春霞

Slick

春霞

 春霞

Slick


 名も知らぬ先輩、かく語りき。

「人が変わるのに遅いってこたぁ無え。遅いのはお前のオツムの方だぜ」


□ □ □ □


 えらく混沌とした部室に、コポコポとお湯の沸く音が弾けていた。

 ここで一つ読者に質問をしてみたい。今僕はどこにいるか、もし当てれたら、この部屋の備品を何でも一つ進呈しよう。

 まず感覚を衝くのは、古い木材に似た馥郁たる香り。本棚には様々な背丈の本が立ち並び、その隣ではなぜか小太りのマトリョーシカが薄ら笑いを浮かべている。足が一本欠けたチェス柄天板の長卓は、その一端に少女漫画を積んで支えていた。壁のアイドル物カレンダーは、六年前の日付のまま薄くホコリを纏っている。それごと捨てた方が良さそうなゴミ箱には、クマともコアラとも分からないぬいぐるみがちょこんともたれ掛かっていた。

 備品だけは賑やか。そんな世界混合文化遺産に指定されてもおかしくなさそうな此処がどこかと言えば――僕らの文芸部室な訳だった。

 正解しただろうか? 多分無理だったろうね。そもそも僕らは、まともに文芸部と名乗れるような活動なんて正直あまりしていない、いわゆるグダグダな部活だ。

 野球部の砲撃で半年前にヒビが入った窓から夕空を眺めていると、カチャリと静かな陶器の音が響いた。

「やっぱし、ここで飲む紅茶が一番だな」

 なぜか唯一丸椅子でない上座のローラー椅子に腰かけた先輩が、そう独り言つとソーサーにティーカップを下ろした。まぁ、文字通り混沌の渦中に相応しくない上品さだけは衆目の一致するところだと思う。

 精悍な顔つきの先輩は二年、僕は一年生だ。

 先輩について書かせてもらうと、容姿的にはむしろ体育会系といった趣が強い。こう言うと先輩は決まって『人を外見で判断すんじゃねぇよ、このフツメンが』と矛盾に満ちた言葉で怒りを表明するのだった。出会って早一年だが、僕は未だに先輩の名前を知らない。いや、教えてもらってない。だから『先輩』――それで十分だろ?と言われると、そんな気もした。

