海の子

Slick

海の子

 海を、黒い海を見つめていた。

 防波堤に腰掛けると、むき出しの腕に不快な潮風がまとわりつく。それでも私は海を見つめている。もうどれくらいこうして座っているだろうか。頭上ではウミネコがキャアキャアと叫んでいる。テトラポッドの影をフナムシが駆けていった。


「おーい渚ちゃん、聞こえてっか?」


 見つかっちゃった。

 昔から聞き慣れた声に私は振り返る。


「私のことは気にしないで、剛さん」

「最近の若者は冷たいねぇ。カゼぁ引いたら大変だぜ」


 腰に太い手を当て、私を見上げる大柄な彼は烏頭目うずめ剛さん。健康的に焼けた肌と、首に巻いた縞柄タオルがトレードマークだ。地元の漁業組合長をしていて、私の両親とも古い知人だった。


「知ってると思うけど、私は風邪一つ罹ったことないですよ」


 ぴょいと防波堤から飛び降りれば、生ぬるい空気がうなじを攫う。昔は髪を長く伸ばしてたけれど、あの日以来、ざっくり短く切るようになった。


「ご心配なく、この通りピンピンです」


 茶化して言ってみせるが、自然に出来ていたか自信が無い。


「……お母さんのことかい」


 ズシン。

 優しさ故のその言葉が、重く心にのし掛かる。


「いえ……私は元気です、それじゃまた」


 剛さんに背を向けてなお、まとわりつくような海鳴りが追いかけてきた。風が汽笛のような甲高い音を立てる。

 サプン、ジョプン、シャッパーン。

 それはまるで怪物が喉を鳴らしているようで。私は思わず目を瞑った。


“……やめてよ、母さん”


□ □ □ □


「いただきます」


 食卓を挟んで父と手を合わせた。

 夕食の大皿はアジの照り焼き。香ばしい香りがほっかり白い湯気と立ち昇る。この町で漁れたての海の幸。

 でも私には、まるで食欲が湧かなかった。

 対面の父が困ったように笑う。


「なぁ渚、僕の作る料理はそんなに不味いかい?」


 そう少し悲しそうに眉を傾けた。

 とんでもない。父の手料理はいつも美味しい。まぁ……記憶の母の味と比べてしまうとイマイチだが、それに有り余るほどありがたかった。

 母さんを亡くしたあと、男手一つで私を育ててくれたのだから。

 私の意を汲んでか、はたまた根が優しいからか、父はそれ以上何も言わなかった。家族だからこそ分かり合える、この無言の時だけがせめてもの救いだった。


□ □ □ □


 学校は好きでも嫌いでもない。

 さらに輪を掛けて好きでも嫌いでもない保健体育の授業だけど、移動教室でビデオが観れるときは好きに感じた。暗幕で締め切った教室は、ちょっとした非日常感さえ感じるから。

 今日の授業内容は、防災予防。とまぁ個人的には『防災』を『予防』とはちょっと変に感じたけれど。

 先生が教室の電気を落とし、プロジェクターのスイッチを入れると、待ってましたとばかりクラスはざわめいた。

 見せられたのは津波の防災映像だった。それも市が作ったものらしく、かなり凝っている。私たちの住む港町が津波に襲われたときを想定して、実際の町の景色にCGの津波が合成されていた。

 グワッと盛り上がった海面が迫るのを目にした刹那――私はゾッとした。

 粗いグラフィックスの大波が防波堤を越える。それはドッと一気に町を飲み込んでゆく。

 クラスメートから不謹慎な歓声が上がった。


「おい見ろよ、お前の家が沈んだぜ!」

「よく出来てんなー」

「こらそこ、授業中だぞ」


 だがその間、私の背筋は凍りついていた。

 襲い来る海、海、海。それが町を犯していく、犯していく、犯していく......。

 ついに大波は私の家まで到達した。

 その瞬間、波の合間から赤い血潮が散ったように見えた。

 無音の絶叫が脳内に響いた。


「――えちょ、渚!?」


 友達の声が聞こえたときには、私の意識はすでに飛んでいた。


“……やめてよ、母さん”


□ □ □ □


 目が覚めると、保健室のベッドにいた。

 ゆっくりと消えていく夢の余韻を惜しみながら、私は親指で瞼をぎゅっと押さえた。

 懐かしい夢を見ていた。母が生きていた頃の夢だった。

 

 母さんは漁師だった。

 漁師といえば、剛さんみたいに日焼けした男性がステレオタイプなイメージだろう。でもその点、母さんだって負けてはいなかった。生来の男勝りな気質と、大胆に海に乗り出してゆく肝っ玉。

