プロローグC:外科医

「それで、ご要望はなんでしょう」

 機械的な、そして形式的な丁寧さで、若い外科医はそう尋ねた。

 最低限の礼儀で、最低限の質問で、つつがなく職務を執行するためだけの問答だ。

 外科医は、エミグラント人の特徴である白い肌も、金色の髪も、そして青い瞳も持ち合わせていなかった。褐色の肌に、黒い髪、そしてトパーズのような瞳は、はるか遠い海の向こう、ヒンディア人の特徴である。

 香辛料の一大産地であるヒンディアは長い歴史を持つ国だが、今ではエミグラント連合王国の植民地である。

「貴方がラングトンで一番の名医だと聞きまして、ぜひともお願いしたいことがありますの。お抱えの医者でも手に余るようなものでして、本当困っておりますのよ」

 外科医に対面するのは、彼とは対照的に完全なエミグラント人だ。

 頭のてっぺんからつま先まで、すべてにおいて洗練された、そして装飾されきった、れっきとした貴族の若い女であった。

 煌びやかなその姿とは裏腹に、青い瞳の奥には暗い影が宿っている。

「わたくしの『要望』については、決してこの部屋以外では口外していただきたくありませんの。よろしくって?」

「……医者には守秘義務がありますから」

 外科医が短く答えると、貴族の女は口の端をゆっくりと吊り上げた。笑顔と呼ぶには、その目に宿った光はあまりに剣呑すぎる。

「さすがはギデオン先生。噂に違わぬ誠実さですわ」

 その名で呼ばれて、外科医は一瞬だけ眉間に皺を寄せた。大仰な名前だ。二十数年生きているが、いまだに呼ばれるたびに顔が強張る。

「本来はわたくしのお屋敷にお呼びするのが礼儀なのですが、いろいろとその、政治状況の変動もありまして、この度オルクシャールのほうへ住まいを移すことにしましたの。急な話で、お屋敷の方が大騒ぎでとてもお招きできる状況ではありませんのよ。せっかくあの〈スノウ=ホワイト〉の公演チケットを手に入れたといいますのに、公演当日にはもうラングトンを発たなくてはなりませんの」

「なるほど、そうでしたか」

 ギデオンにとって、それはどうでもいいことであった。貴族特有の、表面的な会話を通じて腹を探り合うような真似は嫌いだった。

 それに、目の前に座る貴族の女は、代々王室の『裏仕事』を担ってきたという黒い噂の絶えない一族の現当主だ。機嫌を損なって面倒ごとに巻き込まれるのは御免被る。

「それでは、フレーダー侯爵。本題に入っていただきましょうか」

「まあ! そうね、先生は忙しいですものね。わたくしとしてはもう少しこの素敵な診察室にいたいのですが……」

 口元に手を当てて、女侯爵はくすくすと笑った。

 ギデオンはそれを揶揄と取った。

 二人が話しているこの診察室は、病院の一室というには華美に過ぎる。

 清潔感と機能性以外は不要なはずの診察室には、あろうことかティーテーブルまで用意されている。この場の目的が『治療』以外にあるということは明確だった。

「なんでも、ギデオン先生は特別な魔法の使い手だとか……」

「……ええ、まあ」

 個々人の魔法の性質は、等しく遺伝によって決定される。両親の血液型がどちらも水型なら子供も水型だし、片方が水型でもう片方が火型なら、その子供は水型か火型どちらかを受け継ぐ。

 単純な話ではあるが、基本的な四血液型においても個々人の個性というものがある。氷結魔法が得意な水型の人間もいれば、霧魔法が特異な水型の人間もいるというわけだ。

「切り分けた人体のパーツを永久に『生かしたまま』保存できるなんて、まさに神の御業ですわね」

「……」

 ギデオンの持つその特異な水魔法の性質こそが、この病院から病院らしさを奪っている理由でもあった。

「とはいえ、他の『お客様』と違ってわたくし自身の体の部品(パーツ)を交換していただくために来たのではありませんの」

 フレーダー侯爵は、入室した際から常にその胸に抱えていた小さな黒い箱を掲げた。

「オルクシャールへ移るにあたって、どうしても手放せないものがありまして……『ナマモノ』ですから、どうしてもギデオン先生のお力添えをいただきたいのですわ」

「……それは一体なんでしょうか」

 碌なものではないだろう。ギデオンは少なからず覚悟を決めてそう尋ねた。

 死んだペットの体を保存してほしいという依頼だろうか、それとも、もっとおぞましい依頼だろうか。

 態度には出さないまでも身構えたギデオンは、侯爵が箱から出した『それ』を見て、むしろ安堵した。

 箱から取り出されたのは、瓶に入れられた人間の爪であった。

「フィアンセの薬指の爪ですのよ」

 貴族の女はうっとりと微笑んで、その細長い指を眺めていた。

「永遠の愛を誓ったものの、突如として訪れた悲劇によってわたくしたちは引き裂かれてしまいましたの。これは、彼がわたくしに残してくれた愛の印……ギデオン先生には、これをわたくしの薬指に移植してほしいのですわ」

 できますわよね?

 と聞かれた褐色肌の外科医は、冷静を装って「午後までに検討してみます」と答えるほかないのであった



「二度とあのような客を寄こさないでください」

「まあ、まあ、ギデオン。相手はエリザベート・フレーダー、あのフレーダー家の当主様だ。報酬金もたくさん頂いたのだよ」

「そういう問題ではありません!」

 私が声を荒げると、父さんは困ったように苦笑した。

 ジェイコブ・ナイスフェローは私の父親だが、褐色の肌も黒い髪も持ち合わせてはいない。

 彼は生まれながらにしてエミグラント人なのだから、それも当然だ。

 つまるところ、彼は私の生みの親ではないということなのだが、それでも私は彼を父と呼ぶ。

「父さんが貴族たちからの依頼を断れないというのなら、私が窓口になります。ここは病院で、治療が必要な患者を救うための場所です。決して貴族の道楽を手助けする場ではありません!」