「――ちょっと、そのロシアン・ティーを淹れた私を忘れないでくださいよ?」

 おっと、ティーポットの蓋をパチンと閉めて口を挟んだ彼女は久留島だ。僕と同じ一年で、この文芸部唯一の女子部員。いや、だから忘れてないって。

 グラデーションボブの髪に、身長は少し低め。遠視なのか、手作業をしたり本を読むときは細身の赤縁眼鏡を掛けている。時に冷淡だが、基本的には気だての良い奴だ。

「でもな久留島、お前に淹れ方を教えたのはこの俺だろ?」

 先輩はカラカラと笑うと、味見するようにもう一口カップをすする。そういえば初めてお茶の趣味を知ったときは、先輩の性格とのミスマッチに困惑したものだ。

「......ん、でもま、もう俺を超えたっぽいな?」

「それは嬉しいですね」

 僕の対面に腰かけた久留島は、小さく手を合わせると自分のカップに口をつけた。

「...... いえ、やっぱりまだまだです」

「そう思えるなら、言うこたぁ無いぜ」

 先輩はこんな風に独特の言い回しを好む。

「先輩?」

 僕は口を開いた。先輩は背もたれにだらりと身を預けながら、こちらに一瞥をくれる。

「来年受験生ですよね? 大丈夫なんですか」

「心配すんな、なるようになるさ」

 余計なお世話というようにヒラヒラと手を振ると、先輩は回転椅子を軋ませて立ち上がり、ベランダの窓を全開にした。

 ぶわっと吹き込む春風が、部室に積もったチリを舞い上げる。まぶしく差し込む西日に細かな粒子が影を落とす。遠くから野球部の甲高い打球音が聞こえた。

「お前ら、本の人生って考えたことあるか?」

 向こうを向いたまま、唐突に先輩が尋ねる。

 僕と久留島は、やれやれまたかと思いつつ顔を見合わせた。

 先輩はよく、こんな捉え所の無い問い掛けを投げてくるのだ。曰く『お前らの文芸的想像力を試してる』らしいが、ただの気まぐれだろうと思っていた。

「どうだ? 印刷所でインクを焼き付けられてから、焼却所で灰になるまで」

 夕陽の輪郭を帯びた先輩が振り返るが、その表情は逆光で伺い知れない。僕が答えないでいると、久留島が先を越して言った。

「さしずめ、人の手を旅する物語の語り部(ストーリー・テラー)ってところですかね」

 その言葉に、先輩はよく見てないと分からないくらい僅かに目を見開くと、ニッと凄みのある笑みを浮かべる。

「いい表現だ、さすが俺が教えただけあるな」

「お茶以外で先輩に何か教わった覚えはありませんが」

 つれない返事も意に介さず、先輩は満足そうに椅子に戻ると、長卓の上に両足を投げ出した。ちなみに茶器類は久留島の手で既に下げられている。

「なら、この本の寿命はそろそろだろうな」

 そう呟くと、先輩はポケットからくたびれた文庫本を取り出し、長卓の上を滑らせて寄こした。

「スティーブン・キングの短編集『マイル81』だ」

 擦り切れた灰色の表紙に目を落としていると、トントンと天板を叩いて先輩が注意を引く。

「ま、タダで貸してやる代わり七十二時間以内に感想を寄こせな?」

 え、急にがめついなぁ。

「そうだな、最低でも五百字以上で。すっぽかしたら断頭台送りな」

「あー、分かりました」

「読んでおきます」

 僕らはこんな風に、先輩の気まぐれで本を読み合ったりしていた。大抵は先輩が勧めたり、たまに先輩に勧めたり。しかし先輩が未読の本はほとんど無かった。

「そそ、それともう一つ」

 先輩は組んだ足を下ろすと『今でしょ!』とでも言いたげに僕を指さした。

「俺の後継はお前でいいな?」

「......あっと、時期・文芸部長ってことですか」

「違う」

「え?」

 よく分からなかったが、どうやら先輩引退後の部長は僕に決まったらしい。

「ちなみに久留島じゃない理由は?」

「気分だろ、んなの」

 ゴキリと首を鳴らすと、先輩は立ち上がりざまに大きく伸びをし、学生鞄を肩に引っ掛けると部室を出ていこうとした。本当にどこまでも勝手気ままな先輩だなぁ。

 しかし、その一瞬前に。

「......そっか、俺が部室に来るのもこれが最後なんだっけ」

 そう小さく呟き、さっと部室を振り返って一瞥をくれると、こう言葉を投げかけた。

「アリアドネの糸を引くのは簡単だけどよ、ラビリンスの外で糸を引いてるのは、ひょっとしたら悪役かもしれないぜ?」

 ぶっきらぼうに言い切ると、今度こそ部室を出ていった。

 うん?

 何はともあれ……そう、明日は三学期の終業式だ。

 それは先輩の卒部を意味していた。


□ □ □ □  

 

 部活帰り、僕は久留米と並んで家路を歩いていた。別に大した理由もなく、ただお互いに友人が少なく、家も近かったからだ。

 川の側道を歩く二つの影法師が、山向こうから差す最後の西日に引き伸ばされる。川沿いの雑草がざわざわと風の流れを体現していた。夕影のアスファルトから夜の涼しい香りが立ち昇る。

「そういえばこの一年、長かったようで短かったな」

 僕が話しかけると、久留島も小さく含み笑いを漏らした。

「そうそう、先輩と初めて会った時といったら」

「まったく度肝を抜かれたよな。やっぱり、お前の時もああだったのか」

「あんな部活勧誘、普通じゃないって」

「だよな」

 眼下の水面には、今日最後の輝きの断片がチロチロと浮かんでいる。

 それをぼんやり眺めながら、僕は先輩との邂逅を思い起こした。


□ □ □ □


 ――ちょうど一年前。

 

