示談屋Ⅱ
俺は森の中に立っていた。
子供の頃の俺じゃない。
俺は軍服を着ていて、手には短杖が握られている。
どしゃぶりの雨が降っていて、水滴が木の葉を打つ音がけたたましく響いている。
俺の口の端からはやけに白い息が漏れていて、そして地の底から響くような獣の唸り声がどこからか響いていた。
目の前では男が倒れている。
俺と同じ軍服を身に着けている。
うつぶせに倒れている男の腹から血が零れ出ていて、水たまりと混じって巨大な血の池を作っていた。
血の池は少しずつ広がっており、俺のブーツの先も血に漬かっている。
この男は誰だ。
俺が殺したのか?
同じ軍服の人間を殺してはいけない決まりだ。
だが、目の前の男を殺したのは間違いなく自分であるという確信が、俺にはあった。
寒い。
指の先の感覚がなくなるほどの冷たさだ。だというのに、口の端から漏れ出る息は炎のように熱かった。
どこからか響いてくる獣の唸り声は狼のものだ。
眼前の死体の男が何者なのかは全く見当がつかない。
俺は誰だ?
雨の勢いはますます強くなって、血だまりもますます大きくなっていく。
気が付けば、俺は血の池の中心に立っていた。
血だまりは不可解なほど膨れ上がって、俺は踵まで血に浸かっている。
足元を見ると、血の池に俺の姿が反射していた。
そこに映っていたのは狼の頭をした俺だった。
隻眼で、ぬらぬら光る眼球が俺を睨み返していた。
どこからか聞こえていたと思った狼の唸り声は、俺の喉から響いていた。
そこでようやく、目の前に転がっているのが他ならぬ俺の死体であることに、俺は気が付いた。
途端に、男の腹に空いた穴から炎が噴き出す。ピクリとも動かない死体を、やがて炎は覆い尽くした。
自分の意志とは関係なく、俺は顔を真っ直ぐとどしゃぶりの空に向ける。
大きく息を吸った俺は、自分がこれから遠吠えをすることを知った。
「おおおぉぉおッ!」
飛び起きたと同時に、俺は脳の芯まで覚醒していた。
散乱したゴミと服、漂う酒と煙草とカビの匂い。
そこは俺の部屋だった。
「…………」
久々に同じ夢を見た。
久々に人を殺したからだろう。
ベッドの上に座ったまま、俺は何度も自分の顔を掌で擦った。
脂汗が止まらず、動悸も収まらない。一度こうなってしまっては、もう寝られないだろう。
確かベッドの下にスコッチの瓶があったはずだ……
窓から差し込む薄い月明りの中、手探りで酒瓶を探していた俺は、部屋の中で物音がするのに気が付いて手を止めた。
椅子の上に丸くなった女が立てていた音だ。
そうだ、イルミナとかいう義眼職人を部屋に入れていたのだった。
途端に馬鹿らしくなって改めて酒瓶に手を伸ばそうとした俺は、イルミナがうなされていることに気が付いた。
「……う、うぅ」
椅子の上で小さくなったイルミナは、時折震えながら微かにうめき声を上げていた。
女の義眼職人が一人で旅をしているという時点でおかしな奴だが、両目とも義眼というのもこいつのおかしさに拍車をかけている。
こいつが言っていた究極の義眼がなんとかという話は半分くらいしか信用していないが、俺を騙そうとして近づいて来ているわけではないことだけは、なんとなく分かる。
「……あ。うぁ……」
「……おっと」
ビクッとイルミナが体を震わせたと同時に、足の折れていた椅子が大きく傾いた。
倒しておけばいいものを、俺は思わず椅子の背を支えてやった。
……ひょっとすると、上っ面の奇特さばかりに目が行っていたが、こいつも心になにか大きな傷を負っているのかもしれない。
そもそも、この年頃の女が両目とも義眼なことがあるか?
椅子を戻してやって、俺は額を袖で拭った。
こいつは、半年間も一人で、わずかな手がかりをもとに義眼を探し歩いているらしい。
おそらくは赤い血の低魔力者で、徒手空拳で戦えるようにも見えない。
こいつの話を信じるなら、頭のおかしい師匠の尻拭いをしようと考えているらしいが、なにがこいつの原動力になっているのかさっぱり理解できない
理解できないが、ともかくこいつはこうしてラングトンにまでやってきて、部品泥棒の尻尾を掴むためにギャングにまで捕まっている。
もがくわけでもなく、見切りをつけるわけでもなく、軍を放り出されてから四年以上もラングトンでくすぶり続けている俺からしてみれば想像もできないような歩みの進め方だ。
「……」
どうせ俺はもう寝られない。
椅子の上のイルミナをそっと抱え上げると、俺はシミだらけのベッドの上にイルミナを移した。
寝心地がいいわけもないが、椅子の上よりはいいだろう。
代わりに自分が椅子の上に収まると、俺は右手の親指と人差し指で眉間を抑えた。
二つ返事で部品泥棒探しに手を貸すと言ってしまったが、俺の目的は一体なんだ?
ベラトニックの連中の怒りを鎮めるため? 我が身の安全のため?
どれも間違いないが、どれも核心ではない。
イルミナからの提案に、バカな魚みてえに食いついた理由はなんだ?
何年も自分を誤魔化し続けてきた結果、自分の本心すらも分からなくなっちまった。
幾分かうめき声も小さくなって、すやすやと寝息を立て始めたイルミナを眺めながら、俺は何度目かのため息をついた。
夜が明けたら、あの金色の目を持つ怪人とやり合わなくてはならない。
俺は腰の右側のホルスターに触れて、それから鼻を鳴らした。空っぽのままでは立ち行かない。
ぼんやりと月明りが照らす部屋の隅、俺は積みあがったゴミを押しのけてキャビネットを発掘しだした。
その最下段に、そのチェリー材の箱は収まっていた。
こんなゴミ箱のような部屋において、その箱だけはまるで新品のように、わずかな月明りを反射して輝いていた。
実際に、何年もこの箱には触れていなかったのだから当然だろう。
箱には小さな鍵穴がついている。
俺はベッドの上で寝息を立てている義眼職人のほうをちらりと見遣ってから、椅子の上に置いてあったハンチングを取り上げて、そのツバの裏に指を指し込んだ。
硬くて冷たい感触がある。摘まみだすと、それはメッキの剥がれかけた金色の鍵だ。
「…………」
箱のことは忘れようとすら思っていたのだが、この鍵をこうも肌身離さず持ち歩いていた己の未練がましさに呆れる。
深く考えるとまた尻込みしそうだ。
俺は勢いに任せて鍵を箱に差し込んで、努めて素早く箱を開けた。
そこに収まっていたのは、夜の闇よりも深い黒を湛えた黒檀製の短杖。
右手に掴むと、その冷たさに驚く。杖に拒絶されているような気すらする。
「血に汚れ過ぎたか?」
訊いても杖が返答をするわけもないが、わずかな月明りを反射して鈍く光る杖身は、俺の問いに首肯しているようにも思えた。
「お前を手に取るからには、もうあんな真似はしねえさ……」
心拍が上がるのを抑え込むように、俺は短杖を無理やり箱から引っ張り出すと、さっさとホルスターに収めた。重い。
「……関係修復には時間がかかりそうだな」
ホルスター越しに短杖に触れながら、俺は自嘲気味にそう呟いたのだった。
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