「わかってる、わかってるよ、ギデオン」

 バツが悪そうに口髭を撫でながら、父さんは頷く。いつもこうだ。

「でもね、町医者ならそこら中にいるし、ラングトンには腕のいい外科医も多い。間違いなく、エミグラントでは一番、ラングトンが安全な町だ」

「……だから、私には貴族の遊び相手になれと?」

「そうは言っていないよ、ギデオン……」

 父さんはため息をついた。派手なソファを指さして、「座って話さないか」と私を誘う。

「結構です。座り話は貴族の相手で飽きました」

「そ、そうか……」

 こんな態度を取るべきではない。そんなことは分かっていたが、直前まで得体のしれない薬指の爪とやらをいじくりまわしていた私は辟易としていた。

「ギデオン、お前は父さんの誇りだ。その年で医師になり、たくさんの人の役に立っている」

「『多くの金を稼いでいる』の間違いでしょう」

 父さんが目を伏せて黙り込んだのを見て、私はいたたまれなくなった。

「父さんも、私の誇りでした。難民の捨て子だった私を拾って、なんの得があるわけでもないのにここまで育ててくれた。患者を騙して手術代や薬代を搾り取る医者が幅を利かせる中でも、父さんは絶対に患者を騙すようなことはしなかった」

 そんな父さんの大きな背中を見て、私も必死に勉強をして医者になった。

 今やすっかり父さんが小さく見えるのは、私の背が伸びたことだけが理由ではない。

「それが、今はどうです! 医者だというのに白衣も着ずに、こんなものまで付けて!」

 父さんの首から下がった下品な宝石を指さして、私は声を荒げていた。

「私を誇りに思うというのなら、医者という職業の神聖さにも誇りを持ってください」

 何も言い返そうとしない父さんをこれ以上は見ていられず、私はその場を後にした。

「……ギデオン! まだ話は――」

「いいえ、次の『患者』が控えておりますので!」

 父さんの声を背中に受けながら、私は無駄に広い病院の廊下を進んでいった。



 患者の前で感情的になるわけにはいかない。

 診断室のドアをノックして入室した私は、しかし別の理由で閉口することになった。

「ごきげんよう」

 さほど大きな声ではないはずなのに、その言葉はまるで教会の鐘の音のように力強く、そして美しく心に響く。

「スノウ=ホワイト……」

「まあ! ご存じでしたか」

 生ける伝説とまで言われる歌姫が、ゴテゴテした診察室の椅子に腰かけていた。

「あなたがギデオン・ナイスフェロー先生? 想像よりもお若いのね」

「それは、どうも……」

 理解が追い付かず、あやふやな返答をしてしまう。

 医者が慌てていてはいけないから、私は平静を装って診察室の扉を後ろ手に閉めた。

 さりとて、自分の中の混乱が解決したわけではない。

「なぜうちの病院に……?」

 金髪に、磁器のように白い肌。特徴的な金色の瞳。

 大歌劇場全体に響き渡る声量が出るとは思えないほど、瘦せた体。

 見間違うはずも、なにより聞き違えるはずもない。

「予約はさせていただいたのですが……」

 困惑したスノウ=ホワイトの言葉にようやく自分の発言の危うさに気付き、私は慌てて咳払いをした。

「……失礼しました。予約は父が受けておりますので。それに、手元の資料だとお名前が違いましたから……」

 しまった。父さんがさっき話したがっていたことはこれだったか……。

 狼狽を顔に出さないように取り繕いながら、私は小さく咳ばらいをした。

「優しげな院長さんでしたわ。何か、仲違いをするようなことがあるのですか?」

「いえ……関係は良好です」

 聞こえていたらしい……本当に、いろいろと気を付けなくてはならない。

「病院の方針のことで少し意見が合わない部分がありまして。いずれにしろ、患者様に関係のあることではありません」

「そう。それならよかったです」

 とても生ける伝説とは思えない。柔和で親しみやすい話し方だ。

 まったくもって虚飾に塗れているような印象などはない。スノウ=ホワイトはその高潔さで有名であったが、そんな人間でもこの病院での『手術』を望むものなのだろうか?

 私情を挟むべきではないとは理解していつつも、私は少し失望していた。

「早速、失礼を承知でお伺いしますが、当院へお越しであるという事実は誰にも伝えていないことですか?」

「ええ。お察しの通りです」

 と彼女は頷いた。

「常にわたしの仕事を管理しているマネージャー以外、このことを知っている人間はいません」

「かしこまりました」

 問診表に『秘匿案件』と書き込んで(とはいえ、この病院に持ち込まれるような案件はいずれも『秘匿案件』なのだが)、私は質問を続ける。

「この度はどのようなご依頼でしょうか?」

「治療に伺いました」

「……え?」

 思わず声が出て、そしてしまったと思う。

 これでは先入観を持っていたことを堂々と宣言しているようなものだ。

「治療にお伺いしました。病院は怪我や病気を治療する場所だと思っておりましたが……」

「え、ええ……もちろんですが……」

「それはよかったですわ。ギデオン先生はラングトンで一番のお医者様だとお伺いしておりましたから、断られたらどうしようかと……」

「どこか、悪いのですか?」

 スノウ=ホワイトは、三年の周期で各国を回り公演を開いている。

 ラングトンへ来るのも、今年がちょうど三年ぶりだ。

 あれほどの声量で、あれほどのホールで一年中歌い続ける体力というのは想像を絶するものだろう。ここ三年間大きなトラブルも聞かないが、どこに病気があるというのだろう。

「喉を治療してほしいのです」

 歌姫は確かにそう言った。



「これは……悪いのは喉だけではありませんね」

 スノウ=ホワイトの診療に、さほど時間はかからなかった。

「あら……わかります?」

 あっけらかんとそう答えて微笑むスノウ=ホワイトに、私は頭を抱えた。

「貴女がどういうつもりかは存じ上げませんが、これはしっかりと問診をしなおさせていただきますよ」

「それは困りましたね……」

 スノウ=ホワイトは困ったように微笑んだ。

「貴女の血液型は水型。私も同じ血液型で、同じような魔法を使うので貴女が何をしているのかなんてすぐ分かりますよ」

 そもそも、彼女の血液の質の高さには驚かされる。ウルトラマリンの血液には溢れんばかりの魔力が籠っており、それだけで彼女という存在の特別さが裏付けられているようだった。