 賑やかな終礼前の教室で、僕は一人だった。

 元来、人付き合いは苦手だった。だから別に高校で友人が出来なくても、大した失望なんてなかった。

 だって、それが日常だったから。

 そういう訳で、その時の僕は読みかけの文庫本に没頭していた。

 なのに。

「なぁ少年?」

 ふと手元に影が落ちると、ハスキーな声が降ってきた。

 見上げた先に仁王立ちしていたのは、一人の男子生徒。学ランの組章の色から一つ上の先輩であることが分かった。

「え、なんですか......先輩、ですよね?」

 思考停止で聞き返す僕。というか、どうして新入生の教室に先輩がいるんだ? そして、もっと訳が分からないのは、どうして『僕』なんだ?

 僕の混乱を尻目に『先輩』は大きく息を吸うと、にこやかに言った。


「少年、文芸部に入るか絞首刑か選べ」


 僕、目、ドット。

 え、ってか怖っ!?

 脳内で指数関数的に『!?』が増殖していく中、僕は二つ目の質問を返した。

「先輩、あの......誰ですか?」

「よくぞ聞いてくれた。俺は文芸部の神だ」

 あーうん、悟った。このヒトとまともな会話は無理そうだ。

 面倒ごとには首を突っ込まないのが一番。当然の結論に至った僕は、彼を無視して本に意識を戻そうとする。

 しかし。

「悪いな」

 先輩はそれだけ言うと、勝手に本の表紙を持ち上げたのだ。

「『心霊電流』か......たしかキングだろ? 良いセンスしてんな」

「よく知ってますね......っていや、一体なんの――」

「ちなみにラストでジェイコブス師は死ぬぜ?」

「!?」

 なんと先輩、とんでもないネタバレをかましたのである。

「ちょっ、いい加減にしてください!」

 事態に気づいたのか、だんだん周囲がざわつき始めている。そのまとわりつくような視線が嫌で、僕は少し噛み付くように言った。

 しかし。

「やっとお前から喰い付いてくれたな」

「へ?」

 そんな僕の顔を正面から覗き込むと、先輩は滔々と語る。

「周りを見ろよ、誰もが『友達とのお喋り』ってやつに掛かりっきりだろ? そんなクソ騒々しい中で、お前だけが本と会話してたぜ――なら、お前の友達は本ってことだろ? そして俺は、その友達の友達って寸法さ」

 その、言葉は。

 何故か『あるべき場所』に収まる感覚とともに、僕の心にゆっくりと染み込んだ。

 一気呵成にまくし立てた先輩は、そこで唐突にぐっと身を乗り出す。


 なぜだかこの瞬間、今この時間は一生忘れられないものになると確信があった。


「――少年、文芸部に入らないか? イエスかはいで答えろ」

「はい?」

「素晴らしい。三十分後に部室棟三階の部室で待ってるぜ? もし億が一来なかったら鉄の乙女にインか石抱きの刑を選ばせてやるから、泣いて喜ぶんだな」 

「??」

 じゃ!とだけ言い残すと、先輩は颯爽と教室を飛び出した。教室に残された僕は一人、ねじれた奇妙な気持ちを抱いていた。

 周囲の『奇人』を見る視線も、前ほど気にはならなかった。

 面倒ごとには首を突っ込まないのが一番。それは変わらない。

 でも、

「......ハハッ」

 何だか、一周回って面白そうじゃないか? 

