誰そがれ幽霊画

千羽稲穂

誰そがれ幽霊画

 いつからかその男の足音が酒瓶の水面が跳ねる音に変わっていた。私に会いに来て、太客として豪勢な料理と花魁たちを侍らせて「俺は偉いんだ」と虚勢をはる。私はなぜかひやひやしていた。宴会の最後には、花魁たちを部屋へ連れず、決まって飲んだくれて縁側に落ちこぼれる。飲んだくれにあきれかえった花魁や若い衆は、あまりの体たらくに縁側に捨て置いて屋敷の奥に引っ込む。その後、人知れず私は男の隣にちょこんと座った。

 私はその男を「凛」と呼んだ。

「凜、また姉さんを奥に連れてかなかったんだねぇ。男やのに意気地なしやね」

「それを言わんでくれ」

「姉さんたち呆れかえってたわ」

 彼は揺れる身体を持ち上げて、私の頭をがしがしと撫でた。彼のアルコールの饐えた香りと煙管の灰のけむたさに紛れて、墨の精悍な空気が漂った。

 彼は画家になったらしい。

 これは私が、いっとう大切にしている、誰にも話していない彼の絵の話だ。


 最初は店にも入れない浮浪者が、店の前をうろちょろとしていたところから。彼は遊郭に入れないからか、路地裏といったじめじめとした暗がりに住んでいた。何日も風呂に入っていないだろう肌の浅黒さで頭皮には蛆がわき、初めは死んでいるのだと思っていた。

 みな白無垢を着る準備をしていた、八朔の日。

 姉さんたちは死体だと思って「怖い怖い」と見過ごした。夏盛りで陽炎が立ち上っていて、白無垢を着た彼女らがふわふわと歩いたので、この世ではないものたちが行進しているかのようだった。私もその一向についていった。ふわふわと他の禿たちと遊んでいた。「姉さん、こっち」と美しい花を見せようと、友達の禿は姉さんの手をひいた。私は路地裏の浮浪者に目を奪われた。何か描いていたのだ。

「こんなところで何してはるん」

 白髪がまじった髪の間で瞳の光が鋭く過った。

「これは、いかん。描かないと」

 男は筆と墨を袖の内から取り出して、そそくさと私を描き始めた。筆先は緩急がつき、一瞬にして書き上がる。薄墨が用意できず、線だけのものでも彼の腕は確かだった。仕上げに私の赤い唇を指先でつつき、そっと絵に落とした。

 そこには子どもの幽霊画が写し出されていた。

「なにこれ」

「幽霊画や」

「私は幽霊ちゃう」

 彼は、はははと笑いかけると、垢まみれの手で私の頭をがしがしと撫でた。

「気に入った」

 それから、たまに私は彼のいる路地裏に訪れるようになった。その幽霊画を子どもながらに気に入ってしまったのだ。

 姉さんたちが寝静まったお昼に眼をこすって、彼に会いに行く。彼は決まって地面に半紙を置いて小さな絵を描いていた。私が訪れていた頃は「ひもじぃ」と言って餓鬼の絵を一面に描いていたし、冬には路上を走る車輪の風を怖がって車輪に顔面がついたお化けを描いていた。私はそれを見てケラケラと笑いこけていた。「こんなんおらん」と言うと、照れくさそうに彼は頭をかいた。彼は私に「落書き」を落としていった。地面に餓鬼たちの一覧を描いて、表道に乗り出したときは、私は餓鬼たちと一緒に踊った。彼はもっと乗り気になって、餓鬼を描いた。しかし、彼は浮浪者の一人だと言うことを頑なに言い張った。「偉い画家さんなん?」と尋ねても彼は「私は隠居ものだ」と言うだけだった。

 死にそうになったとき、彼は幽霊を何人も描いた。どの人もきっと現実に存在していた人だろう。「これは誰?」「これは妹」「これは?」「清生(せいしょう)、画家仲間。今は有名になってる」「会いにいかんの?」「いや、そういうものでもないんや」凜は、たまに寂しそうに笑うだけだった。


 寒風吹き荒れた、凜の墨も半紙が付き果てた冬至。私は姉さんに頼み込んで墨を借り、大量の紙をもらった。お昼に起きて彼に会いに急いで駆けつけると、彼は傷ついたような顔をした。「これないと描けへんやろ」と、詰め寄った。「描きたいんなら描かな」

「もう、描きたいのか分からん」

 細身な身体を起こして、それでも口元では絵のことをぶつぶつと話していた。あやかしがどうの、構図がどうの。ふっと自嘲したように息を吐いて、ぼろぼろと泣き始めた。私の持っている墨と大量の紙をぶんどって、地面に置き、描き始める。長い髪からかすかに輝く瞳に、何かほのぐらいものが宿っていた。寒いからかつるべびを描いて、大きな骸骨を描いて、恐れおののき逃げ惑う血まみれの人を墨をかすれさせて、血を表現する。半紙にのしかかるのは彼の水滴だった。