「末期の魔力変質性の白血病です。それも全身に魔力変質が転移している。魔法で進行を無理やり押し留めているようですが、合併症も深刻です。喉どころか今から血液をすべて取り換えるぐらいのことをしなくては、絶対安静でもせいぜい三年延命できるかどうか……」

「それはもう承知しているのです」

 事態の深刻さを伝えたにも関わらず、スノウ=ホワイトはケロッとしていた。

「現代では治療法のないこの病気を患ったその時から、延命など考えてもいませんでしたわ。点滴に繋がられて何年もベッドの上で過ごすより、舞台の上で死にたいのです」

 嫋やかな微笑みを浮かべたまま、歌姫はそう答えた。何度も口にしてきたのだろう。彼女の口調に淀みはなかった。

「……あいにく、うちでやっている手術は按摩屋とは違って、患者さんのリクエスト通りに身体にメスを入れてお仕舞というわけにはいかないんですよ。貴女のような方は、特に」

「うふふ……手術が失敗したと知れてしまっては病院に火が付けられてしまいますわね」

「笑い事ではないですよ」

 掴みどころのない女性だ、と思った。

 彼女の歌劇を生で見たことなどないが、噂には歌姫は聖母そのものだと聞く。

 貞淑な修道女のような人間を想像していたが、今目の前にいるのは気品に溢れながらも少女のような微笑みを浮かべた女性だった。

「不思議ですか? これほどの青い血を持ちながら舞台に立っているわたしのことが」

「……否定はできませんね」

「血をご覧いただいたとおり、わたしは高魔力者です。十七までは爵位の相続権さえ持っていました。それでも、わたしは貴族として生きる選択肢を捨てて、今日まで舞台の上で生きてきました」

 有名な話だ。

 爵位を捨ててまで歌手になるというスノウ=ホワイトのその選択を、当然彼女の家から許すはずもない。今に至るまで彼女がスノウ=ホワイトと名乗っているのも、彼女の生家の姓を名乗ることを許されていないからだ。

「……そのような容体に至ってもなお、舞台に固執するのはなぜです? 決して承認欲求のような浅薄な動機ではないでしょう」

「簡単に言うなら、そうですね――」

 歌姫は膝の上で手を揃えたまま、ほんの短い間視線を天井の方に向けた。

「反抗、でしょうか?」

「は、反抗?」

 思わずオウム返しすると、スノウ=ホワイトはいたずらっぽく笑った。

「はい、わたし、いまだに反抗期真っただ中なのです」

 戸惑って言葉も返せないでいる私に対して、スノウ=ホワイトは少し神妙な表情で言葉を続ける。

「もっと強い言葉を使ってしまえば、わたしはささやかな復讐をしたいのです」

 『復讐』。それは確かに強い言葉だった。

「……貴女の生家にですか」

「いえ、もっと大きなものです」

 歌姫は笑みを浮かべたまま私の言葉を否定した。

「青い血を持つわたしが下賤な歌姫として崇められ、貴族たちから大金を巻き上げ、そして孤児や恵まれない赤い血の人々に金を流す。わたしにとっては世界への抵抗で、社会への小さな復讐なのです」                                    

「その小さな復讐のために、貴女は舞台上で死ぬというのですか?」

「うふふ……舞台の上で死んでようやくわたしの復讐は完成する……というと少し大げさすぎますね」

 彼女はクスクスと笑ってから、その金色の瞳で私を見つめた。

「動機はどうあれ、わたしも芸術家の端くれ。舞台上で死ぬことは至上の喜びですわ」

 チリリリ……

 と、テーブルの脇に置いていた時計のベルが鳴り響く。

 患者との問診時間の終わりを告げるそれを止めると、私は小さくため息を吐いた。

「そこまで言われては、こちらとしても手術をしないとは言えないですね……」

「まあ、光栄ですわ」

 手を合わせてそう答えた歌姫に、やはり私は二の句を告げないのであった。



 気分が晴れないとき、私には決まって訪れる場所があった。

 エリントン広場の横にあるカフェでエスプレッソをダブルで頼み、それを一気に飲み干す。そうするとコーヒーの強烈な芳香が脳天を貫き、頭にかかっていた靄が一瞬にして吹き飛ばされる。

 それだけでも疲れるのであまり頻繁に使える手でもないが、私はその後、必ず広場から三ブロックほど歩いた先にある小さな公園へ足を運ぶ。

 近くにはもっと大きな公園もあり、大体の人間はそちらへ行くから、この名もなき小さな公園にはほとんど人影がない。

 管理もそこまで行き届いてはいないようで、剪定のされていない大きなプラタナスが日陰を作り出している。

 静かで、そしてそっけないその風景が、私の心を落ち着かせてくれるのだった。

 スノウ=ホワイトへの問診の後、例によってエスプレッソのダブルを胃に流し込んだ私は、これもまた例によって三ブロックを歩き、プラタナスの下のベンチに腰かけていた。

 公園の中には今日も人影はなく、私はそこでも大きなため息を吐いた。

 とても褒められた行為ではないが、私はその古いベンチの上に横たわった。

 たまに蜘蛛の巣も払っているし、気まぐれに落ち葉をまとめたりもしている。

 もはや私がこの公園の管理を担っているといってもいいのだから、これぐらいの狼藉は見逃されてしかるべきだろう。

 眼鏡を外して仰向けになっていると、プラタナスの大きな葉と葉の間から、微かに木漏れ日が差している。晴れ渡った脳で思考を整理しながら、やがて訪れる睡魔に身を任せるのが、私の数少ない気晴らしの方法だった。