 うん、こんな高校生活も悪くなさそうだ。そもそも失うようなものも無いんだしさ。不思議な確信とともにそう思った。

 この日の選択は果たして正しかったのか、それは一年経った今も分からないけれど。


□ □ □ □


「しかしまぁ、終わっちゃうと寂しいもんだよなー」

「二度と戻らないものって、後から考えると何であれ良かったように感じちゃうからね」

 僕と久留島は橋のたもとで別れた。すれ違う車のヘッドライトが二人の間を切り裂く。姿見川と彫られた橋石が深い影を落とす。

「――あぁ、じゃまた明日」

 そう言い合える相手も、明日で一人減ってしまうのだろうか。そんな、ただ漠然とした寂しさだけが心の何処かに引っ掛かっていた。


□ □ □ □


 終業式といえば、退屈の代名詞みたいなもの。少なくとも僕はそう思っていた。

 その中でも一等退屈なのが、この表彰授与だ。その学期中に大会やコンテストで賞を取った生徒が、全校生徒の前で一人ずつ表彰され拍手を浴びるだけ。お互い何の生産性もない時間。

 そう思っていた。

 ステージ端に残る生徒もようやく半分を切った頃。あと何分で終わるかな、なんてぼんやり考えていた、その時だった。

 次に登壇した人物に、目が釘付けになった。

「第十五回県内俳人新人大会佳作。第二学年、神 飛車斗(かみ ひしゃと)」

 先輩だった。


□ □ □ □


「――へ?」

 訳が分からなかった。そんなこと、一言も聞いていなかったから。

 ドクン。

 心臓が、いやに弾ける。

 じわじわ沁みる衝撃が、ひょいと真空に投げ出されたような浮遊感で聴覚を奪う。マイクの残響か耳鳴りが消えない。かーっと目まいがし、頭はひどく熱い。鼓動がうるさい。それでも視線は、先輩一点に吸い寄せられる。スポットライトを浴びるその背中は、たしかに僕たちの見知った姿だった。

 しかし同時に、それはひどく小さくも見えて。

「クスッ」

 だが次の瞬間、押し殺した周囲の笑い声に意識が引き戻された。

 皆が壇上の先輩を見ていた。だが、その瞳は――。

「――なにアレ、『神』って名字なの?」

「ウチらと同じ二年? 知らん名前だわ」

「ねぇ今『廃人賞』って言った?」

「ちげぇよ俳人だって」

「マジウケる、廃人の神さま?」

「つーか佳作ってゆーてじゃね?」

「ぶっちゃけ俳句なら俺でも賞取れそうだわ」

 まさか。

『――よくぞ聞いてくれた。俺は文芸部の神だ』

 名前。

 ずっと昔に、教えてもらっていたなんて。

 いつの間にか表彰を終えた先輩は、適切な回れ右をそこそこに真似てこちらを振り返った。僕は思い出したように、熱烈な拍手を送った。

 ふと別の激しい拍手が聞こえたかと思えば、それは久留島だった。彼女も一心に先輩を見つめて、最後の称賛を送っていた。

 壇上の先輩は、何かをやりきったように清々しな、しかし同時に、何か大切なものを失ったように寂しそうな顔をしていた。


□ □ □ □


「栄えある卒部の日に、俺は廃人認定されたって訳かよ」

 その日の放課後。

 午前中に学校は終わり、久留島と連れだって中庭を横切っていると、ぽつんとベンチに腰掛ける先輩が目に入った。ゆらゆら踊る木陰から顔を上げた、その交わった視線に一瞬怯みそうになる。

