外科医Ⅰ

「蜘蛛のように優雅で、狼のように力強い殿方ですの」

 応接間で、エリザベート侯爵はうっとりとした様子でそう言った。

「それでいて目の奥には子羊のような怯えた光が時折煌めきますの。ああ……なんて逞しくも可愛いお方……」

 ……これは、必要のない情報だろう。

 ともかく、私はその言葉を思い出しながらラングトンのスラム街へと向かっていた。

フレーダー侯爵から得た情報の内、有用なものは以下の通り。


・かなりの長身で、その上痩せている。

・そこそこの高魔力者で、風魔法の使い手。

・元軍人で、理由は不明だが除隊となっている。

・どこへいくにも必ずハンチング帽を被っている。

・スラム街との境に建つフラットに住んでいる。


 元軍人というのは雰囲気で分かるものだ。彼らは皆一様に、傷心を隠そうと横柄な所作を取りたがる。誰にも命を狙われる心配がなかろうと、一度取り憑いた死神は決して離れない。

 このラングトンは、行き場を失った若い軍人たちで溢れている。身も心も傷ついた彼らに救いの手を差し伸べようというつもりは、今のところ国からは感じられない。

 日は陰り、通りには街燈が灯りだす。

 目的のフラットがあるのは通りをはずれた路地の向こうだ。

 一歩でも大通りを外れれば、そこは街燈の明かりなど届かないネズミの巣だ。普段なら決して足を踏み入れない場所だが、こうなっては仕方がない。

 私は内ポケットにしまった短杖を服の上から触って確認した。いざとなれば、実力行使も必要だろう。

 どうしてこんなことをしているのだろう。

 そんな疑念はフレーダー邸を出たときから振り払っている。

 偽善だろうと、ここまでくればやり遂げるしかあるまい。

 あの恐ろしい女主人からの依頼を途中で投げ出せば、オルクシャールへ行こうがなんだろうが、私や医院がどうなるかなど想像するまでもない。

 薬指の爪の元の持ち主はあの貴族の用心棒をしていたようだが、大方恐ろしさに負けて逃げ出したのだろう。爪だって、辞表の代わりに剥ぎ取られたに違いない


 そんなことを考えていると、私は自分が目的のフラットの前に立っていることに気が付いた。

 建物そのものから黴臭い匂いがして、ここで寝起きすることを考えるだけで怖気が走った。

 目的の男の部屋は、ここの二階だ。

 今にも腐り落ちそうな階段に足をかけると、ぎぃぎぃと不快な音が鳴る。

 申し訳程度に壁に掛けられたガス燈に照らされた廊下には、酒瓶やら得体のしれないゴミやらが転がっていた。カサコソと音がするのは、ゴキブリかネズミだろう。

 二階の廊下の先に目をやると、部屋の前に佇んでいる背の高い影があった。

 ハンチングを被っていた。薄明りの中にねずみ色のチェスターコートがぼんやりと浮かび上がっている。

 間違いない。あの男だ。

 向こうは私の姿に気が付いていないようだった。

 いきなり闇の中から声をかけては警戒されるだろう。どうしたものだろうか。

 そう思って彼を観察していると、私はあることに気が付いた。

 男は右手に短杖を握っていた。黒い大型のものだ、日常使いのモデルではない。

 ハンチングの下で神妙な顔をしたまま、男は左手でドアノブに手をかけている。

 その様子を見て、私はある可能性に気が付いた。

 あんな風に自分の部屋に入る人間がいるだろうか?

 あれは、他人の部屋に押し入って強盗を働こうという算段ではないのか?

 音も立てずにゆっくりとドアを開けて部屋に侵入していった男の姿を見て、私は廊下を早足で進み始めた。

 今から警察を呼んでも間に合わない。そもそも、こんな場所に警察は無関心だ。

 いくらこんな貧民区でだって、最低限の秩序はあってしかるべきだ。

 凶行を止めようと、私は暗い部屋に飛び込んだ。

 パンッ!

 短い破裂音と共に、左頬に鋭い痛みが走る。

 倒れ込むようにソファの裏に隠れた私は、反射的に先ほどまで自分が立っていた場所に目を向けた。

 ドアの横の壁に小さな穴が開いて、ガス燈の光が漏れている。

 風魔法だ!

 私が倒れ込んだ勢いでドアが閉まってしまい、部屋は完全な闇に閉ざされた。

 どっと冷や汗が湧き出して、後悔の念が脳内に泉のように湧き出す。

 相手は元軍人だ。私ごときが取り押さえられるわけがない。考えなしに先走ってしまった。

 ハンチングの男も私の姿をはっきりとは見ていないのだろう。パニックになることもなく暗い部屋の中をゆっくりと歩いているらしい。男が履いていたブーツが床を軋ませる音が闇の中で響いている。

 内ポケットに手を突っ込むも、手が震えて杖が握れない。くそ……なにがいざとなったら実力行使だ……

 そうこうしている間にも、男が部屋の入り口のドアの前に立った。私を逃がさず、この場で処理するつもりだろう。今から交渉などできるわけもない。

 男が少しでも顔を下に向ければ、そこには私が倒れている。見つかってしまえば、一秒もしない間に眉間に風穴が開くことになるだろう。

 杖を諦めた私は、ポケットに入っていた『それ』を闇雲に男に投げつけた。

「……ぐッ!?」

 一か八かの判断は、どうやら間違っていなかったらしい。

 『それ』は男の体を浅く傷つけたようで、驚いた男は二、三発空気弾を放ってその場に尻もちをついた。

 チャンスだ!

 脳がそれを理解した途端にアドレナリンが急激に分泌され、私はばね仕掛けのように飛び起きた。

 ドアが塞がれているなら、脱出口は一つ。

 私は微かに光が漏れている方に飛び込んだ。

 カーテンレールとガラスが一度に壊れる音がして、私は真っ逆さまに窓から墜落した。

 カーテンに包まれていたとはいえ二階の高さだ。落下の衝撃で肺の空気が全部押し出されて窒息しそうになる。

 だめだ、明るいところにいては風魔法の的にされる。

 力を振り絞って立ち上がると、私は大通りの方へと駆け出した。

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