「……」

 復讐、と、彼女は語った。

 それは確かに強い言葉だった。

 この血統至上主義の魔法貴族社会において、彼女は一体なにを奪われたというのだろうか? 復讐とはすなわち仕返しであり、何かしらの横暴に対しての反撃である。

 きっとそれは、私が考えているような矮小なものではないはずだ。

 虐げられ、社会の隅へ押しやられている人々のための、復讐。

 力なき者たちのために拳を振り上げる代わりに、その身を削って舞台で歌う、その覚悟。

 皮肉にもその絶大な魅力と人気は政治的にも大いに利用されることになるが、それでもスノウ=ホワイト当人からしてみれば『復讐』は果たされているということなのだろうか。

 そんなことを考えていると、段々と眠気が訪れてきた。

 細い糸を手繰り寄せるように、私は束の間の休息のために瞼を閉じるのであった。

 そういえば、今日は彼女がいない。

 ベンチの上で目をつむっていると、ふと半年ほど前のことを思い出した。



 私には特技がある。

 生まれながらの神経質で、どれだけ疲れていても自分が決めた時間にきっかり起きられるのだ。だからこそ目覚ましもかけずに公園で寝られるわけだ。

 そろそろだろう……と思って瞼を開けると、そこにはぼんやりとした世界が広がっている。ひどい近眼なので仕方がない。

 ベンチの隅に置いていた眼鏡を手探りで掴むと、私はそれをいつも通り耳にかけた。

「あ、やっと起きた」

「うおっ!」

 鮮明になった視界に突如として現れた人間の姿に、私は素っ頓狂な声を上げて飛び起きた。

 どうやら、私が寝転がっていた頭の方に、いつの間にか少女が座っていたらしかった。

「だめだよ? こんなところで一人で寝ているなんて。スリにも置き引きにも狙われ放題だよ?」

「……君は違うわけか」

「なんとシッケイな!」

 眼鏡の度が合ってないのかな? と彼女は手を伸ばして私の眼鏡をぐいぐいと引っ張った。

「よせ! やめなさい!」

「あははは」

 なにがおかしいのかけらけらと笑って見せると、彼女は手を引いてベンチに腰を預けた。

 改めてよく見てみると、年のころは十四、五ほどの少女だ。

 くすんだ金髪を三つ編みにして、右肩の前に垂らしている。

 ベンチの傍らには籠一杯の花が置いてあり、彼女が花売りであることが分かった。

「お兄さん、イイトコロの人でしょ? どうしてこんな裏路地の公園で寝てるの?」

「君には関係ないだろ」

「冷たいなあ……これだから貴族サマは好きじゃないんだよね」

 そう言われて、私は掌で額をさすった。

 確かに、今の言い方は感じが悪かった。私自身が嫌う貴族たちの仕草そのものだ。

「……貴族じゃない。私は医者だ。すまない、寝起きが悪いんだ」

 そう答えると、花売りの少女はクスクスと含み笑いをした。

「わたし、ロザリアっていうの。お花を売ってるんだ」

「そうか」

「『そうか』って……お兄さんの名前も教えてよ」

「……」

 名乗るのは好きじゃない。が、ふてくされたような表情の彼女を前に名乗らないわけにもいくまい。

「……ギデオンだ」

「へえ! それって本名?」

「これだから名乗るのは嫌なんだ……」

「別にからかってるわけじゃないよう」

 やはりくすくすと笑ってから、ロザリアと名乗った少女は何かを思い出したように籠に手を伸ばした。

「そうだ、ギデオンさん、お花買ってよ。見張り代」

「私は普段からこの公園を使っているが、スリや置き引きになんて遭ったことはないぞ」

「油断大敵だよ? さっきだって寝ているギデオンさんをワルい人たちが取り囲んでキキイッパツだったんだから!」

「……それを君が追い払ったのか?」

「その通り! ガオーってね!」

 両手の爪を立てるようにしてこちらへ向けながら、ロザリアは威嚇してみせた。

 その様子が可笑しくて、私は思わず吹き出してしまう。

「ふっ……」

「あ、笑った」

 ロザリアも声を上げて笑うのを見て、私はすっかり警戒心をなくしてしまった。

 コーヒーの支払いで余った小銭をポケットから掴みだすと、私はそれをロザリアに手渡した。

「ほら、これで足りるか?」

「ありがとう! これならおつりは……」

「いや、いい。取っておいてくれ」

「いいの? じゃあ、特別綺麗なお花をあげるね」

 籠の中から小さな花束を取り出すと、ロザリアはそれを私に差し出した。

「この季節はね、シュウメイギクが綺麗なんだ」

 彼女のその言葉の通り、手渡されたシュウメイギクは木漏れ日を受けてしっとりと輝いている。

「君、孤児院の養護婦か? その指輪……」

 ロザリアに花束を手渡される際、私は彼女の右手の中指に銀色のリングが嵌められていることに気が付いた。小さな雪の結晶の意匠は、ここから数ブロック先にあるクローバーフィールド孤児院の紋に違いなかった。

「あ、これ? ううん、わたしは養護婦じゃなくて、孤児なの」

「そうか……無神経で悪かった」

 そういえば聞いたことがある。孤児院で保護されている孤児のうち、年長者はその運営費を賄うために花を売ったりするらしかった。ロザリアもそうに違いなかった。

 あと二、三年もすれば、彼女は孤児院を出てどこかに働き口を探さなくてはならないだろう。器量もいいから大きな屋敷にメイドとして雇ってもらえそうなものだが……そこまでは私の考えることではない。

