンナがダイニングに朝食を運び、
「お嬢様、朝食をお持ちしました」
と言って、出て行こうとすると、スカーレットが「アンナ、いつも、どこかに行っちゃうのね? どこに行くの?」と言いました。
「キッチンに戻って、朝食を食べます」
「どうしてここで食べないの?」
「それは、わたしがメイドだからです、お嬢様」
「ここで食べればいいじゃない。いつもひとりで、さびしいし」
「それは……」
貴族と同じ机に着くなんて!
そんなことは考えたことも、今まで貴族に誘われたことすら一度もなかったので、アンナは思わずうろたえてしまいました。
「しかし、わたしのような庶民が、お嬢様と同じ席で食事することは、できません」
そう言ってむりやり立ち去ろうとしましたが、ふとスカーレットのほうを見ると、いまにも泣き出しそうな顔をしていたので、アンナはぎょっとしました。
――いつもならにこにこしているお嬢様が、こんな顔をするなんて。
彼女は意を決したように、さっとダイニングから出て行くと、キッチンから自分の朝食であるパンを持ってきて、またダイニングに入っていきました。そのとき、スカーレットは心底悲しそうな顔で、鼻をすすりながら、朝食の目玉焼きをつついていました。そのいじらしい様子を見ると、アンナはなんだか泣きたいような気持ちになって、
「お嬢様」
と静かに言いました。
すると、スカーレットはこちらをゆっくりと見て、しょんぼりと沈んでいた顔が、すぐにひまわりのようにぱっと明るくなりました。
「アンナ! 来てくれたんだ!」
「先ほどは、失礼しました」
そう言ってアンナが、ふたりで食事をするには大きすぎるテーブルの、スカーレットの向かいに腰を下ろすと、
「もっとこっち来てよ!」
とスカーレットが言い、あれよあれよという間に、アンナはスカーレットの隣に座らされてしまいました。
朝食は、ベーコンエッグに、パンにバター。それと玉葱のスープという簡単なものでしたが、スカーレットの食事をする様子は、さきほどまでの様子が嘘のようで、幸福そのものという調子でした。さらに彼女は、アンナがバターも付けずにパンを食べているのを見て、
「アンナ、これ食べて!」
とベーコンを、寄越してきました。
「いえ、しかし、それは、お嬢様のものですから」
「いいの、わたしだけこんなにたくさん食べていられないよ」
半ば強引に押し付けられた皿のなかのベーコンはすでに冷え始めていましたが、スカーレットの親切が嬉しくて、アンナはそれを黙々と食べました。
食事が終わったあと、かしこまった調子でアンナはこう言いました。
「先ほどは申し訳ありませんでした。お嬢様がたったおひとりでいつも過ごされていて、さびしいかもしれないなんて、ちっとも考えておりませんでした。ですから、ええと、その……これからも、いっしょにお食事させていただいても、よろしいですか?」
それをずっと妙な顔で聴いていたスカーレットは、ナプキンで口許をぬぐってから、
「ありがとう、アンナ。でも、そんなにへりくだらないで。わたし、あなたとそんなに変わらないんだから」
と笑いながら言いました。
その出来事以来、ふたりは食事を共にするようになり、次第に打ち解け始めました。スカーレットが、一緒にお茶でも飲みましょう、などと誘っても、特にアンナは断らなくなり、むしろふたりでいるのが自然だとまで思えるほどになりました。
ある日、アンナが部屋の掃除をしていると、突然窓ガラスから、石が投げ込まれる、ということがありました。窓ガラスはすさまじい音とともに割れ、部屋のなかに破片が散らばりました、アンナは咄嗟に身をかがめて助かりましたが、少しあとに窓枠から顔を出してあたりを見ても、犯人らしき人影は見当たりませんでした。