 ずっと憧れの母さんだった。

 だからあの日、少し天気が荒れそうでも、母さんが海に出るのを止める人はいなかった。いや、止めても母さんは聞かなかっただろう。舵捌きにかけて母さんの右に出る者はおらず、母さんには嵐の神が付いてるなんて噂もあった。


「ちょっと仕掛けた網を見てくるだけよ。危なくなったらすぐ戻ってこれるわ」


 そう言って母さんは私の頭をクシャクシャにすると、自分の漁船に飛び乗った。小さかった私は父に肩を抱かれて、埠頭から遠ざかっていく漁船を見送った。

 その日、天気予報は嘘をついた。

 叩きつけるような大雨の合間に、稲光が落ちる。家では居ても立ってもいられず、私は傘もささずに港まで走った。ちょうど居合わせた剛さんに漁業組合のオフィスに入れてもらい、窓に齧りつくようにして荒れる港を見ていた。

 この話の結末は、もうお分かりの通り。


 私が目覚めると、保険医の先生がカルテを抱えてベッドの隣りに座った。

 はい、軽い貧血なんです。ちょっと昨日から食欲がなくて。そう答えた。

 あ、いえ迎えは要りません。それにお父さんも仕事ですし。家に帰りたいんですが、早退をお願いできますか?

 そして、あっさり許してもらった。


 それでも、まっすぐ家に帰る気は無かった。


□ □ □ □


 ――懐かしい。

 昔よく来た魚市場に足を踏み入れて、まず感じたのはそれだった。

 威勢の良いおっちゃんの掛け声。魚の生臭い臓腑の匂い。海水でひたひたと濡れたコンクリート床。

 平日の昼に制服の女子高生がうろつく場所じゃない。それでも懐かしい想念は我慢できなかった。

 母を失って以来、私は海を嫌悪するようになった。それはこの魚市場も含まれていた。

 だって。

 ぎょろりと目をむいたタイに、脚をくねらせるイカやカニも。ムニムニと殻の中でうごめくアワビも。全てが母の落とし子に見えたから。

 水俣病は、有機水銀を食べた魚介類を人が食べて発症するらしい。ならあの日、黒い海に散った母の身体を、この魚たちも啄んだんじゃないのか?

 そのイメージが浮かぶ度に、私は吐き気がする。

 あの日以来、目に入る魚すべてが何処かに母のカケラを宿しているように思われて、私は魚介類が食べられなくなった。楽しかった母との思い出が喉を締め付けた。

 私は結局、どうしたって母から逃れられない。

 ……でもこの場所は、やっぱり懐かしい。

 小学校の放課後、よく友達と一緒に帰りがけに遊びに寄ったものだ。ここはワクワクする冒険心が全部叶えられる場所だった。ときどき顔見知りのおっちゃんが、オヤツに刺し身の切れ端を分けてくれたこともあったっけ。

 無性に懐かしくなって、私はその店があった場所に足を運んだ。だが通っていない間に、そこには別の店が居を構えていた。

 聞いてみると、あのおっちゃんは数年前に退職し、ついこの前亡くなったという。

 ……私は。

 この長い時間に失ったものの大きさに、今更ながら気付かされるような気がした。

 やっぱり私、何かを求めてる。それが何なのか認めるのが、ずっと怖かっただけなんだ。

 私だって、海が大好きだったはずなのに。

 確固とした足取りで魚市場を後にすると、私は港へと向かった。


□ □ □ □


 漁業組合のオフィスに顔を出すと、剛さんは驚いた顔で私を出迎えた。そりゃそうだ。でもこんなお願いをしたら、剛さんはもっと驚くだろう。


「……お願いします」


 私が頭を下げると、しかし剛さんは仕方ねぇなという風に頭の後ろを掻いて、立ち上がった。


□ □ □ □


「俺らも昔は、たまにガッコをサボったりしたけどなぁ」


 漁船のモーター音と潮風に負けじと、剛さんは声を張り上げた。


「でもこんなのは初めてだぜ。事務所に居たのが俺で良かったな」


 剛さんの笑い声も耳に入らず、私は船べりに肘を突いて自分を取り巻く大海原を見ていた。港の埠頭はあっという間に遠ざかっていく。下手くそなゆりかごに揺られるように、不慣れな私は早くも船酔いが始まっていた。

