示談屋Ⅰ

 十歳になる前の話だ。

 田舎の畜産業などというのは、親の後ろをついて行って羊の周りを駆け回っているうちに覚えていくもので、俺もエレノアも例に違わず毎日のように羊に交じって野原を駆け回っていた。

 ルールで縛られるほど誘惑のあるような環境でもないから、親父もおふくろも俺にいいつけていたことはほとんどなかったが、一つだけはっきりと禁止されていたことがあった。

 『子供だけで森に近づくな』

 これは俺の家だけのルールではない。村全体で大昔から言われてことだ。いや、俺が生まれ育ったルナークだけでなく、エミグラント連合王国の田舎ならどこでだって言われていることだ。

 なにも難しい理由があるわけではない。この国の豊かな森には狼が潜んでいるのだ。

 羊飼いを生業とする村なら、狼は永遠の悩みの種だ。家畜の用心棒を雇っている村だって少なくない。

 ともかく、自由な生活の中でのたった一つ禁忌は、やんちゃ盛りで恐れを知らない自信過剰なガキにとっては厳重に施錠された宝石箱にしか見えないということだ。

 当時の俺は、どうやら自分が村では規格外なほどの高魔力者であるということと、自分がそれを生かせるであろう才能の持ち主あることを自覚し始めて舞い上がっていたころだった。

