第31話 邁原勇進の得意技




 翌朝、俺は運動用の着替えやシューズ等に加え、昨日の帰宅時に買った贈答用のお菓子を持って新田家に向かった。


 父さんからも職場で風斗さんにお礼を言っておくようにお願いしておいたのだけど、朝新田家に向かうとちょうど家を出るところの風斗さんに出くわしたので、俺も直接お礼を言うことができた。


 ――で、だ。


 着替えがあるからには、そりゃもちろん着替えをする予定なのだけど、そうなると『どこで着替えるのか?』という問題が発生してくる。


 陸上競技場周りにある公衆トイレで着替えるという手段もあるのだけど、それだと着替えを新田家に置かしてもらっている意味が弱くなってくるんだよな。いや、それだけでも十分ありがたいことはたしかなんだけど。


 まぁその辺はふーちゃんが考えてくれているだろう――と、人任せな判断をしていたのだが、結局ふーちゃんの部屋で着替えることになった。


「……背徳感がすごい」


 世界で一番好きな女の子の部屋である。


 しかも、付き合っているわけでもなく、むしろ振られた状態の関係――もちろん、俺としては友達以上の関係だと思い込んでいるけど、相手がどう思っているかは断定できないことだからなぁ。


 まぁそれはいい。


 問題は、好きな子の部屋でパンツ一枚になっているというこの状況である。なにかに目覚めそうになってしまっていたので、俺はできるだけ何も考えないようにしながら素早くランニングウェアを身に着けた。


 危なかった……あのままもう少し時間が経っていたら、俺は新たな扉を開いてしまっていたかもしれない。


 そして、脱いだ制服を綺麗にまとめていると、ふーちゃんも部屋にやってきた。


 ふーちゃんはいつものジャージ姿。もっと仲良くなったら、おそろいのジャージを買ったりして――なんて妄想をしつつ、やる気満々のふーちゃんと家を出る。


 そしていつものランニングコースを走り始めた。


「なんかさ、こうして二人で走るのも慣れてきたよな」


「――ふっ、ふっ――う、うん! 最初は大変だなって思ったけど、朝、気持ちいいよね」


 ふーちゃんの走るペースは普段より少しだけ速い。だからか、いつもより呼吸をするのが大変そうだった。俺は彼女のペースが乱れないよう、できるだけ同じスピードを維持することにしよう。あと、喋るのも頑張って我慢しよう。


 いや、こっちから一方的に話しかければいいのでは……?

 そうすれば、彼女の呼吸量的には負担にならないだろうし。


「ふーちゃん、無理に返事をしようとしなくていいからね。ふーちゃんの表情の動きで、俺が勝手に気持ちを察するから」


 そう言うと、彼女は正面に目を向けたまま、笑顔で頷く。


「……ふむ、いまのは『ありがとう! 邁原くん大好き!』って感情だな。俺も大好きだよ」


「え!? うそ!? なんで――ちが、いや、言ってない! 思ってない思ってない思ってない! ち、違うもん!」


 立ち止まり、ふーちゃんが大層慌てた様子で俺の胸に手を置く。息切れしつつ俺の顔を見上げるふーちゃんの姿を見ると、寿命が十年延びた気がした。


 うん、俺もさすがに違うだろうなと思いつつ、口にしてしまったんだよ。


 俺のふーちゃん大好きフィルターが、こちらの希望を読み取ったものを網膜に映してしまったらしい。なんてはた迷惑な。


「あははっ、ごめんごめん。さ、走ろうか! 朝の時間は限られてるんだぞ」


「ま、邁原くんが悪いんだからね! もう! もう!」


 ぺしっと俺の胸を叩いてから、拗ねたようにそっぽを向くふーちゃん。


「可愛いすぎかよ」


「もぉおおおお!」


 また叩かれた。もう一度『可愛すぎる』と口にしてしまいそうになったが、エンドレスになる未来が見えたので、唇を噛んで動きを封じた。ちょっとだけ、血の味がした。



 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆



 学校に行く前の運動は、体力づくりのためのランニング。


 放課後はリレーのために、短距離走の練習をすることになっていた。試しにスマホのアプリを使って50メートルを大まかに測り、ふーちゃんのタイムを計測してみたところ、10秒ジャストだった。


 多少のズレはあるだろうけど、女子の平均を考えるとそこまで悲観するようなタイムでもないと思う。走り方とかを調整したりすれば、体育祭までに九秒台前半ぐらいには届きそうな感じがした。


 そして、走るフォームなどを見直してから、一日の終わりにもう一度タイムを測ろうとしたところで――、


「――――っ!?」


 ふーちゃんがこけた。足が絡まってしまい、前方にダイブするような形で地面の砂を巻き上げる。


「ふーちゃんっ!」


 名前を呼びながら、全力で走って彼女の元へ。ふーちゃんは痛みよりもこけたことが恥ずかしかったようで、顔を赤くしながら「だ、大丈夫だよ?」と笑顔を見せてくれた。


「足は……大丈夫そうだな。手からついていたから――あぁ、やっぱり、皮がむけちゃってる」


 いちおう、ふーちゃんにジャージの裾を膝までまくって見せてもらったけど、どこも赤くなっておらず、本人も痛みはないと言っていた。しかし、左手の手のひら――手首に近い根本のほうが、擦り剝けて血がにじんでしまっている。


 表面の傷だけで手首にも痛みはないようだが、いちおう気にかけておいたほうがいいだろう。


「ひとまず、早急に傷口を洗いながそうか。歩けそう? あれだったら、俺がおんぶでもお姫様だっこでもするけど」


 そう言うと、ふーちゃんは一瞬頷きかけて、すぐに横に振った。ハプニングで混乱して、首を振る方向を間違えてしまったのかな?


「あ、歩けるから、大丈夫です――ごめんね、迷惑かけちゃって」


「気にするなって。あとで俺の得意技『痛いの痛いの飛んでけ』をしてあげよう。夕夏――妹にも効き目あるって言われているんだぞ」


 この年になってやるのは少々恥ずかしいが、ふーちゃんのためであれば些末な問題だ。

 ややドヤ顔になりつつ俺がそう言うと、ふーちゃんはどこか懐かしむような表情になってから、


「……うん、知ってるよ」


 俺を見上げて、小さな声でそう言ったのだった。


 いや、ふーちゃんはまだ知らないだろう。俺は高校になってからこの得意技を使ったことがないのだから。まぁ、それだけ俺の信頼度が高いと思われていると喜んでおこうか。


 最後に『痛いの痛いの飛んでけ』を使ったのは、はたしていつだったか――夕夏が小学生のころ、木から落ちて骨折したときか? いや、そうじゃないな。もう少しだけ最近のものがあるか。


 それも、なんの偶然か、この陸上競技場の近くで。


 中学時代、サッカーの練習試合でこの場所を訪れたとき、膝をすりむいて涙目になっていた見知らぬ少女に、使った記憶が。



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