第16話

第10部 

トランジスター・ラジオ 流行と言うその呼び名 白黄色魔術 メディアの潮流に乗って 


【ブルース・リー】へと憧れて、【ブルース・リー】オリジナルの「双節棔」。

【ジークンドウ式ヌンチャク】を振り回していたあの少年も何時しか。

「バスケット・ボール」と日本の歌謡曲、「ロックンロール」の大好きな14歳。

中学校2年生へと成って居た。


この年の春俺は、【矢沢 永吉】さんの「時間よ止まれ」を。

初めて深夜のラジオ番組で。

真夜中に重々しさを増したその瞼と、自分のその眼を擦りながらも。

密かに一人ベッドの中で、ヘッドフォンをかけながらも。

「永ちゃん」のその歌声を聞いて居た。


そよそよと春の夜風を感じる、自分の部屋の寝床の上。

星空を見詰めながらも鼻歌交じりで

小学校6年生頃からのマセガキで、【アメリカ合衆国】の女性ボーカリスト。

人気シンガーの【オリビアン・ニュートンジョン】が大好きだった、この俺に。

大人の男の魅力を教えてくれたのは、この【矢沢 永吉】さんと。

彼の作った楽曲、【時間よ止まれ】だった。


春、未だ開けたばかりのその季節始まりから。

この曲を聞いて居てもうどんなに。

やがて訪れる夏を、待ち侘びた事か。

まだ中学校1年生の俺にはこの曲が。

恋愛のそのモノの始まり、その様にさえも感じられて居たからだ。

まあもう既に、大人に成ったつもりだった訳だなっ。


そして訪れた夏、7月の終わり。

その夏休みの始めに。

貰ったばかりのラジオのボリュームを、もう最大限に迄上げて。

【矢沢 永吉】さん、通称【永ちゃん】のこの曲を。

全身全霊で、もう震えるかの様に。

堪能をしていたモノだ。


「罪な~…ヤツさ~…ああパシフィック~…青く~燃える~海~…どうやら…俺の~…負けだぜ~…瞼~閉じ様~…幻で…構わ~ない~…時間よ~止まれ~命の…目眩の~中で~…」


当時の俺に与えられたていたその部屋は、運良く太陽光が。

燦々と差し込んだ和室、畳張りの四畳半で。

この部屋の柱へと掛けられた、鏡の前へと陣取り。

俺はこの年初めて、自分で買った瓶付け油…???

要は西洋式のポマードで。

前髪を額の上部へと向かって引き上げる、【リーゼント・スタイル】と成り。

その髪型スタイルで、街へと繰り出した。


気の所為かもう本当に、それもう無茶苦茶な迄に。

軽快なフットワーク、自分の足取りが軽い…???

お洒落ってのは思春期、その爆発的な迄のエネルギーを。

最大限に迄も引き出す、最強の楽しみだ。

そして更に、人が何時迄も若く居るその為にも。

最も重要な、その要素で在り。

其所へ渾身、自ら最大限のエネルギーを傾ける以上。

人はもう決して、老ける事もないのだと言う事が。

現在もこの俺が、その長年に持ち続けた。

つまりはその持論だ。


まあ要は簡単な話、もう単純に。

この思春期の少年は。

音楽メディアのプロパガンダ、民衆への洗脳操作へと乗せられて。

浮かれて居た訳だが。

只俺の場合、この当時先進の反骨児。

「永ちゃん」のメディアへと逆らう、その彼持ち前の精神。

その深い影響も在って。

例え乗せられるんでも、自分で自らがだ。

「俺は乗せられるんだ…しかしこの乗せられる事に因って…自分の気分を…同時に自分で引き上げるんだ…つまりは乗せられる事を…寧ろ此方が…利用するんだ…」と。


只じゃ転ばない、只じゃ転べない。

そんな俺成りの、当時未だ12~13歳の少年が見せる。

反骨精神も既に、持って居たモノだ。


そして【矢沢 永吉】さんが、その民衆の洗脳操作へ。

加担して居たのかどうか…???

