外科医Ⅲ

スノウ=ホワイトの公演に出かけるため、病院は夕方に閉めることになった。

 VIPチケットを渡したときの父の喜びようと言ったら、とても見られたようなものではなかった。

「ギデオン! このチェスターコートの色はどうかね? 少し派手かな?」

 臙脂色のサテン製チェスターコートを羽織ってそう話しかけてきた父に空返事をしながら、私は病院の裏口に向かっていた。

「こんな時間に外出か? あと二時間もすれば開場だぞ」

「……公演が始まれば三時間は座りっぱなしです。さっきまで手術室にいたんだ、少し外の空気を吸っていきたいんです。席で待ち合わせにしましょう」

「う、うむ……構わないが……」

 困惑気味の父を背に、私は病院を後にした。



 例の公園に行っても、ロザリアの姿はなかった。

「……少し遅かったか」

 いつもは昼下がりにここにいるはずだ。

 夕方から病院を閉めることになったから、その分午前中に仕事が集中して昼休みが取れなかった。

 わざわざ孤児院まで行ってロザリアを呼び出すわけにはいかない。チケットを渡したことは、孤児院の他の子供には知られない方がいいだろう。

 そうなるとなぜか自分が悪いことをしているような気分になってくる。いっそ今からでもロザリアのことは忘れてしまおうかと思ったりもしたが、昨日の大立ち回りを思い出すとそれを無駄にもしたくない気もする。

「もう少し探してみるか……」

 公園を離れた私は、かつてロザリアが『ほかの花売りたちの縄張り』と言っていた大きな公園へと向かった。

 木の枝は剪定され、芝生も整えられている。花壇には四季を通じて途切れることもなく花が咲き続け、ベンチは暖かな日の光に照らされている。

 私が昼寝しているあの場所とはえらい違いだ。

 日も沈みかけている。ピクニックをしていたであろう親子連れも、シートを畳んで帰り支度をしていた。

 公園から人がいなくなる時間だ。花売りだってもうここにはいないだろう。

 懐中時計を見ると、夕方の五時だった。開演は六時だから、もう一時間も歩き回ったことになる。

やはり、あてもなく街を歩き続けるのはいい選択だとは思えない。諦めて孤児院の方へ行こう。

 ロザリアに招待状を渡した上で、断られたのならそれでも仕方はない。

 私はただ、自分だけが特別な栄誉の対象となるのが嫌なだけだ。



 クローバーフィールド孤児院は、ラングトンのはずれに静かに立っている。

 私が昼寝をしている公園からは、歩いて一時間もしない場所だ。

 丈夫な石造りの建物に、小さな窓が多くついている。小部屋が多いから、窓も小さく作らなければいけないのだろう。

 きっと子供たちが植えたであろう花が、控えめな庭に咲いていた。そこではモクレンも、ミモザも、そしてブルーベルも風に揺れている。

 さて、どうしたものかと思っていると、エプロンをした女性が正面の扉を開けて姿を現した。私の姿を見て、少し戸惑った様子だ。

「なにかご用でしょうか?」

 明らかに仕事中だろう。あまり邪魔をしてはいけないと思い、私は彼女を警戒させないように控えめに要件を切り出した。

「いえ……こちらにロザリアという娘がいると聞いたのですが――」

 ロザリアの名前を出した途端、養護婦の女性は一層戸惑いの色を濃くした。

「彼女がなにか……ご迷惑を?」

 しまった、と私は思った。

 こういった場所に直接、私のような、少なくとも貧困者ではない恰好の人間が訪れることはあまりないはずだ。わざわざ訪れる場合と言えば、きっと施設の子供に対するクレームなのだろう。

「いえ……ただ、渡したいものがありまして。ここへ帰って来ていますか?」

「それが――」

 と、女性は口澱んだ。

「いつもならもう花売りから帰って来ている時間なのですが、今日はまだ戻っていないのです……」

 なにかご存じですか? と問われて、私は口を噤んだ。

 まだ帰っていない?

 なぜだか分からないが嫌な予感がして、私は何度か自分の拳を握りしめた。

「また、伺います」

 それだけを言い残して、私はその場を離れた。



 当てがあるわけでは決してなかった。

 ただ、私は突き動かされるようにラングトンの暗い路地裏を駆けていた。

 陰鬱とした路地の奥に何もないことを確認するたびに、私は嫌な予感が当たらないように心の底から祈っていた。

 ラングトンは、世界でも最も文明的な町だ。

 もはやこの世の覇権を握っていた時代は過去のものであるが、それでも、この町こそが世界の最先端だ。

 だが、決して穢れがないわけではない。

 いつか来た、スラム街すれすれの通りにまで足が及んだとき、私は背筋にぞわりとした悪寒を覚えて立ち止まった。

 血の匂いだ。

 職業上、一日中嗅いでいることもあるものだ。間違えるはずもない。

 途端に鼓動が高まり、息が荒くなる。

 辺りに人気はない。あともう数歩歩けば、また一つ路地がある。匂いはそこからする。

 頼む……野良犬か鼠の死体であってくれ……

 ふらつきながらも歩みを進めて覗き込んだ路地の先には、私をあざ笑うかのように人の死体が転がっていた。



 見間違えるはずもなく、それはロザリアだった。

 普段なら人の死体を見ても平静を保てる私であったが、今回ばかりはそうはいかなかった。

 手綱で繋がっていた自分の理性を手放したかのように私は彼女の死体に駆け寄って、服が汚れるのも気にせずにその場に座り込んだ。

 慌てて彼女の首筋に指をあてるも、その冷たさに絶望する。

 脈を確認するまでもなく、彼女は文字通り、完膚なきまでに死んでいた。

 死体はひどく損壊されていて、赤い血に塗れている。

 何よりも、彼女の衣服は無残にも引き裂かれていて、死に瀕するまでの間どのような目に遭っていたかは容易に想像できた。

 

 まるで、突然深い穴に突き落とされたような心地だった。

 手足を振り乱してもがこうが掴める場所はなく、ただ深い闇の底に突き落とされるような感覚。

 辛うじて私を現実に繋ぎ留めたのは、他ならぬ私自身の手だった。

「…………」

 そうだ。何のために今まで医学を学んできた。

 醜い貴族どもの瞼を切り、歪んだ鼻を削ぎ落していた間、私が望んでやまなかったものはなんだ?

 脱力しきっていた手足に熱が戻って、私は震えながらも立ち上がった。

 鮮血に沈んだロザリアの体を抱え上げようとすると、彼女がその手に何かを握っていることに気が付いた。

 血に濡れながらも銀色の輝きを放つそれは、趣味の悪いペンダントだ。

 私はそれをズボンのポケットにしまい込んでから、自分のコートをロザリアの体の上にかけて、それから彼女を抱え上げた。

 遠くでビッグ・ベンの鐘の音が聞こえる。

 六時を告げるその音の意味にも、私はまったく気が付かなかった。


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