 それでも、無視するなんて当然できなくって。

「廃人って......聞こえてたんですか、アレ?」

「おうよ。アレには教皇もムカつくだろうな」

 片手でエアクオーツをする先輩。

 いつもなら、冗談だと笑って済ませられるのに。

 でも今日は、三人の間に沈黙が落ちる。

「......どうして教えてくれなかったんですか、俳句のこと」

 思い切って口を開いたのは久留島。

「あぁアレか、俺も忘れてたからな」

 しかし先輩は、こちらまで気の抜けそうな返事をすると、不意にピンと頭上の空を指さした。

「なぁ、あの雲の白さを突き詰めてったら、どこに行き着くと思う?」

 まただ、いつもの捉えどころの無い問いかけ。

「その先は『お先真っ暗』ですかね」

 ほぼ独り言のように僕がつぶやくと、先輩は僅かに口の端を歪めた。

「上手い表現だ、さすが俺が......」

 そうして、少しして。

「そうか、なら俺とあの雲は仲間ってことだな」

 再び三人の間を沈黙が阻む。

「あ、そーそ」

 場の気まずさを破ろうとしたのか、はたまた場の空気を読んでいないのか。先輩は制服の胸ポケットに指を突っ込むと、小さく折り畳まれた紙片を差し出した。

「危ねぇ、こいつも忘れるところだったぜ」

「?」

 渡された上質紙の折り目を開くと、僕らの目に飛び込んできたのは。

「......部活動の創設許可願い?」

「おうよ」

 その一番上に、先輩の達筆な文字で記されている文字列。

 いや、でもそんなはずは......。

「え、『文芸部』って、もうあるじゃないですか?」

 ほら私たち、というように両手を広げて久留島が言う。

 確かに訳が分からない。

「馬鹿か、お前ら」

 しかし先輩は後頭部で両手を組むと、あっけらかんと、とんでもないことを言い放ったのである。

「文芸部なんて無ぇよ」

「!?」

 僕らの反応を見て、先輩は呆れたようにため息を吐く。

「お前ら生徒手帳も読んで無ぇんだな?」

 同じ胸ポケットから紺色の手帳を取り出した先輩は、慣れた手付きでペペペとページを繰ると、あるページに指を挟んで突きつけた。

「ほらよ」

 久留島と二人して、小さな手帳のページを覗き込む。

『部活動の設立は五名以上の生徒の希望があることを条件とする。また構成員が四人に満たない部活動は、これを認めない』

「......え」

 もしかして。

「去年お前らを誘った時点で、俺一人だったろ? つまり文芸部なんて、とっくの昔に潰れてたんだよ」

 ......嘘だろ?

「いや、でも......でも」

 何か大事なことを忘れている。そんな気がして、必死に記憶をまさぐる。

「あ! でも先輩、初めて会ったとき『文芸部』って言ったじゃないですか!?」

 とっさに久留島が口に出し、ハッとする。再び蘇る『文芸部の神』という言葉。しかし――

「あと一人誘えれば『部』になってた筈なんだよ」

 そう力なく告げた先輩は、自分の言葉を振り払うように立ち上がると、僕の持つ紙片を指さした。

「だから、これは俺からの最後の願いだ。どうか文芸部を作ってくれ。なぜって......俺には出来なかったから」

 この通りだ、と言ったかと思えば、先輩は僕らに深々と頭を下げたのである。

「! そ、そんなことしないでください。ね、ほら先輩?」

 ゆっくり顔を上げた先輩に、久留島はスカートの前を握りながら言った。

「......もっと先に言ってくれればよかったのに」

「俺も楽しかったんだよ、お前らと毎週ただ駄弁り合うってのが。でもコレだけはずっと心に引っ掛かってた。でも今の自分が楽しけりゃって......」

 いや悪い、言い訳だなと言うと、先輩は顔を伏せる。

 そんな先輩に、言いたい言葉だけが募っていって。でも全部が口に出す寸前で凍り付いてしまうようで。

 ずっと言えなかった思いが、喉の奥からこみ上げてくるのに。

「僕はもっと......先輩と居たかったです」

 何とかそれだけ絞り出すと、先輩は無理やりいつもの笑みを作って応えた。ニカッと笑う口の端が、少し震えていた。

「そうか、そりゃ......嬉しくて泣けるな」

 あぁ、そうなのか。

 僕たちは最後の瞬間まで、こうしてお互いに強がって、涙を押し隠して、別れを告げ合うのか。

 先輩は徐に立ち上がると、頭の後ろを搔きながら首を振った。

「さよならは言わないぞ。別に死ぬってわけじゃないんだからな」

 あぁ、これは感動的な別れなんかじゃない。再会の約束なんかも無い。僕らはこのまま別々の人生を歩んで、そして......いつか大人になってしまうんだろうか。

 先輩は振り返りもせず、校舎へ戻ろうとする。

 分かっている。そんなこと、痛いくらい分かっているのに。それなのに......どうしてこんなに苦しいんだろう?