 思えば小さかった頃、母の揺りかごにもこんな風に酔ったのだろうか。

 いま、母は海となっている。

 延々と続く海原を見ていると、不意に得体のしれぬ恐怖に襲われた。何でこんなこと頼んじゃったんだろ、と今更ながらひどく後悔する。真っ黒な波の裂け目から、ダーク・グレーの冷たい手が伸びて、私を深海に引き込もうとしているようだった。

 ブルルルル!と一際派手なモーター音で、はっと意識が戻る。


「今日はエンジンの景気がええな」


 そう豪放磊落に笑うと、剛さんは操縦席に備え付けの年季が入ったモニターを叩いた。


「行きたい海域はあるかえ」


 私は無言で海を見回した。

 ゆっくりと、世界が鮮明さを取り戻してゆく。

 漁船と海面の切れ目から、ぼんやり虹が吹き上がっていた。身に着けた救命胴衣の紐がたなびく。あぶくを立てる白波が私たちの軌跡を海に残してゆく。カモメが陽気な声を上げて滑空していった。

 マストの間に、キラリと陽光が差した。


「……あの日、お母さんが行った場所にお願いします」

「そらきた」


 あえてこっちを見ずに、剛さんは船の舵を切った。


□ □ □ □


 着いたよ、と言われても実感が湧かなかった。見渡す限りは蒼い海、海、海ばかり。

 エンジンを止めた剛さんは、無聊を紛らわすためかポツポツと話を聞かせてくれた。ここは生前母さんが気に入っていた漁場で、仲間内では密かに母さんの縄張りと言われていたらしい。何より、母さんが一番漁が上手かったから。

 サプン、ショプン、プシャン。

 波の音に誘われるように、私は船べりから海に手を伸ばした。

 おいおい落ちるんじゃねぇよ、と心配する剛さんを尻目に、そっと手のひらに海水を掬う。それは少し泡立っていた。

 少し迷ったが、思い切ってそれに口をつけた。


「……しょっぱい」


 声に出した瞬間、それが無性に可笑しくって笑ってしまう。不意に目頭がひどく熱くなった。気の昂るままにもう一口すくう。頰に熱い塩味があふれた。

 ふと思い出したのは『海の声が聞きたくて〜』という歌詞。私はこれがずっと怖かった。不気味な波浪の音、底しれぬ海鳴り。そのずっと奥に、すっかり変わり果ててしまった母さんが眠っている気がして。

 けれども、今は――。


「母さんの声が、聞きたくて……」


 無性に熱い涙があふれ出す。まばたきしても止まらない塩水が幾本も頬を伝う。


「母さんの声が恋しくって、でも――」


 認めるのが怖かった。

 母さんが海に還ったって、そう認めるのが怖かったんだ。

 私はゆっくりと、焦れったいほどゆっくりと、自分の中の『母さん』を手放した。その思い出の影は穏やかな海に溶けて、そしてそっと消えていった。

 私は嗚咽を上げた。子供みたいに泣きじゃくり、母を失って以来一番激しく泣いた。顎から垂れた涙雫は、潮風に舞って海にこぼれ落ちていく。

 それはまるで、母への手向けの輝きのようだった。


□ □ □ □


 私が泣き止んで、振り返ると、剛さんが気まずそうに明後日の方向を見ていた。


「……あ~、もういいか?」


 私は目尻を拭うと、口角を上げて頷く。


「はい。今さらだけど、今日はここまで連れて来てくれてありがとうございます」

「礼には及ばんってさ」


 二本指を立てた剛さんだったが、その時ピンと音を立てたモニターにばっと振り返った。

 私は怪訝に思って立ち上がると、操縦席を後ろから覗き込んだ。一面が灰色のモニター背景に、何だかんだゴワゴワと大きな黒い塊が動いている。

 剛さんの太い首筋を、つと汗が伝った。


「やべぇ……」

「どうしたんですか」


 ゆっくり振り返った剛さんは、破顔していた。


「魚群探知機だよ。こりゃアジだな、デカい群れが来るぞ!」


 こんな大群見たことねぇ、と剛さんは興奮気味につぶやく。そして座席から顔を上げると、私に向かってクイッと眉を上げた。


「せっかくだ、漁業体験してかねぇか?」


 返事も聞かずに、座席横に引っ掛けてある麦わら帽子をバフッと私にかぶせる。私はつばを押し上げながら、にっこりとはにかんだ。


「良いですね」

「おし、そうと決まったら出発進行だ! そこに掛かってる網を用意してくんな」

「はい、船長!」


 剛さんがレバーを引き、モーターが息を吹き返す。小さな漁船が海を駆っていく。


「全速前進!」


 私たちは叫んだ。

 母なる海は、キラキラと輝きに満ちていた。

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