「マジメだね、ギデオンさんは。普通の人はわたしたちに謝ったりしないし、野良犬みたいにシッシッ! ってするんだよ?」

 朗らかな調子でそう言ったロザリアだったが、それを受容するには大きな諦念を経なければならなかっただろう。

「……まあ、私も元は孤児だったからね」

「そうなの? ……って、そうか、その肌の色……ヒンディア人……」

「そうだ。クローバーフィールドにもいるだろ」

「うん。みんないい子だよ」

 私にも、孤児院のヒンディア人の子供たちにも、大きな差はない。

 ジェイコブという親切な医者がたまたま私を拾って、高等な教育を施してくれなければ、私だって花でも粗末な首飾りでも売らなければならなかったに違いない。

 だからこそ、この腕こそは光の当たらない人々のために振るいたかったものだが……

「……しまった、時間が」

 慌てて懐中時計を取り出すと、次の手術までもう間もない時間だった。患者――客は貴族だ。待たせるわけにはいかない。

「もう行くの?」

「ああ、仕事に戻らなくてはね」

「また来る?」

「確約はできないが……」

 立ち上がった私を、ロザリアはベンチに座ったまま見上げた。

 例のイタズラっぽい笑顔を浮かべて、彼女は小さく手を振る。

「また来てよ。お花の代金も忘れずにね!」

 また思わず微笑んでしまうのが恥ずかしくなり、私は足早に公園を後にした。

 それが半年前、ロザリアとの出会いだった。



 甘い香りに目を覚ますと、視界が黄色く染まっていた。こんなことをするのは彼女しかいない。

 私は顔に乗せられていた花を除けると、ゆっくりと体を起こした。

「あ、起きた」

「売り物を粗末にするな」

「あはは」

 声を上げて笑うロザリアを見ていると、幾分か鬱屈とした気分もマシになる。

 彼女は知る由もないだろうが、この純粋で朗らかな少女との交流は、すっかり私の心の支えとなっていた。

「まだビッグベンが鳴るまでは時間があるよ?」

「いや、いい、もう一度寝たらさすがに寝過ごしそうだ」

 ベンチに座りなおして眼鏡をかけると、ロザリアの姿がはっきりと見えるようになった。

 彼女の花籠に入っているのはミモザだろう。春らしい、華やかで可憐な小さな花だ。

「今日はもう来ないと思ってたよ」

「思いのほか売れたんだ。春になるとみんなお財布のひもが緩むから」

「それはなによりだ」

 と、そう言った私に対して、ロザリアは真っ直ぐと手を伸ばしてきた。

 何も言わずに、彼女はただにこやかに私を見つめている。

「……まったく」

 ポケットから小銭を掴みだしながら、私は嘆息した。もはやわたしたちとの間でお馴染みとなったやりとりだ。

「まいどあり!」

「……孤児院の方は、変わりないか?」

「うん、大丈夫。あ、でも、五歳のシェニーがね、ここ最近食欲がないみたいなの。ずっと不機嫌だし、耳に指を突っ込んだりして落ち着かない感じで……」

「それは……中耳炎かもしれないな。孤児院の医者に相談して薬を処方してもらえばいい。意外かもしれないが、鼻から入ったばい菌が耳の奥で炎症を起こすんだ。シェニーには、鼻は啜らずにハンカチでかんだ方がいいと伝えておくといいよ」

「うん、わかった」

 打算も虚飾もない、本当に純粋な会話だ。

 誰に対しても気兼ねのないロザリアとの交流は、時間を瞬く間に溶かしていく。

 いつの間にかビッグ・ベンの鐘の音が響いてきて、私は慌てて立ち上がった。

 昼休憩は終わりだ。

「今日は大変な患者ばかりだ。急いで戻らないと」

「じゃあね、先生! また今度お話を聞かせてよ」

 ベンチに座ったまま微笑むロザリアを公園に置いて、私はいそいそと歩き出した。

 あの恐ろしい女侯爵が病院で待っているはずだ。



「残念ながら、この状態では永続的な保存はできませんね」

「まあ……それは本当に残念ですわね」

 エリザベート侯爵は眉尻を下げてそう答えた。

 私と彼女の間には、件の爪が置かれている。

「先生の秘術でも難しいんですの?」

「……私の魔法は、なにも神秘的なものではありません。水魔法の応用で『血を生かし続ける』だけなのです」

 当然のことながら、人間の血というのはほとんどが水分なので、体外に出て時間が経てば水分が蒸発し、水分でないもの――血小板やら干からびた赤血球やらがカサカサとした黒い痕跡として残る。

 私の魔法というのは簡単に言ってしまえば、血液に限定してその水分を保持し、人間の切り出したパーツの中で血液を循環させ続けるというものだ。

 そうすることで切り出した人体のパーツでも『鮮度』が維持され、しばらくの間は生きた状態のまま保存ができる。

 忌々しいことに今のナイスフェロー医院の『商売』には最適な能力だ。

 しかし、逆に言ってしまえば、元の体の血液が残っていなければ保存も何もあったものではないということだ。

 女侯爵が持ち込んだ薬指の爪は、そもそも血が通っているものではない。これでは私の魔法もあまり作用しないだろう。

「わたくしの指に移植すればいいというわけではありませんのね」

「ええ、死んだものを生き返らせることは、私にもできません。まあ、その爪の元の持ち主の血があればもしかするかもしれませんが……」

 そう答えると、侯爵は暗い瞳の奥底でなにかを思案するそぶりを見せた。

「つまり……その指の『元』の持ち主の血がなければ、保存はできないわけですわね」

「……そうなりますね。あまり現実的ではありませんが」

「そうですか……困りましたね……無理やり血をいただくというのも難しいですし……」

 やむを得ない悲劇によって引き裂かれたということを、昨日の問診でエリザベート侯爵は語っていたから、そこから想像するにおそらく死別したフィアンセの薬指の爪なのではないかと思われるが、すでに死んでいるなら確かに血の回収は難しいだろう。

「名残惜しいですわ……こうなってはただこの爪が朽ちゆくのを見守るしかないのですわね」

「お力になれず申し訳ございません」

「ふう……」

 貴族らしく上品に嘆息すると、女主人は愁いを帯びた表情で薬指の爪の入った小瓶を頬ずりした。

 全身に鳥肌が立つのを必死で抑えながら、私は椅子から腰を浮かせた。

「それでは……私は次の患者の対応がありますので……」

「ええ、お話ができて光栄でしたわ、ギデオン先生。また機会があれば、ぜひ」

 もう二度と会うことはあるまい。

 内心そう呟いて、私はその場を後にした。



 スノウ=ホワイトの診療と、それからエリザベート侯爵の『撃退』から一夜が明けた。

 色気づいた老貴族の鼻を取り換える手術を行った後、事務所のソファで脱力していると、ちょうどビッグ・ベンの鐘の音が聞こえてきた。正午だ。

 次の仕事はスノウ=ホワイトの問診だ。明日が彼女の公演だから、手術をするにしても明日以降になる。

どこかで食事でもしようかと考えていると、ふといつものカフェが思い浮かんだ。

 あまり連続で行くことはないが、恐ろしい侯爵の件もあり私はすっかり参っていた。

 そういえば、今日もロザリアはあの公園にいるのだろうか?

