その魔法使いの名は

 蛾になってみて分かったことは、人間だろうと虫だろうとぼっちはどこに行ってもぼっちだということだ。

 習性なのか身体は明るいものに引き寄せられるのだけど、街灯に群がる同族に揉まれては負け、他の虫たちが何を喋っているのか理解できずに飛び去るしかなく、軒下で休もうとしてトカゲに襲われかけた。そもそもコミュニケーションを取ろうとするのが間違いなのだろうか。虫としてどう生きていっていいのか分からない。

 お父さんやお母さんの顔がちらついて複眼がしょぼしょぼする気がしたけれど、泣こうにも泣けない。声も出ない。どうしよう、どうしようもなく人間に戻りたい。


 途方に暮れて、道の真ん中に舞い降りる。見上げた月はとっぷり暮れているからか、よく知るように頭上で真ん丸に輝いていた。そばで明滅する信号は、明るいのに静かだった。

「おやおや、君は蛾っぽいけど蛾じゃないぽ?」

 突如背後から声がかかり、びくりと身を震わせる。辺りに人気はなかったから余計に驚いた。

 恐る恐る振り向くと、とんがった革靴の先が目の前にあった。

 徐々に見上げて、靴の主が黒いローブを纏った女の子だと分かる。背格好を見るに、恐らく同世代だと思う。

 紫にピンクに銀色と、夢の世界を織り交ぜたような曖昧な色味の長い髪がふわりと夜風に揺れて、頭のとんがり帽子が傾いた。ガラス細工みたいに澄んだ瞳が興味深そうにこちらを覗き込む。

「うーんとえーっと、喉に効くやつ……どれだったかなーっと……」

 何だろう、風変わりな子だ。疲れた私は飛べもせず、彼女をただ見上げていた。

 ハロウィンパーティーから飛び出してきたような魔女スタイルの彼女は、肩から提げた鞄を鼻歌交じりに漁る。

 ややあって取り出したのは――緑の細い茎、だった。先端にほんのり紫の蕾を湛えたそれは、たった今摘んできたかのように活き活きとしている。一体何の花だろう。

「星降る夜に願いをかけて……あれ、続きなんだっけ? うーんまあいいや、虫じゃない虫さんよ、喋れるようになあーれ!」

 彼女がうろ覚えらしい謎の口上を唱えると、枝先の花がポン! と音を立てて星型の花を咲かせ、小さな光の粒が弾けた。火花のようなそれは清らかな空気を伴って、私の口元に真っ直ぐ飛び込んでくる。

 清涼な風が喉を心地よく通り抜けると、人間だった頃と変わらない声が口から飛び出した。

「え、うそ、私……」

 感動に震えていると、少女は感心したように咲いた花をしげしげと見た。紫の一番星が、彼女の手のひらで誇らしげに揺れる。

「おー、さっすがキキョウ、龍角散の原料にもなってるだけあるぽ。どんな喉にも効果てきめーん。さてさて蛾さん、お名前は?」

 触覚を持ち上げて、私はおずおずと答えた。

「……花乃はなの。あなた、何者?」

「あたし? あたしは野良魔法少女の流星りゅうせいちゃんだぽ」

 野良魔法少女……そして流星ちゃん。耳馴染みのない単語の羅列に混乱するのは、決して蛾の脳味噌だからではないだろう。その全てを認めるのなら一切がトンチキな存在で、むしろ全部夢だと言ってくれた方がマシだとさえ思った。

「あたしはいなくなった使い魔ちゃんを探してるんだぽ。異世界からお迎えしたばっかだったのに、すーぐどっかに逃げちゃったんだぽ」

「使い魔って……猫とか?」

「んにゃ、スライム」

 今度はスライムときた。きっと彼女の口振りだから、あのホウ素と水で作る液状おもちゃの話ではないことは確かだろう。

「スラちゃん、きっと寂しがってるに違いないぽ。背中に流星ちゃんの星マーク描いてあげたのが嫌だったみたいぽ。早く見つけてあげなくっちゃ」

「え、ちょっと待って、行かないでよ。私の身体戻してよ」

 言うや否や立ち去ろうとする流星ちゃんに、目いっぱい羽ばたいて抗議する。

 この子の言動がいくらトンチキだろうと、私が声を取り戻せたのは紛れもなく彼女のお陰だ。それは認めざるを得ない事実で、このお喋り手のひらモスラ状態のまま置いていかれるのは夢だろうと現実だろうと嫌だった。