メディアの方針へと反発と反抗をし、テレビ番組へ出る事さえも拒み続けた。

その本人の、強固な迄の姿勢と。

そんな方針からも。

そうした意図が在ったとはもう決して、現在の俺にさえも。

到底そうは想えない。


逆に当時は未だ、それが良く解らなかったのだが。

「不良を止めてはいけない…不良を止めれば世間へ…モノを申せなく成る…」と。

この俺の思春期から、実に36年後のその夏に。

俺は初めて。

この時結婚をした一人の後輩の、その嫁さんの親父さんが。

そう話して居たと言う、その名言と名台詞で。

何故(なぜ)人は、「反骨心」や「反発心」を持ちながらも。

世の中や世間へと、反発反抗をするのかを。

漸く俺は深く、その事を理解をした様だ。


まあ大まかにはそれを、解って居たとはしてもだ。

未だハッキリとそれを、自分の頭で理解をする迄には。

俺自身へも、人のその助言を聞き入れ。

それ成りの時間が必要だったんだって。

んな話な訳だ。


この夏新たに、新調したばかりの。

横縞模様で水色ベース。

紺とオレンジと黄色、そして赤と青色の混じった。

半袖の開襟、ストライプのポロシャツへ。

初めて上げた前髪、【リーゼント・スタイル】を決めて。

「ご機嫌だぜベイビー…」と俺はもう、【矢沢 永吉】さんへと成り切り。

街を歩いて居たモノだ、其処んとこ宜しくと…。


丁度この頃日本では、電気機器メーカーの【CASIO】が。

ポケット型電子計算機の、その発売と。

その後に薄型のデジタル・ウォッチを、商品化し発売。


んん…???

計算機が先だったか…???

デジタル・ウォッチが先だったか…???

まあちと忘れたが。

販売のその促進ルートへ、それ等を乗せて居たと。

そんな時代だった。

計算機が先だなっ。


その後に今度はテレビ・ゲームのテレビ・テニスが、1975年9月12日にエポック社から発売をされ。

電子ゲーム機器時代の到来と、その幕開けを告げた。

そんな世相だった。


日本初の家庭用テレビゲーム機は、既にその少し以前から。

当時のゲーム・センターでも一躍、その脚光を浴びていた。

テーブル型ゲーム機のその家庭用版で、当時未だ開発がされたばかりの。

このゲーム・センターへと置かれていた、ゲーム機は。

その総重量で何と、凡そ70kg前後も在り。


スマホ・コンピューターが、世界Share率。

凡そ67%以上をも持つ現在。

日本の電子機器技術が引き続き、全盛期で在ると言う現在。

この時代から見れば。

それは想像を絶する程の巨大さと、その重さだった訳だ。


いやまさかあの大型機器の、その100分の1へも満たない。

ポケット・サイズの電子機器が。

此処迄の機能を発揮する、そんな時代が来るとは。

当時それでも、かなりの知識を持って居た俺も。

もう努々と現在のこの様子迄をは、予想しては居なかったが。

まあそれは主に、ゲーム機の話だがなっ。


その後に高まったユーザー達のニーズへと答えて、発売を開始した家庭用テレビ・テニス。

発売当時のその定価格は、¥19,500円で。

少年達は皆毎日、One play One coinの。

ゲーム・センターへと通い。

次のデジタル・ゲーム機その商業戦略へと乗る、新しいゲーム機の登場を。

それももう心待ちに、待ち侘びて居たモノだ。


翌年遂にその心待ちとした、最新鋭のデジタル・ゲーム機が誕生をし登場をする。

それもその誕生とその登場に因って、全世界をも震撼させた。

あの【TAITO】の、【スペース・インベーダー】がだ。


テレビ画面へと表示をされたデジタル画像のインベーダーを、まあデジタル画像とは言っても未だ単なる。

単色ドットの、そんな画像を。

まあ要は【ジョイ・スティック】、左右へ動かすレバーとボタンで。

その2つの動作で動かし、横移動させているタンクの戦車から。

砲弾射つと言った。

ゴツゴツとした宇宙人の、その姿をで在る。


画面上部で動いているその的、つまりは【インベダー】へ。 

同じく箱形のタンク、デジタル画像の戦車が。

弾を示したドットの砲撃弾を撃ち込む、只それのみの。

まるで子供騙しの様な、ゲームでは在ったのだが。

コンピューターへ打ち込まれた、そのプログラムとの対戦と言う。

コンピューターとの対戦で在ると言った…???