 いや、日銭を稼ぐのに彼女も忙しいだろう。あんな人気のない公園に毎日いるわけもない。

「……」

 放っておくと、もうこのソファから立ち上がれる気がしなかった。

 偏頭痛を抑え込むように眉間を指で押さえてから、私は立ち上がった。 



「あ、今日も来た」

 サンドウィッチの入った紙袋を持って近づくと、ロザリアは笑いながら花の入った籠を膝にのせてベンチにスペースを作った。

 籠に沢山入っているのはブルーベルだ。カーブを描いた枝に、その名の通り青いベルのような形の花がいくつもぶら下がっている。

「今日はあまり売れていないようだな」

「かき入れ時だってわかったみたいで、お花屋さんが公園に出てきちゃった。大きな公園とか大通りは、もうほかのお花屋さんとかのナワバリだから、わたしたちは追い払われちゃうんだ」

 やれやれといった表情で、ロザリアは嘆息した。

「でも、ここに来れば親切なお医者さんがお花を買ってくれるから大丈夫!」

「買うとは言っていないだろ」

「買わないの……?」

「…………花束を一つ」

「えへへ」

 最初から自分も買うつもりだったのに下らない応酬をしてしまうのはなぜか。

 コインをロザリアに渡してから、私は紙袋の中からサンドウィッチを探り出して、それもロザリアに差し出した。彼女がいなかったら自分で食べるつもりだったものだ。

「これは?」

「レタスとパストラミのサンドウィッチだ。嫌いだったか?」

「……食べたことないかも」

「きっと気に入るよ」

 自分の分を取り出して包装を剥いていると、横でロザリアが神妙な顔をしているのに気が付いた。

「どうかしたか?」

「わたしだけがこんなの食べていいのかな……」

「……孤児院で出る分は、他の子に譲ってやればいい」

「……うん」

 それでもしばらく逡巡してから、ロザリアは小さくサンドウィッチをかじった。

 反応は言うべくもない。

「こ、こんなの……いいんだ」

 私にとってはどうということはない価格のサンドウィッチですら、彼女らは容易に口にすることはできない。

 こんなことをしていいことをしている気分になっている自分に辟易とするが、偽善で自分を取り繕っていないと気がおかしくなりそうだった。

「『飯と歌はウェネキアに限る』。異論なしだな」

「ウェネキアかあ、行ってみたいなあ」

 口いっぱいにサンドウィットを頬張ったまま、ロザリアはしみじみとそう言った。

「コロッセオでも見に行くのか?」

「ううん。スノウ=ホワイトの生まれた場所を見に行きたいの」

「スノウ=ホワイト?」

「そう、クローバーフィールド孤児院は、スノウ=ホワイトの基金でできた場所だから」

「……そうか。そういえばそうだったな」

 なおさらサンドウィッチくらいでいいことをした気分になっているのが惨めだ。

 スノウ=ホワイトはその公演で得ている膨大な利益で基金を設立し、各国で孤児院や福祉施設を運営している。

 このラングトンのいくつかの施設も彼女の基金によるもので、クローバーフィールド孤児院もその内の一つだ。

 エミグラントはまだましだが、つい最近の戦争の影響で世界には孤児があふれている。彼女がいなければ一体どれほどの戦争孤児たちが路頭に迷っていたかは想像に難くない。

「孤児院にもレコードはあってね、みんなでスノウ=ホワイトの歌を聞いたりするんだけど、孤児院の蓄音機は古くてレコードの音なんて全然綺麗じゃないし、本当は生で歌を聞いてみたいんだ」

「……」

「あーあ! わたしもスノウ=ホワイトくらい美人だったら歌姫か女優になれてたかもしれないのになぁ」

 それは無理だと知っていながらも、ロザリアはそう言わずにはいられないようだ。

 基金を設立しているスノウ=ホワイトではあるが、無料のチャリティーコンサートなどは一度も行っていない。あくまで、彼女についているプレミア的な価値を損なわせるわけにはいかないのだろう。

「だからね、お金を貯めて、一度はスノウ=ホワイトの生まれた場所へ行ってみたいの。本当は直接スノウ=ホワイトに感謝したいけど、それはできないから」

「……きっと行けるさ。今のウェネキアは平和だし、距離だってそんなには遠くない」

「うん! それまではパストラミの味を忘れないようにする!」

 ビッグ・ベンの鐘の音が再び遠くから響いてきた。

 そろそろ戻らねばならない時間だ。



「あら、綺麗なお花」

 診察室に入るや否や、スノウ=ホワイトはそこに生けられているブルーベルに目を付けた。

「春の花は、どれも派手で華やかですが、その中に清楚な可憐さもありますわよね」

 実は貴女の孤児院にいる娘が摘んだものですよ……とは言えず、私は曖昧に「そうですね」と返答した。

「スノウ=ホワイト。あれから貴女の検査結果をもう一度精査しました」

 歌姫は穏やかな笑みを湛えたままただ静かに私の言葉に耳を傾けていた。

「結論として、貴女の病気の完治は難しいでしょう。わずかな延命であれば可能ですがね」

「ええ、存じ上げておりますわ」

「ですから、貴女の声帯だけを『これ以上悪くならないようにする』ための手術を、私は行うことになります。貴女の公演が極めて少ない回数制限付きであることに、変わりはありません」

