歌姫Ⅰ

『わたし』が手術室から飛び出したとき、父は汗まみれの顔いっぱいに喜色を浮かべた。

「おお! スノウ=ホワイト様! ご無事でしたか!」

「い、いえ……先生!」

 初めて出した声は、私のものでも、そして『わたし』のものでもなかったように感じられた。

「ギデオン先生が……!」

「む、息子がどうかしたかね?」

 安堵から一転、不安の色をにじませる父に、『わたし』は即興で作り上げた悲劇をまくしたてる。

「外に集まっている方が投げたレンガが窓ガラスを砕いて、それがそのまま――」

 そこまで聞くと、父は『わたし』を押しのけるようにして手術室に飛び込んだ。

 その後についていった私の視線の先には、頭部を砕かれた『私』の死体と、それに縋りついて慟哭する父の姿があった。

 咽び泣く父の姿を見て、ほんの一瞬だけ、瞬きをする間の刹那の時間だけ、自分がした取り返しのつかないことへの悔恨の念が過ったが、それはすぐにどす黒い覚悟の泥に呑み込まれて消えた。



 舞台袖へ逃げ込んだのは、なにも戦闘を避けるためではない。

 ヴィンセント・ヒーリィ。

 私はあの男を知っている。

 何の因果か、これまでに三度も命の応酬をした間柄だ。

 一度目は三年前、奴の部屋で。二度目はフェイギンの事務所で。そして三度目は、三年前と同じフラット、サイクスの部屋で。

 ドレスの隠しポケットの中に仕込んでいた義眼を取り出すと、私は自らの左目に嵌めていた日常生活用の義眼とそれを入れ替えた。

 この奇妙な金色の義眼は、この三年間の旅の中で偶然出会ったものだ。

『義眼商人』を名乗る奇妙な男からこの義眼を手に入れた時、私はこの義眼に特別な能力があることを知った。

 目を合わせた相手を虜にし、一切の身動きを封じる禁断の能力。

 それは、私の復讐劇にはなくてはならないものだった。



 あの日、ロザリアが握っていた趣味の悪いペンダントから、私はある高利貸しの男を割り出した。ウェネキアで奴の臓物を一つ一つ引きずり出しながら、私は奴が三兄弟の長男であること、そして三兄弟こそがロザリア殺害の下手人であることを知った。

 同時に、あの日、私はロザリアの脳だけを取り出して『生かし』ていた。ズタズタにされたロザリアの体を修復するのは、私の手をもってしてももはや手遅れだったのだ。

 だが、体などはまた集めればいい。

 金持ちばかりが美しい体を手に入れることのなんと不公平なことか。

『わたしがスノウ=ホワイトくらい美人だったなら』

 ロザリアのそんな言葉が、頭から離れない。

 ならば、実現させてしまえばいい。彼女の脳はまだ生きている。体のパーツが集まってしまえば、彼女は美しい姿で蘇るのだ。

 かくして、二つの復讐の旅は始まった。



「ヴィンセントッ!」

 私を追って舞台袖に飛び込んできた長身の男に対して、私はそう呼びかけた。

 名前を呼ばれると、人は無意識に目を合わせようとするものだ。

「なんだ変態野郎ッ!」

 しかし、あろうことかヴィンセントは真っ直ぐとこちらの目を睨み返してきた。

 駆け込んできたままの姿勢で彼の体はピタリと止まったが、私が攻勢に移る前に鋭い痛みが左腕を襲った。

「ぐっ……!」

 痛みに思わず視線を揺らがすと、途端に眼前の男が動き始めた。

 慌ててその辺の書割を盾にして身を隠すも、次々に放たれる空気弾が盾を貫通していく。

「目を合わせてから体の動きが止まるまでに一瞬の猶予があるな! その間に二発は打ち込めるぜ!」

 わざわざ聞こえるように言うのは、こちらの勢いを削ぐために違いない。

 だが、こちらだって義眼にのみ頼ってやってきたわけでない。

 杖に血を充填してから、私は書割から飛び出した。

 風と氷のぶつかり合いで、空気が破れるような不快な音が鳴り響く。

「舐めるなよ。私は一流の魔法使いだ」

「一流?」

 真っ直ぐと向かい合った男は、蜘蛛のように優雅な、そして狼のように獰猛な顔をしていた。

「なら俺は超一流だ」

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