そんな内訳が。

もう無性に当時の少年、未だ当時13歳のこの俺を。

本当に心底熱狂をさせ、興奮させてくれたモノだ。


それは俺がまだ13歳、中学2年生の当時。

1978年の夏休み。

8月のその始まりの事だった。

このゲーム機の誕生とその登場は、当時の少年達のみならず。

大人達迄をも巻き込み、その心を狂わせて。

熱狂をしたファン達はその男女と、老若男女を問わず。

社会現象と迄に成った程だ。

特に少年達は皆、学校が終わると繁華街へ。

もう導かれるかの様に、集まって来て居たモノだ。


髪を上げ始めてから既に、約1年余り。

世間では【YMO】の曲、「TOKIO」や「RYDEEN」が。

流行り始めて居た。

この初期の頃の電子機器、つまりはこの国日本のその電子機器技術が。

商業用電子ゲームや、家庭用電子ゲーム機への開発。

電子技師のその応用へと役立ち。

そして更に、【YMO】達の作り出す電子機器音源の。

それ等の音楽を聞いて居て。

俺はもうそれも間違いなく、日本は世界を取ったのだと。

世界を席巻した筈だと、そう確信をして居た。


その後に起きた【NEC】のパーソナル・コンピューター開発者達、【TRON計画】の開発者達を乗せた。

アメリカ軍需産業【ロックフェラー】と、その下僕で僕の。

【Microsoft】の【ビル・ゲイツ】に因って、計画をされたとされる。

当時のアメリカ空軍に因って、撃ち落とされたとも言われている。

日航航空機123便の、その墜落事故の様子から。


当時の俺の予想はもう、全く間違えては居なかったのだと。

今でもそう、そう確信をしている。

要は事故発生から墜落時迄のその様子が、【日本】の報道機関。

その各社の報道が、もう次々に二転三転をし。

コロコロと入れ変えられていたのだ。


この時も俺のその第一声は。

「可笑しいよなっ…もしかして何処かの国へ…間違えて撃墜されたんじゃねえのか…???」と、もうその儘だった。

まあその話しは今、置いて措いて。

取り敢えず【YMO】とは何ぞやと…???

この世界を席巻した、日本人電子音楽の。

創始達のその様子を、此処で先ず説明して措こう。


↓※以降Wikipedia参照


※【Yellow Magic Orchestra】

(イエロー・マジック・オーケストラ)は【細野 博文】が、1970年代後半に提唱をした。

新たな成るコンセプト。

その「イエローマジック」理論から、誕生をしている。

これは白魔術、善や白人等のその象徴として。

この真逆。

特に白人音楽でも黒魔術でも、悪や黒人等が。

その象徴と決め付けられる事に。


主に黒人音楽でも白人音楽でも、そのどちらでも無い。

黄色人種独自の、その音楽を作り上げる。

斬新なアイディアと、その新た成るジャンルとして。

魔術の色を人種の色に掛けて提唱をした、「黄色魔術」(おうしょくまじゅつ)。

つまりは(イエローマジック)理論から発生をした、新たな電子音楽分野の音楽なので在る。


1980年代の初頭に巻き起こった、テクノ・ニュー・ウェイブ・ムーブメント。

その中心へと居たグループの、その一つでも在り。

シンセサイザーとコンピューターを駆使した、新鋭の新た成る音楽。

1978年に結成されてから、1983年の「散開」。

解散に至る迄のその5年間の間に、世界と日本を席巻した。


活動期間中には米国内等でのレコードリリースと、及びそのコンサートツアーも同時に行って居た。

英語圏でも著名な日本人のミュージシャンでも在る。


1993年一時的に「再生」再結成をし、又2007年にも再び。

再々結成をしている。

当時シンセサイザーを駆使した音楽としては既に、ドイツの「タンジェリン・ドリーム」や。

イギリスの「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」、日本の「冨田勲」等が最も有名で在り。

1978年「ディーヴォ」の「頽廃的美学論」や、「クラフト・ワーク」の「人間解体」にも電子楽器の導入は。

明らかでも在った。


因って【YMO】はその路線に、東洋趣味趣向をそれと分かる形で。

歌詞とアレンジそしてコンポジションの、その全てへと導入をし。

プロモーションから黄色人種経由で在る事を力強く主張、バラエティ番組やコント番組等へも数多く出演し。

積極的に自らのその露出を、グングンと増やしなからも。

バンドとしてのその高い知名認知度を、目覚ましい迄に高めて行った。


↑以上Wikipedia終了


当時俺はこの【YMO】の楽曲、【TOKIO】や【RYDEEN】。

そして「永ちゃん」や欧米人達の作る洋楽、【ニュー・ウェーブ】で。

髪金(ぱつきん)姉ちゃんしかも目茶苦茶美人の、

「Blondie」のその楽曲を。

「SONY」の「WALKMAN」1号で流し聴きながら。

渋谷の街を飄々と、闊歩して居たモノだ。


著者・龍神 武明

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