「まあ! この喉が治りますのね?」

「……不遜な言い方になりますが、私であれば失敗することはありません。手術の前と後で声の質が変わることも一切ないと約束できます」

「心強くて結構ですわ。お医者様には嘘でも自信満々でいてほしいものです」

「ただ、手術とは直接関係のないことで一つお伺いしたいことがあるのですが……」

「どんなことかしら?」

 まっすぐと視線を向けてくる歌姫から若干目を反らしてから、私は覚悟を決めてその問いを口にした。

「貴女が世を去り、二度と歌を歌えなくなったとき、世界中にある貴女の基金によって建てられた施設はどうなるのですか?」

「……」

 ここへ来て初めて、スノウ=ホワイトはその表情をほんの一瞬曇らせた。

 しかし、彼女はその愁いを残したまま。口元には笑みを湛えて静かに語り始める。

「わたしが死んだ後でも、レコードの売り上げやいくつかの歌の著作権料で、基金は維持できるはずです。ただ、施設の規模を大きくしたり、新設することは難しいでしょう。それに、老朽化した施設の補修などに必要な費用が潤沢にあるわけではありません」

 私が確認するまでもなく、彼女の中ではもう何度も検討し、様々な計画と天秤にかけたことなのだろう。歌姫はどこか淡々としていた。

「なにより、死してなおわたしの名声が保証されるとは限りません。正直に答えるなら、そうですね……基金の底が尽きるまでに、この世界から血色差別や戦争がなくなり、孤児が生まれなくなるよう祈るしかないのです」

「……そうですか。答えづらい質問ですみません」

 いずれにしても、彼女が施設の行く末を案じていることは分かった。一瞬見せた憂いの表情は何よりも雄弁だった。

「とにかく、明日の公演の後、二日空けてから手術を行います。小規模な手術ですし、貴女の血質ならば回復もすぐでしょう。本当は一週間ほど入院していただきたいところですが、多忙のようですし三日で退院とします。その間、歌の練習などはもっての他ですがね」

「次の公演が控えるフランツ共和国の皆様には少し我慢をしていただく必要がありますね」

 ふふふといたずらっぽく笑うと、スノウ=ホワイトは「そういえば」と話を切り出した。

「きっと手術を請け負っていただけると信じて、公演の招待状を用意しましたの」

 着ていたコートの内ポケットから金箔の施された豪奢なチケットを二枚取り出すと、彼女はそれを私に手渡した。

「関係者席――いわゆるVIP席というものです。ギデオン先生と院長先生のお二人だけのボックス席を用意させていただきました。ぜひお楽しみいただければと思いますわ」

「これは……いいのですか?」

 一般席だってとてつもない値段のするものだ。ボックス席チケットの値段など想像もつかない。

「わたしが歌い続けられるのも先生のおかげですから」

 派手なチケットを受け取ると、ふと花売りの少女の顔が浮かんだ。

「……大変失礼ですが、このチケット、他人に譲渡することなどはできるのですか」

「まあ……歌には興味がありませんか?」

「いや! そんなことは……」

 自分がとてつもなく失礼なことを聞いていることに気が付いて、私は慌ててスノウ=ホワイトの言葉を否定した。

「その……この病院の医者は私と父のみでして、公演当日に急患が出ればどちらかが病院へ戻らねばなりませんからね……万が一そうなった場合に、チケットを無駄にするわけにはいかないと思いまして」

「それもそうですわね……考えが至りませんでした」

 歌姫はそう呟いてから、悩まし気に自らの頬に手を当てた。

「ただ、VIP席は関係者のために用意された席ですから、保安検査もその分厳しいのです。以前、どこからかVIP席を入手した方がわたしの関係者を騙り方々へ迷惑をかけたことがありまして……ですから、記名済みのチケットの譲渡はできませんの」

「そうですか……」

 確かに、手渡されたチケットにはそれぞれ、私と父の名が印字されていた。

 これではロザリアに渡すことはできないだろう。

「一般席の招待状であれば、元の持ち主のサインがあれば譲渡できるのですが……」

「いえ、お気になさらず。ああは言ったものの、ここはもうすでに急患など来るような病院ではありません」

 自嘲気味にそう言って、私はそのやり取りを終えた。

「ともかく、手術は三日後にいたしましょう。明日、酷使した喉をそのまま手術に回すわけにはいきませんから。予後を考慮しても、フランツ共和国での公演には十分間に合うでしょう」

「ええ、楽しみにしておりますわ」

 嫋やかに一礼して、歌姫は診察室を去っていった。



 静かになった診療室で、チケットを手にぼうっとしていると、花瓶に生けられたブルーベルが目に入った。

 一般席のチケットであれば、譲渡可能。

 そんな事実が脳の片隅から消えようとしない。

 ロザリアがスノウ=ホワイトの公演に行けないのは、言葉は悪いが当然だ。

 彼女は貴族ではなく、そして歌姫の喉を直す医者でもない。

 だが――

「…………」

 私は、自分の感情に困惑していた。

 一体、ロザリアに公演のチケットを渡してどうしようというのだ。

 チケットを渡されたとしても、彼女はきっと固辞するだろう。ロザリアは同じ孤児院の子供たちと平等であろうとしていて、彼女だけが特別な待遇を受けることをよしとしてはいない。

 それに、ロザリアによくしてやったとして、それが一体なんだというのだ。

 私がこの病院で行ってきた弱者からの搾取が、それで許されるのか?

 考えるまでもなく、今私がしようとしていることは自己満足に他ならない。

 勝手に同情をして、勝手にいいことをした気になって、そして満足しているだけだ。スノウ=ホワイトの偉業とは比べるべくもない。

 そんなことは百も承知だ。

「……」

 スノウ=ホワイトは、もうすぐ死ぬ。

 そうなれば、ロザリアが歌姫の声を直で聞く機会は永遠に失われる。

 その事実を知ってなお、私はのうのうとこのチケットを使ってコンサート会場へ入れるのだろうか?