その日の夕食時、アンナは、その事件について、スカーレットに報告しました。
「お嬢様、今日わたしが部屋の掃除をしたところ、突然窓に石を投げつけられ、窓ガラスが何枚かだめになってしまいました。ガラス屋さんに行ってみましたが、仕事がたてこんでいて、交換はあさって以降になるとのことです……すみません、もうちょっとわたしが注意していれば……」
それを聴いたスカーレットは、フォークを使って鶏肉のソテーを食べていた手をピタリと止めました。
「いや、気にしないで、アンナ。それは、たまにあるんだ。石が投げ込まれたり、家の前に猫や鴉の死体を置かれたり。悪質ないたずら……だから、気にしないで」
さびしく笑いながらゆっくりと言い終わると、彼女はまた料理を口に運び始めました。アンナもそれに倣って食事を再開しましたが、頭のなかではさっきの彼女の口許にうかんださびしい笑いが、ぐるぐると渦巻いていました。
――たびたびあるいたずら。いったい、だれの仕業だろう。それに、スカーレットはむかしの話を、ちっともわたしにしてくれないけど、いつからこの巨大な屋敷にひとりで住んでいるのだろう。たぶん……この「いたずら」は、彼女がここにひとりで住んでいるのと、関係あるんじゃないだろうか――。
アンナはなぜか、そう直感しました。そして、以前彼女が言った「いつもひとりで、さびしい」という言葉が、脳裏で繰り返し、思い出されました。
「お嬢様」
スカーレットは、口許をもぐもぐとしながら、フォークを持たない左手で長い髪を耳に引っ掛けながら、
「なあに?」
とつとめて元気そうな返事をしました。
「今晩は、わたしと過ごしませんか?」
スカーレットはポカンとした顔でアンナの目を見ていましたが、しばらくして、
「ほんとう?」
と小さくつぶやきました。
「嘘なんてつきませんよ、お嬢様」
「うん、わかってる。ありがとう、アンナ」
スカーレットは左手でアンナの黒い髪を少し撫でて、それからまた押し黙ってしまいました。
食事が終わったあと、アンナは簡単に身を清め、それからスカーレットの部屋に向かいました。彼女の部屋の戸をコンコン、と叩くと、中から、
「アンナ? 入ってきて」
という声が聞こえました。
スカーレットは窓のそばにたたずんで、長い髪を乾かしながら、じっとしていました。彼女もお風呂に入ってきたと見えて、頬っぺたはほんのりと赤らんでいて、すでに寝巻に着替えていました。
「アンナ、座って」
にっこりと笑いながら彼女が言ったので、アンナはそこらにおいてある椅子にゆっくりと座りました。
「今日はありがとう、アンナ。じつはわたしね、ちょっぴり怖かった」
「……大丈夫です。お嬢様。犯人は必ず捕まります」
「いや、そう簡単にもいかないんだ」
「なぜですか。もう、こうしたいたずらが、ずっと続いているのでしょう? なんなら、わたしがこの身体で、捕まえますよ」
「ありがとう、アンナ。わたし、あなたがそう言ってくれるだけで、本当にうれしい」
さっきと同じように、さびしく笑いながら彼女はそう言いました。
「……お嬢様、こんなことを訊くのは失礼かもしれないのですが、いったい、いつからここにおひとりで?」
スカーレットはちょっと困ったようにうつむいて、しばらく黙っていました。
「そう、まだわたしの名前、教えてなかったわよね」
それを聴いて、アンナはハッとしました。
――そうだ、たしかに、スカーレットは下の名前だろうけど、まだ姓を教えてもらっていない。前から気になってはいた。ここは、だれが所有している家なんだろう。彼女はいったい、どんな貴族の娘なんだろう――?