「きみはどうして、私に会いに?」彼はいつもと違う幽霊を描き出し始めた。「幽霊なんて信じてないのに」幽霊は細い線で今にも折れそうな身体をしていた。しなやかな柳の木の傍に佇む女性は、ほのかな色香が漂っていた。それは、凜が路地裏から見ている女性のようで。

「そう、私は幽霊なんて信じん」

 それは、私が出会った姉さんたちが梅の香りに犯され捨てられているところを何度も見ていたから。禿が仕置きのせいで痩せ細り、痣をつくり冷たくなっていったのを見ていたから。

「なら、どうして」

「本当に怖いのは幽霊じゃないって知っているから」

 売られる前夜のことがほのかに過ぎった。あの朝起きると、私を連れて父は誰もいないところに連れていった。雑木林の中私を組み敷いてのしかかる。目を瞑ると何もない暗闇だけが広がっていて私は身を溶かした。

 何もないことが怖かった。

 毎夜、私はうなされた。夢を見ていた。姉さんが部屋の深い闇に男と入り闇に溶けるのだ。どこまでいっても闇しかなく、音もしない、声も届かない。父ののしかかる感触と闇が私には感じられた。凜と出会ってから、その闇につるべびがつるし落とされた。幽霊が浮かび上がり、餓鬼たちが足下で踊る。知らぬ間にやってきたおじいさんがお茶をすする。火の車輪が目の前を過ぎて、熱いっと思ったら吹雪いて美しい女性が手招きする。私は一緒にどんちゃん騒ぎ。

「幽霊はやさしい」

 私たちの足下には大量のあやかしがいて、この世界には何もない場所なんて存在しないのだと言っているようだった。凜は、顔をあげずに描き続けた。彼は見えないものが見えて、声なき声を聞き、描くという言葉を私に伝え続けた。

 でも、今日は言わなければならないことがあった。

「今日で最後や」

 凜の筆が止まってしまった。

 私がこれを言っても止めてほしくなかった。

「姉さんに、兄さんたちに、あんたとはもう話すなって」

 私は、自分の目から水滴がこぼれるのをこらえて話した。

 そうか、と凜は表を上げてしまう。私の言葉などに惑わされず描き続けてほしかった。彼は私の瞳に指を添えて、水滴を指にのせて半紙に落とした。墨が滲んで、薄くのばされる。女の子の幽霊が立っていた。彼は袖もとから判子を取り出して、印を押す。

 凜、と名前を知ったのは、その日だった。

 凜はそそくさと判子をしまった。そうしていつものように私の頭をがしがしとかいた。まだ乾いてない血が私についた。ぬめりが私の頬に伝う。判子にも血痕が残っていた。彼が立ち上がると、着物は茶色に変色していた。

「これを、最後に」

 凜は、私に最後の絵をくれた。

 これがいっとう好きな、絵。


 彼と別れて、数ヶ月後。私が禿から振袖新造に上がる間際に彼は酒瓶の水面を弾かせながら店に現れた。身なりは整っていて、あの蛆がわいた髪は清やかになり、ハイカラな着物を着ていた。彼は店に来るなり「自分は画家だ」と告げた。見目の垢がほどけたからか、見違えるような見目に姉さんたちは喜び、おべっかをたれるようになった。「偉い画家さんなのねぇ、あらまあ、すごい綺麗」と姉さんたちが床で彼の絵を見ているのを聞いた。彼の絵がすごい、と言っていることにほのかに胸がけぶった。

 彼は、酒瓶を足音にして訪れるにつれて、金遣いが荒くなった。姉さんを一人連れだったかと思えば、踊りや楽器が上手い芸者を呼び込み、もう一人姉さんをつれて、格式高い花魁にお酌を注がせるまでになった。

 しかし、褥はともにせず、彼は花魁共々最後は部屋から追い出すか、店の縁側で飲んだくれた。そうすると、だんだん彼に呆れて、おべっかをつかっていた姉さんたちは、裏でこそこそ悪口を言うようになった。「花魁を追い出すなんて」と誇りを傷つけられた彼女らは、彼を金づるとしか思わなくなっていった。

 姉さんたちは、彼のことを知らない。

 今日も縁側で飲んだくれた彼。私は隣にちょこんと座った。頭を上げると、満月が在った。あまりにも大きいので目を瞬かせて俯くと、彼が抱きしめている酒瓶にも満月がくっきりと映っていた。丸く広がった穴を指でなぞる。

 と、彼は酒瓶を離すまいと抱きしめた。

「私のこと覚えてる?」

 彼は酒瓶に顔を埋めながら、小さく頭を縦に振った。

「偉い画家さんになったんやね。良かったやん」

「きみこそ、綺麗になったね」

 私は彼の今の絵を見ていなかった。手元に残っている、私の幽霊の絵は何度も見ているのに、画家としての彼の絵を知らない。知る気もなかった。彼は今でも私の中では路地裏の浮浪者に過ぎなかった。