 余る予定の一般チケット。私にはその心当たりがあった。



 フレーダー家の屋敷の場所は、ラングトンに長く住む者であれば皆知っている。

 高級住宅地区の最もはずれ、この地角で唯一の窪地に、その屋敷はある。

 季節を問わず、その庭には赤一色の薔薇がぎっちりと咲き乱れており、凄まじい芳香が漂っている。

 屋敷の正門や柵などには茨が所狭しと巻き付いており、まるで天然の有刺鉄線だ。

 存外、地獄というのはこういう場所なのかもしれなかった。

「……」

 その佇まいを前に絶句していると、やはりここで引き返した方がいいのではないかという気がしてきた。

 そもそもおかしな動機だったから、仕方がない。これで冷静になれてよかった。

 恵まれない子供を一人助けたところで、いったいどうなるというんだ。

 ため息をついて踵を返そうとすると、背後の夕闇からかすれた男の声がした。

「主人がお待ちです。どうぞお入りになってください」

 ぎょっとして振り向くと、深紅の薔薇の中に純白の服に身を包んだ男がたたずんでいた。

 青い顔をしていて、年齢も分からない。

「いや、約束などはしていませんが……」

「ご用向きは存じております。招待状の件、主人がぜひ相談に乗りたいと申しております」

 どっと冷や汗が吹き出す。

いっそのこと逃げ出そうかも思ったが、フレーダー家にまつわる数々の噂と、それから無数の目のように私を取り囲む薔薇に気圧されて、私は渋々頷いた。



「見事な薔薇でしたでしょう? 季節に関係なく、あれほどの花を維持しているのは秘密があるのですわ」

「はあ……」

 瀟洒であるが、やけに冷たい雰囲気の応接間に通された私は、そこで再びエリザベート侯爵と対面した。

「もうこの屋敷からも離れますから、先生には特別にその秘密を打ち明けましょう」

 血。

 と、彼女は端的に言った。

「肥料として、獣の血を混ぜていますの。ご存じでした? 薔薇は肉食の花なのですわ」

「……」

 何も言えず口の端を歪ませていると、謎に包まれた貴族はその様子を楽しむように微笑んだ。

「手間も暇もかけて育てているので、ぜひ皆様にもご覧いただきたくて門扉を開いておりますのに、ほとんどお庭に来てくださる方がおりませんの。立地が良くないのかしら?」

「……そうかもしれませんね」

 一秒でも早くこの場を離れたかった。

 チケット譲渡の交渉など、私には百年早かったのだ。

「さて、先生もお忙しいでしょうから、本題に入りましょうか」

「いや、本題とは――」

 慌ててとぼけようとしたが、目の前で微笑んでいた女主人の目が微かに見開かれた瞬間に背筋が凍り付くような恐怖を感じて、私は口を噤んだ。誤魔化しなど効く相手ではない。

「わたくしは今夜ラングトンを離れますから、残念ながらスノウ=ホワイトのコンサートにはいけませんの。ギデオン先生は、こちらのチケットをご所望なのでしょう?」

 音もなくエリザベート侯爵の傍に現れた部下が、一枚のチケットを彼女に差し出す。VIPチケットよりかは幾分か質素な見た目だが、それでもコンサートの入場券にしては手が込みすぎている逸品だ。

「こちらにわたくしのサインがあれば、先生にもお渡しできますわね」

「……もちろん、ただでというつもりはありません」

 こうなれば、まどろっこしい交渉など無意味だろう。今相手にしているフレーダー家は、極めて『実務的』な貴族だ。効率的な仕事をなによりの信条とするのは、私のポリシーと一致する。

「爪ですが、『生かしておく』方法があるにはあります」

「まあ! 話が早くて助かりますわ。さすがはラングトン一の名医」

「ただし、『永遠に』というわけにはいきません」

 私がそう補足すると、侯爵は居住まいを正して傾聴の姿勢を取った。うわべだけの興奮はすぐさまなりを潜め、そこには冷徹な仕事人としての姿があった。

「……私の技術は、簡単に言えば水魔法を応用して『血を乾かさない』というものです。血液内の魔素と水分を一定の状態に保つことで、血液を生かし続ける。それを行えば、切断された部位でも生きた状態にできる。つまり――」

 私は一旦言葉を止めた。

 このことを目の前の女に明かすことで、なにか不吉なことが起きる気がしてならない。

「つまり?」

 薔薇の棘のような声でそう催促されて、私は数秒目を閉じた。

 いや、ろくなことにならないことは承知の上でここを訪れたはずだろう。

「つまり……その爪を生かしておくためには、やはり、元の持ち主の血が必要です。爪程度なら……一滴あれば、侯爵の御手のへの移植自体は可能でしょう。ただし、その爪があなたの指に完全に適合することはありません。異なる血液型による拒絶反応……爪を付けている限り、永遠に痛みが伴います」

「結構」

 と、決定事項のようにエリザベート侯爵はそう言った。

「十分すぎるご提案ですわ。それに……うふふ、痛みを伴うのが愛ですことよ。無痛の恋にはもうこりごりですの」

 ちらりと横に侍る部下に視線を向けるが、その表情には幾ばくの変化も見られない。

 この狂った貴族の部下であるためには、これほどのことで動じてはいけないということなのかもしれない。

「……悲劇的な別れとお聞きしていたので、てっきりその薬指の主はすでに亡くなっているものだと思っていました」

「まさか。今もこのラングトンに住んでいますわ」

「では……その方から血を提供いただければよろしいでしょう」

 言いながら、私は安堵していた。

 血の回収が難しい場合は、爪に含まれるごくわずかな血液を分析して、似たような血を探さなくてはならない。それが気の遠くなるような大仕事であることは言うまでもないことだ。

 これで話は終わりか、と内心胸を撫でおろしていると、エリザベート侯爵がとんでもないことを口走った。

「その血は、先生が回収をしてくださいまし」

「……はい?」

「それとも、わたくしに愛する人を傷つけるような真似をしろというのですか?」

「いや――」

 それを言ったらまず薬指の爪を保存するような真似がまず冒涜的だろう。と声高に言ってやりたかったが、そもそも思考が破綻している貴族が相手なのでどうしようもない。

「……それをすれば招待状を譲っていただけるのですね?」

「フレーダー家の誇りにかけて、決して約束を違えることはありませんわ」

 瓶に詰められた爪に目を向けてから、私は眉間に深く皺を寄せた。

 踏み込んではいけない領域に、足を突っ込んでしまっている。そんな予感にも、もはや抗う術はない。

私は重い首を縦に振った。

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