外科医Ⅱ

「思ったより早かったですわね」

 私が屋敷を出たときと寸分違わぬ姿勢で応接間の椅子に座っていた女主人は、例によって口元だけに笑みを浮かべてそう言った。

 屋敷の中はほとんど片付いていて、もうここを発つ準備はほとんど整っているようだった。

「爪の移植に必要な血液は集まりまして?」

 私はチェスターコートから空の瓶を取り出すと、それを彼女の目の前のテーブルに置いた。

「まあ……招待状は諦めることにしましたの?」

「いや――」

 彼女の言葉を否定してから、私はチェスターコートを脱ぎ捨てた。

 中に着ていたシャツには、男を負傷させた際に飛び散った血が付着している。

 返り血を浴びたまま大通りを歩けるわけがない。私は裏路地に捨ててあったマントを身にまとってここまで来ていた。

「瓶に詰めるのは失敗しましたが、これだけの量の新鮮な血が集まったのは確かです。望み通り、貴女のフィアンセの爪を、貴女の薬指に移植いたしましょう」

「布に沁みた血でも問題ありませんの?」

「……このままでは用を成しませんね」

 言いながら、私は返り血で汚れたシャツを脱いで肌着姿になった。

 貴族の前で突然脱ぎ始めるとは礼儀知らずもいいところだが、そんなことをしている場合ではない。

 アドレナリンの影響か未だに震える手で短杖を取り出すと、私はゆっくりとトリガーを引いた。

 杖に沁み込んでいた私のラベンダーブルーの血が、脱いだシャツの上にぽたりと垂れる。

 ここへ来る間にも乾いていた返り血が、私の血が混じったとたんに潤いを取り戻し始めた。黒ずんでいたそれは、やがて鮮やかな杜若色を取り戻す。

「まあ! まさにこの色ですわ! 思わず身に纏いたくなるような高貴な杜若色!」

 興奮の色を隠せないエリザベート侯爵は、椅子に座ったまま拍手をした。

 白い手袋に包まれた手から響く乾いた音が、豪奢でありながらもひどく殺風景な部屋に響く。

 私は興奮した彼女を(しばし術後の興奮状態にある患者に対してと同じように)無視して、瓶の中に納められていた薬指の爪を取り出した。

 カサカサの爪からは微塵の生命力も感じられないが、私の魔法にかかれば問題はない。

 蘇った返り血にそっと爪を浸すと、たちまち杜若色の血は爪に吸い込まれていった。まるでヤドを見つけたヤドカリのようだ。血の方が居場所を知っているかのようだった。

「これで移植が可能になりました。後は貴女の薬指に麻酔を打って爪を――」

 と私が言い終わる前に、紙を破った時のような音がした。

 音の方に目を向けると、女侯爵はすでに己の左手から薬指の爪を剥ぎ取り終えているところだった。

 見るも鮮やかな青い血が滴ってカーペットに染みを付ける直前に、控えていた護衛の者が白いハンカチでその雫を受け止める。

「……ご協力ありがとうございます」

 今すぐにでも立ち去りたい気持ちを抑えて、私は侯爵の手を取った。

 だくだくと血が流れだす薬指に、復活した爪をそっと差し込む。

 自分の目から隠すように侯爵の指をガーゼで包み、包帯で巻いてから、私は冷静さを装ったまま話始める。

「三十分ほどすれば、爪が定着して血が止まるでしょう。以前もお話しましたが、今感じている痛みは今後も消えることはありません」

「ええ……ええ……感じますわ。鋭い痛みを……素晴らしい」

 うっとりと己の薬指を眺めながら、女主人は吐息を漏らした。

 報酬を求めてもいいものかと声をかけても、彼女は何も答えない。

 ただ、まるで置物のように彼女の傍に侍ていた部下の者が、私に対して恭しくなにかを差し出してきた。

 それは一枚の招待状だった。

 裏には招待状を譲渡する旨と、見まごうこともないフレーダー家の薔薇の紋章が刻まれている。

 受け取った私に対して、部下はただ深々と一礼した。

 用も済んだところだしさっさと出ていけということなのだろう。彼女らは今日、ここを発たなくてはならない。

 血が抜けて幾分か綺麗になったシャツを身に纏って、私は逃げ出すように応接間を離れた。

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