 言いたいことさえ何一つ言えないで、そのままサヨナラだなんて絶対に嫌で。

「だからっ......」

 去り行く背中に、せめてもう一度だけ――。

「せ......」

 手を伸ばす。

 あぁもう、届け!

「先、ぱ......!」

 届け、届け――届け!

「先輩!!」


 神先輩は、振り向いた。

「ん?」

 春風が舞った。


 僕の口からは、気の利いた言葉なんて何も出てこない。

 でも、それで良い。これでも十分、僕らの気持ちは伝わるはずだから。

 そのくらいには、僕らは先輩を知っているはずなんだから。

「文芸部、必ず復活させます」

 そして、少しして。

「”人が変わるのに遅いってこたぁねぇ” ですよね?」

 そう言い切って見せた。

 先輩は不意に、恥ずかしそうに頭の後ろを掻いた。そしてお馴染みの笑顔を浮かべる。

 それは嘘偽りのない笑み。

 いつでも俺についてこい!と言いたげな、自信に満ちたあの笑み。

 初めて出会った時から少しも変わらない表情が、そこには確かにあった。

「おうよ! よろしく頼んだぜ、時期部長?」

 それだけ言うと、後ろに手を振りつつ先輩は教室に戻っていった。

 空では白雲が散り散りになり、透き通った青色が僕らを見下ろしていた。


□ □ □ □


「......行っちゃったな」

「そうね」

 校庭を突っ切りながら、僕と久留島は言葉を交わす。転がってた石ころを蹴りながら、握りしめた紙に目を落とした。

「時期部長なんて、僕に務まるかな?」

「先輩の指名でしょ? ......まぁ気分だったけど」

「言ってくれるなぁ」

 その時、ふと視界を横切ったモノに、ひらめいた。

「そうだ、久留島。これ見ろよ」

 僕は校庭にしゃがみ込むと......ほら、校庭の地面から飛び出てる短いロープ、あれ何ていうのかな? それをビンビン引っ張りながら言った。

「なぁ久留島、もしこれがブラジルまで繋がってたとしたら、どう思う?」

 久留島は一瞬「は?」という顔をした。そして次第に、僕の意図を飲み込んだようだ。

 その目はこう言っていた。まったく、変なところばかり受け継ぐのね。でも、それでも受け継ごうとはしてるみたいね?

「良いじゃない、ブラジル人と糸電話ができるわ」

「なるほど? 僕は地底探検に良いアリアドネの糸になると思ったよ」

 僕らは一瞬見つめあい、そして思い切り笑った。

 笑い声が、いつまでも春空に響いていた。



 春霞 筆の立つ音にいざなわれ 

  夢と知りせば告げまし別れも



*エピローグ


 それにしても、新入生の教室ってこんなに入りにくいものなのか。そう内心ぼやきながら、僕は去年まで自分が使っていた教室の戸を引いた。

 慣れてるはずの場所なのに、今では全く知らない後輩たちがウジャウジャといる。その違和感に少しムッとしてしまう。

 でも、きっと先輩も同じ気持ちだったんだろうか?

 お喋りの波をかき分けるように、視線を走らせる。どこか、どこかに居ないだろうか。

「あ」

 居た。それは過去の僕だった。 

 あぁ、何だろう。胸が熱くなるようなこの気持ちは。いま僕はここに立っている。そしてあの少年は本を読んでいる。今は独りで。

 机から顔を上げれば、本と旅できる、もっと面白い世界が広がっているのも知らずに。

 約束は守りますよ、先輩?

「なぁ、少年?」

 僕が声を掛けると、彼はビクンと身体を跳ねさせた。丸メガネの奥から覗く瞳は、警戒と困惑に揺れている。

 アリアドネの糸を引くには、時に悪役にだってならなきゃな。

 胸いっぱいに大きく息を吸い込むと、僕は一言、

「君、文芸部に入るか絞首刑かを選ぼっか?」

 窓から春風が吹き込んだ。


(終)





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春霞 Slick @501212VAT

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