「わたし、表向きでは、お父さんもお母さんもいないってことになってる。だから、わたしはただのスカーレット。馬鹿にしてるよね。お父様は、わたしがそれに気づいていないとでも思ってるんだよ。わたしのフルネーム、それは――スカーレット・サンダース」
――サンダース。それは……この地方一体を治める、公爵の名前。
アンナは、できるだけ冷静な口調で、訊き返しました。
「では、お嬢様は……サンダース公爵のご令嬢ということなのでしょうか」
「ご令嬢、なんて立派なもんじゃないよ。お父様の過ちによってこの世に生まれ出でた、哀れな子羊ってだけ」
アンナは深い息をつきました。これで、いろいろなことに納得がいったからです。
――彼女がここでひとり、姓を名乗らずに暮らしているのは、サンダース公爵が無責任につくった子どもだから。おそらく、メイドか、侍女がわからないけど、ともかく、公表できないような産まれ方をした子なのだろう。妊娠に気付いたなら、公爵は無理にでも堕胎させようとしたかもしれないけど、母親が隠しとおしたのか……原因がなんにせよ、とにかくスカーレットは生まれてきた。たぶん、いざ子どもを目の当たりにすると、公爵も殺すのは気が引けたのだろう。それでおそらく、自分の邸宅から遠く離して、こんなぼろ屋敷に住まわせているのではないか――。
「気づいたときには、ここにいた。サンダース家が古くから所有している屋敷らしいけど、もう何十年も人は住んでなかったんだよ。メイドのみんなは、わたしに、お父様のことを隠そうとしたけど、あるときわたしは気づいた。街の人たちが、ひそひそと話してるの。わたしのこと、サンダースの落胤だ、って。それでずっと、わたし、ここで暮らしてきた。街の人たちが、しょっちゅういやがらせをするから、メイドはみんな辞めた。いい人達だったけど、わたしが一緒に食事をしよう、って誘っても、だれも席に着いてくれなかった……」
アンナは、スカーレットが、さびしい笑いを浮かべたまま、ぼんやりした口調で話すのをじっと聴いていました。
「街の人たちは、わたしを笑うの。公爵の令嬢だかなんだか知らないけど、しょせんは平民の娘じゃないか、って。わたし、お母様もどうなったのか知らない。街の子どもたちも、大人たちも、わたしが近づくとさっと目をそらすくせに、石を投げ込んでくる。でも、メイドのみんなも、わたしと仲良くしてくれない。ずっと思ってた。どうして生まれてきたんだろうって」
「お嬢様……」
「だから、アンナが来たとき、もうこれでだめだったら、わたしはひっそりと死のう、とか考えてた。こんなこと言ってごめんね。アンナが悪いんじゃない。でも、アンナはわたしに優しくしてくれた……」
「そんな、とんでもない」
スカーレットの声はだんだんと震えだして、アンナも自分の肩が揺れているのがわかりました。
「だからね、わたし、アンナのことが好き。わたし、死ななくてよかった。アンナに出会えたもの」
「わたしだって、母がメイドをやっているというだけでメイドになった、なんの目的もない人間です。この家に来たのだって、仕事を続けるため。わたし、絵を描くのが好きなんです。世の中には絵を描いて生きている人たちもたくさんいる。なのに、どうしてわたしは、この仕事を続けなきゃいけないんだろう。そんな気持ちでした……でも、わたしも、お嬢様に出会えてよかったと、いまなら思いますよ」
アンナは、自分よりも小さいスカーレットの肩を抱いて、胸のなかで抱きしめました。アンナの胸のなかで、スカーレットはとめどもなく泣き続け、しんしんと夜はくれていきました。スカーレットの髪の毛は、まだちょっと湿っていて、アンナはそれを手のひらで感じると、なぜかまた涙がこぼれてくるのを感じました。
夜も更けて、スカーレットが泣き止んで眠ってしまったころ、アンナは燭台に火をともして、薄明りのなかで、一枚の肖像画を完成させました。それは、スカーレットの肖像画で、初めて出会ったときの、あの屈託のない、明るい笑顔を描いたものでした。アンナは満足そうに肖像を描いた紙をひっくり返すと、「A・Jより Sに捧ぐ」と書き入れて、自分もスカーレットの隣で寝入ってしまいました。
それからまた一週間ほどが経ったころ、朝から、スカーレットの屋敷の前に、たいへんな人だかりが押し寄せました。アンナはすぐに、かれらの応対をするために出て行き、
「どうしたんですか? 朝っぱらから」
と言いました。
するとそのなかのひとりはにやにやと笑いながら、