 しかし流星ちゃんはあっけらかんと首を振る。

「それは無理ぽ。花乃ちゃんを蛾にした魔法、ちょっとややこしくって手持ちの枝じゃどうにもならないぽ」

 私は愕然とした。このまま蛾として生きていく他ないのだろうか。

 いや、いっそこのままひっそりと名も無き蛾として生涯を閉じた方がいいのかな。人間に戻ったとしても、もうあの世界教室に戻れる気がしない。

 鬱々とした私のことなど気にする素振りもなく、流星ちゃんは鞄を漁っている。

「花の枝で魔法をかけるんだけど……レア度高い花とか強い思い入れのある花とかはつよつよ魔法が使えるんだぽ。例えばね、これとか。あたしの大好きな花だっぽ」

 再び取り出したのは、毛バタキみたいに細長い葉の隙間に赤いフリルが覗く可愛らしい花だった。

「星降る夜に願いを以下略――空飛ぶホウキになーれ!」

 弧を描いてそう唱えると――か弱い花枝は見る見るうちに大きくなり、流星ちゃんの背丈ほどの立派な草姿に成長した。

「これって……?」

「ホウセンカだけにホウキになるんだぽ。ほれほれいらっしゃいな」

 何が「ホウセンカだけに」なのかは分からなかったが、言う通り流星ちゃんの肩に留まる。

 流星ちゃんはホウキに跨るや、重力を無視してふわりと浮き上がる。

「さーん、にー、いーち、ゴー」

「ひえっ」

 私たちを乗せたホウセンカ号は、力強く前へと進みだした。

 春の夜風を切って、街の風景を横切っていく。向かい風に振り落とされないように流星ちゃんの肩に必死にしがみ付いたけれど、当の本人は彗星色の瞳をこれ以上ない好奇に閃かせ、ただひたすら前だけ見ていた。その横顔に「ああ綺麗だな」なんて思ってしまう。それは満ちた月より眩しい街灯より、私を魅き付ける光だった。

「星降る夜に願いを――青になーれ!」

 省略した口上を唱えると、いつの間にか取り出していた新しい枝先に青いバラが弾け咲く。

「ほら見て花乃ちゃん! 向こう三つくらい信号が青になったぽ!」

「空飛んでんだから対向車くらい避けてよ……」

「交通ルールは大事だっぽ!」

 重力を無視しているくせに無茶苦茶なことを言う。真夜中の目抜き通りは私たちのためだけに開けていた。

「あはは! 月夜の空中散歩は最高だぽ?」

「空中散歩っていうか高度低すぎて速めの自転車か良いとこバイクじゃない?」

「おやおや、ホウセンカ号の力を舐めてもらっちゃ困るぽ――そーれ!」

 流星ちゃんが機首を持ち上げると、ホウキはぐんぐん高度を上げ、あっという間に十階建てのマンションを見下ろすほどの高さに飛び上がった。

 静かな夜にホウセンカの葉がそよぐ音だけがして心地良い。満月と街灯りの間はきっと魔法使いだけに許された空間で、私はこのところ悩んでいたことだとかの色々を一瞬忘れるくらい密かに心が躍った。


 しばらく月下の飛行を堪能していると、流星ちゃんは思い出したように口を開いた。

「花乃ちゃんを元に戻す方法、実は無くはないんだぽ」

「え、本当」

「世界を旅して、人間じゃないものを元に戻せるようなつよつよ魔法ステッキを手に入れるか――一番手っ取り早いのは、元凶をやっつけるか。でも多分、その魔法かけた元凶ちゃんは強そうだからどっちもなかなか難しいっぽ」

 確かに流星ちゃんの言う通り難題そうだった。世界を旅するって言ったって、どれくらい時間がかかるのか、そもそもそんな植物があるのかも分からない。蛾がどのくらいの寿命なのか定かではないが、人間より圧倒的に短いことは確かだろう。

 それか元凶であるこっくりさんを葬り去るか。黒板サイズの昏い瞳を思い出して、私は竦み上がる思いだった。あんなのを、一匹の蛾でしかない私にどうこうできるとは到底思えない。やはりこのまま、蛾として生涯を終えるしかないのだろうか――

 お互いに黙りこくっていると、辺りに獣の鳴き声が響き渡った。中学校の方からだ。細く開けた窓に差し込む暴風のような低い咆哮には聞き馴染みがあって、私は思わず息が止まるような思いがした。

「おや、何の声だっぽ?」

「……こっくりさん、だよ」

 それは紛れもない元凶の鳴き声だった。子供にしか聞こえないそれは、朝夕問わず街に響く。まるで次の生贄を催促するようなそれを聞くと、クラスの皆は慌てて周囲を見回して他人の粗を探し出すのだ。

 何も知らない流星ちゃんは、大きな瞳をぱちくりと瞬かせてホウキの進路を変える。

「ふーん? なかなか気合いの入った化物もいるっぽね。見に行こ―」

「やめて、危ないよ流星ちゃん。食べられちゃうよ」

 私の泣きそうな声を無視して、流星ちゃんは真っ直ぐ中学校の方へ飛んでいく。

 わずか数十秒と経たずに校舎上空に到着した。見慣れた三階建ての校舎と、そのそばで巨大な銀色の狐が座り込んでいる。星屑を散りばめたような毛並みは月の光を照り返して、ぞっとするほど美しかった。

「あー! 見て見て花乃ちゃん! あそこ!」

 唐突にそう叫び、流星ちゃんは何かを指差した。つられるように指先の方向を見て、私も言葉を失う。

 空から見たこっくりさんの首の付け根には、下手くそな小さい星マークが描かれていた。

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