 大人たちが恐れる狼も、実際に遭遇したことがなければ大きな犬と違わない。

 実際に家で飼っていた牧羊犬は、俺に対して吠えたことすらなかった。

 子供だけで森に近づくな? 飛んでいるハエの翅さえ撃ち抜ける俺は、もう大人と同じように戦える。

 忘れもしない、よく晴れた夏の暑い日だった。

 俺は幼馴染を引き連れて、村から離れた森へ向かうことにした。

 俺の幼馴染は内気な性格で、どんなときでも俺の背中の後ろにくっついてきていた。

 親に与えられたばかりの檜の短杖を振り回しながら、俺はずかずかと森へと踏み込んでいった。

 木立の中へ一歩踏み込むと、途端に焼けつくような日差しは去って、俺たちを静寂と清涼が包んだ。

 なんのことはない。穏やかな森だった。

 やはり、大人たちの忠告は大げさなものに過ぎず、森に危険などはなかった。

 すっかり得意になった俺は、帰ろうと何度も俺を引き留める幼馴染にも構わずどんどんと森の奥まで進んでいった。

 狼の一群に囲まれていると気が付いた時には、もうなにもかもが遅かった。

 四方八方から地鳴りのような唸り声が響いて、俺は己の愚かさにようやくそこで気が付いたのだった。

 森の涼しさのために引いていた汗は、また滝のように噴き出していた。

 犬などではない。そこにいたのは剥き出しの殺意を身にまとった怪物だった。

 家の犬よりも二回り以上強大な化け物が、牙をむき出しにしてじりじりと迫りくる恐怖に、幼馴染は早々に腰を抜かしていた。

 五匹の狼の内、俺の正面に構えていたのは隻眼の獣だった。不思議なことに、俺はそいつがメスであることを確信していた。

 生々しい傷に覆われながらも、一目でそれが群れの絶対的なリーダーであることが分かる。隻眼の狼の動き次第で、無数の牙や爪が俺たちに襲い掛かるだろう。

 杖を強く握りしめながらも、俺は指一本動かせなかった。

 なにが高魔力者だ。なにが魔法の才能だ。

 土壇場で指一本動かせないのではなんの意味もない。

 仮に魔法が使えたとしても、五匹もの狼相手に無事で済むわけがない。

 考えれば考えるほど絶望的な状況で、普通のガキならここであきらめてションベンでもちびりそうなものだが、俺は違った。

 狼どもが一歩、二歩と近づくにつれて、俺は明確に冷静になっていった。

 狼どもの作る輪が小さくなるほどに、俺の中に流れる血が少しずつ氷水に置き換わっていく感覚。

 鼓動が早まり、心拍が上昇するほどに『俺の速度』は上がっていき、相対的に周囲の景色は遅くなっていった。

 その時の俺を支配していた思考はたった一つだった。

『殺して、生きる』

 次に気が付いた時には、血まみれで横たわる隻眼の狼と森の奥へと逃げ帰っていく狼どもの後ろ姿を眺めていた。

 どのようにして狼のリーダーを仕留めたのか、その瞬間の記憶だけが抜け落ちていたが、俺はただじっとりと汗をかいていて、手が鬱血するほど強く杖を握りしめていた。

 ふと視線を下に落とすと、血だまりの中で倒れ伏した狼と目が合った。

 すでに絶命していながらも残された一つの目を見開いたままの雌狼は、まっすぐと俺を睨み返しているように見えた。

 死んだ狼の魂が、奴の目を伝って俺の目から入り込んできたのは恐らくその時だった。

 それ以来死に瀕した場面を迎えるたびに、俺に乗り移った雌狼の魂が目覚めるのだ。

『殺して、生きろ』

 その声は俺にとっては加護であり、そしてまごうことなく呪いなのであった。



 静寂と清涼が辺りを包んでいた。

 心臓は早鐘のように響き、それ以外はまったくの無音の世界の中に、俺は立っていた。

 必死な顔をした下っ端どもが杖を俺に向けている。

 焦点の合っていない目で俺を見ている赤チェスターコートの野郎もすでにトリガーに指をかけているところだ。

 その動作のすべてが極限まで引き延ばされて、ほとんど時が止まっているようだった。

 俺はあくびをして、ゆっくりとチェスターコートの裾を右手で腰の後ろに回し、そしてホルスターから杖を抜いた。



 ホルスターに杖をしまった時、その場で立っているのは俺一人だった。

 五人分の血しぶきが花火のように飛び散って、生臭い鉄の匂いが倉庫に充満する。

 けたたましい女どもの悲鳴をよそに、俺は血だまりの中に倒れ伏す赤チェスターコートに歩み寄った。

「てめえには特別に二発くれてやったぜ。光栄に思えよ」

 顔面に空いた二つの穴から血を垂れ流すクアゾから、返事があるわけもない。

 こちらに向かってくる足音に振り向くと、やつれた様子の少女を肩を支えたエレノアが傍に立っていた。

「……エレノア」

「ありがとう」

 義務を果たすようにそれだけ言うと、エレノアは顔をしかめたままその場を後にした。

「…………」

 何も言えずにその背中を眺めていた俺は、

「やあ」

 と場にそぐわない気の抜けた声に我に返る。

「帽子、落としていたよ」

 女だった。

 いや、女と言うよりは少女といったほうが正しいか……見た感じは十二、三歳といったところだが、成熟した口調がミスマッチに感じられた。

 そいつは地面に落としていた俺の帽子を手渡してきた。

「随分腕が立つようだね」

 奇妙な目をしている。一瞬オッドアイにも思えたが、どうやら両目とも義眼のようだ。

 色白な顔に人懐っこい笑顔を浮かべている。

「助かったよ、ありがとう」

「勘違いするな、人助けが趣味でやってるわけじゃねえよ」

「そうは言っても、君のおかげで多くの女性が助かったわけさ」

 謎の女が指さした先では、縄を解かれた女たちがよろよろと立ち上がっているところだった。

「縄はボクが外しておいたんだ」

 ふふん。と自慢げなそいつは、あってないような胸を張って見せた。

「……ラングトン中の美女を集めてたんじゃなかったのか?」

「なんだか含みがある言い方をするね……」

 ムッとした顔をしたそいつを無視して、俺はぞろぞろと倉庫を出ていく女たちに目をやった。

「どうも、噂を聞く限りじゃ部品泥棒とかなんとかってヤツをおびき出そうとこんなトンチキなことをしていたらしいが……」

 部品泥棒の噂とやらは俺だって訊いたことがある。

 世界のあちらこちらで、綺麗な女の一番綺麗な体のパーツを盗んで行くとか、なんとか……まあよくある類いの下らないホラ話だ。

 しょっぴかれるリスクを負ってでも、しょうもない噂話のために女を攫って回るような真似を、ベラトニックがするとは思えないが……

「部品泥棒は実在するのさ。それも、このラングトンにね。ベラトニック・ファミリーのボス、その娘が耳を盗まれたらしい」

「……本当だろうな?」

 こうも堂々とベラトニック相手に喧嘩を売ったからには、俺も無事ではすまないだろう。

 部品泥棒の首をとってベラトニックの溜飲を下げておくのが最善手かもしれない。

「部品泥棒を探す気かい? 君の実力なら問題なさそうだけど、気を付けてほしい。彼の目には特別な義眼が嵌められているんだ」

「どんな義眼だ」

「ええと、金色で、目が合ったら体の動きが止まってしま――」

「なにッ?」

 俺は思わず大きな声を出した。

 びくりと体を震わせた謎の女が、恐る恐る俺に話しかける。

「こ、心当たりがあるのかい?」

「心当たりもなにも――」

 フード野郎の正体については、どうやらあっさりと分かりそうだった。

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