「いやあ、スカーレットちゃん、元気?」
と言い、他の人も、
「そうそう、心配になって」
と言いました。
「なんですか? なにかあったのですか?」
アンナはあまりにも異様な様子に、半ば恐れを感じながらそう訊ねました。見れば、人々はしっかりした格好をしており、みんなこの辺りに住んでいる貴族だということが一目でわかったからです。
「じつは、サンダース公爵が亡くなったんだよ」
さっき口を開いた貴族がそう言い、さらに言葉をつぎました。
「ここらに住んでる貴族は、みんな公爵様のお世話になってる。ご病気だったのか、事故かはわからないが、とにかく公爵様はお亡くなりになられたそうだ。公爵様にはまだ跡継ぎがおられない。だから、われわれの立場も危うくなる。政敵も多いからね」
「それで、お嬢様を?」
「そうだ、落胤だといっても、公爵様の血をついでいることに変わりはない、だから、彼女を連れていけば……」
アンナは猛然と腹が立ち、
「じゃあまず、今までの行いを、スカーレットに謝罪してください!」
と言い放ち、玄関を無理やり閉めました。
かれらは、しばらくの間、扉の向こうから「悪かったよ」などといっているようでしたが、しばらくすると、今朝のところは諦めて、ひとまず引き下がったようでした。公爵が死んだ、というかれらの話が嘘か本当か、確かめるすべはいまのアンナにはありませんでしたが、それが事実だとすれば、かれらの立場が危ういというのも本当のことだろうし、また屋敷にやって来るだろうということは、確実だと思われました。
アンナは急いでスカーレットの寝室へと行くと、ドアを開け放って「お嬢様!」と叫びました。すると、すでに着替えたスカーレットがそこに座っており、いつになく真剣な表情でアンナのことを見つめていました。
「上から聴いてたよ、アンナ」
「……そうでしたか」
さっきの貴族の、失礼な言葉を、スカーレットが聴いていれば苦しく思っただろう、と考えていたアンナは、ちょっと下唇をかみました。
「お父様が死んだんだね。いつか、こんな日が来るとは思ってた」
「すみません、お嬢様……」
「いや、アンナ、さっきのは格好よかったよ。あいつらを追い返してくれて、ありがとう。それに……」
「……なんでしょうか?」
「名前で呼んでくれたよね? 『スカーレットに謝れ』って」
アンナはさっきの自分の言動を思い返し、「ああ」とため息をもらしました。
「あれはちょっと、頭に血がのぼってしまって」
「うれしかったよ」
そう言うとスカーレットは立ち上がって、
「でも、あの人たちの言うことも正しい。お父様には後継ぎがいない。ここで、わたしが出て行けば、なんとかなるかもしれない」
そう言いながら、ドアのほうに歩いて行こうとしました。
「お嬢様、行く気ですか?」
「うん、アンナ。ここしばらく、本当に楽しかったよ」
「だめです。お嬢様が、本当に跡継ぎだと認められる保証はありませんし、仮に認められたとしても、不幸な生活が待っています。だから」
「なに? わたしに行ってほしくないの?」
スカーレットは笑いながらそう言いました。
――ああ、お嬢様。スカーレット。また、そんなさびしい笑い方をする。
「あんな、公爵の責任をとる必要なんてありません。あなたの責任じゃないです」
「アンナにも、わたしを引き留める責任はないはずだよ」
スカーレットの言うことは、全部そのとおりだ、とアンナは思いました。でも、ここで彼女が行ってしまうなんて、わたしはそのあと、どうすればいいんだろう? アンナは、もう、頭が爆発しそうなくらい、ぐるぐると考えがめぐっているのを感じました。そして、
「お嬢様、失礼します」
と言うと、両手でスカーレットの肩をぎゅっと捕まえて、胸元でやさしく抱きしめました。そして、押し殺すように呟きました。
「スカーレット、行かないで……」
アンナは、自分の胸元が、あたたかい液体で湿っていくのを感じました。
「わたし、スカーレットが好きです。行かないでほしいんです」
スカーレットは黙ったまま、しばらくアンナに抱かれていました。しんとした部屋に、ふたりの吐息はいたずらに響き続けて、アンナの胸元はさらにびしょびしょになっていきました。
そして、あまりに長い数分が過ぎたころ、スカーレットは腕に力をこめ、アンナの腕から抜け出しました。そのとき、スカーレットの顔には、すこし赤い目と、初めて会ったときのような、屈託のない笑顔が浮かんでいました。
「わかった、わかったよ、アンナ。わたし、行かない」
アンナは、一瞬安堵したように、疲れた笑顔を浮かべましたが、すぐに自分が今とった行動に思い至り、顔を赤くしながら、
「し、失礼しました」
と小声でつぶやきました。
その夜、貴族の一団が、街はずれのぼろ屋敷に忍び込みました。
「スカーレットを捜せ!」
そんな声が屋敷内に響き、すべての部屋はくまなく捜索されました。
「いないぞ!」
「こっちもだ!」
けっきょく、屋根裏から床下に至るまで、夜明けまで費やして行われた大捜索にもかかわらず、スカーレットもメイドも見つかりませんでした。
「スカーレットは、どこかに逃げたのだろう。メイドは、怖気づいて逃げたんだ、主人を置いて」と、貴族のひとりが笑いながら言いました。しかし、そんな軽口もすぐに無言に変わってしまいました。スカーレットが見つからないことには、かれらの立場が危ういことには変わりないので、その日の夜明けは、かれらの人生のなかで、もっとも薄暗いものとなりました。
その朝、アンナ・ジェーンの母、ロージー・ジェーンは、玄関の下に、手紙が差し込まれているのを見つけて「あら?」と言いました。すぐに拾って読んでみると、そこにはこう書かれていました。
『お母さん。突然のことになってごめんなさい。わたし、遠くへ行くことにした。スカーレットって女の子と一緒に。心配しないで。どうにかやっていく。遠くの国でまたメイドになるかもしれないし、絵でも描きながら暮らすかもしれない。なんにせよ、しばらくここには帰ってこられないかも。でも、いつか必ずわたしたちの元気な姿を見せるよ。それじゃまた。
アンナ・ジェーン』
* * *
さて、このお話はこれでおしまいです。
そのあとのサンダース公爵領は、となりのカートン公爵領に合併され、カートン公爵の手ぎわが良かったのでしょう。たいした政変もなく平穏にいったようです。(もっとも、あの貴族たちのくらしはちょっと不便になったかもしれませんが)
アンナとスカーレットが姿を消してから、十年が経過しました。その間、アンナの母、ロージーのもとに、ふたりが姿をあらわしたり、手紙を寄こしたりすることは、一度もありませんでした。
ロージーは、変わらず働いて暮らしていましたが、ある休みの日に、ふと思い立って街の市場に出かけていきました。この街の市場には、さまざまな店が出ており、そこをふらふらと歩いて過ごすことを、彼女は好きでした。この日、彼女はとある風景画が目に留まって、美術商の店で足を止めました。
「いらっしゃい!」
「こちらの絵は、どなたが書いたのかしら」
「ええと、どうでしたかね。ちょっと名前を失念してしまって申し訳ないんですが、最近よく売れてる画家ですよ。直接会ったことはないんですがね。しかし、この絵にはふたりぶんの署名があるので、合作かもしれませんねえ」
その絵には、ありふれた港町の風景が描かれていました。
抜けるような、雲ひとつない青空の下に、光をはね返して輝く海が。海に近い通りに開かれた市場のにぎわいが。市場のそばを、てんでんばらばらに行く人々のざわめきが。みごとな白色に塗られた家々の壁が。そんな、ひとつひとつの、とりとめなく、ありふれた情景が、その絵にはいきいきと描かれていました。
「アンナだわ……」
ロージーは短くつぶやきました。その絵の右下には、ふたりの女の子のうしろ姿が描かれていて、彼女の眼はそこに釘付けになりました。
彼女は一も二もなくその絵を買うと、自宅の壁に釘を打ち付けて、そこに引っ掛けました。そして、柔らかい笑みを浮かべながら、いつまでも眺めました。
この絵の右下には、描いた画家の署名と、日付が書いてありました。日付はだいたい半年くらい前のもので、美術商の言ったとおり、『L・A』と『A・J』というふたりぶんの署名がありました。そして、ロージーからは見えない絵の裏には、こうも書いてあったのです。
『S・Jに捧ぐ』
ロージーの目には、会ったこともないスカーレットという女の子の優しい笑顔が、不思議と目に浮かびました。
「アンナ、次はあっちの国に行ってみようよ!」
「だめですよ、お嬢様。こっちの船に乗るって決めてたでしょう」
ふたりのそんな会話すら、聴こえてくるような気がしました。
港町に吹くやさしい風は、絵のなかのふたりをやわらかく撫でていて、どこまでも続いていくように思われました。
スケッチブックに風が吹く 伊藤充季 @itoh_mitsuki
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