 いくら偉くなろうが、どんな絵を描こうが──

「会いたかった」

 彼は、ぽつりと零してまたぼたぼたとあのときのように涙をつくりだす。

「大人の男の人やのに、ほんっとよく泣くなあ」

 どんなことを言おうが、

「じゃあ、また絵見せて」

 どんな人になろうが、

「見せない。もう描くのはやめたんや」

「どういうこと? 偉い画家さんなんやろ」

 彼は酒瓶を手放さない。満月に吸い込まれるように身を投げ出していた。

「もう、幽霊はおらんから」

 私は、彼が彼の絵を描いているのなら、それで良かった。


 彼は酒瓶を携えて何回も店に訪れた。二階の奥間に行くことをやめて、縁側で私と話すことが増えた。すると嫌な噂も増える。彼が私を好いているだとか、幼子が好きであるとか。彼は男として私に指一本すら触れていないというのに。お茶を濁して、彼は酒瓶をあおる。何本目か分からない。言葉は少なくなっていった。ただ縁側にいることが増えていく。空間だけ一緒にする。震える指にやせぎすの身体となっても、彼は私のもとへと足を運んだ。宴会の後は必ず飲んだくれて縁側に。酒瓶の音が聞こえてきて、「まあ」と姉さんたちは嬉しがる。私は目を伏せる。

 次第に彼の容態は悪化していった。縁側で身体を大きく揺らすほどの咳をして、ぜぇぜぇとしんどそうな息をする。手を口にあてがうと、赤にそまった手のひらが開ける。喀血をともなうようになっても、彼は酒瓶を握りしめて私の店に一日とかかさずにやってきた。

 私は酒瓶をひっつかんだことがあった。これがあるから、絵を描いてくれないんだ、と思っていた。彼は一寸たりとも酒瓶を離さずに、むしろ私とひと悶着あって、私の手をひっかいてしまった。白い肌に滲む血液に、彼は怯えて何度も私に謝った。何かにせき立てられるように、私にすがりつく。

「私、幽霊ちゃうで」

 彼は、顔を冷え上がらせて、またぼろぼろと泣いた。

「またや。大人やのに」

 何も言わずに、頭をがしがしとされたので、お返しに彼の涙を袖でぬぐった。どっちが大人だか分からない。

 どうしてこうなってしまったのだろうか。

 どこからかけちがったのか。

 私は、頭の中に彼にもらった絵とともに、初めて彼の身体に触れて抱きしめた。

 実際のところ、彼が私を好いていても、女性として見ていないことは知っていた。そのはず彼は、女性そのものを好んでいなかったのだ。あの幽霊たちは、あやかしたちは彼の恐怖そのものだった。

 全てが怖かったのだ。

 なんとなく似たものだと、最初から知っていたのだ。お互い何もできない、弱い者どうし。


 彼とはそれからも何もなく、ただ月日だけが過ぎていった。彼はお金を使い切り、病におかされ、晩年は見てもいられなかったが、画家として描ききった人生だったのだろう。亡くなった後、店に何人もの画商が訪れた。彼の絵を探しているらしかった。姉さんたちはそれみたことか、と絵をたくさん出してきて、画商に売りつけた。店に並んだ絵を見て、目を疑ってしまった。どれもこれも、豊かな色彩で風景を描いていた。この世の幸せを、桜の蕾で表し、この世の祝福を雷で絵に落下させる。私は売りつけることはせずとも、彼の絵を知ってほしくて、あの日譲り受けた絵を取り出してきた。ただただ彼を見てほしかった。最後に幽霊画を並べると、これだけ異質に思えた。おお、おぞましい、と姉さんたちは口々に口を覆った。

 画商がそれらの絵を見ていると、私の絵の前で止まった。

「凜の絵です」

 私は胸を張る。

 これが凜の絵、凛の本当の絵。なぜ、どうして、みんな見てくれないのだろう。亡くなった後になっても、この絵は価値がないのだろうか。

「凜? ああ、あの薄気味悪い画家が。そうじゃなくて、清生の絵だよ、僕らがほしいのは。きみは何か勘違いしてるんじゃないか」

 清生、と私は、記憶の中の凜が持っていた酒瓶が揺れた。中の酒が跳ねていた。足音がする。凜の足音が。死んでしまったのに。彼が幽霊となって来ている。

 私は振り返る。誰もいない。何もいない。闇しかない。この世は恐ろしいことのほうが多い。

──清生、画家仲間。

 知っていた。

 私は並べられた判子を見並べる。どれも清生とうたれている。では、この店に来ていた彼は。それは紛れもない、凜だと私は知っている。私を知っているのは凜しかいない。では、凜が持ってきたこの絵は、凜が描いているに違いない。凜の筆致は、私が知っている。

 どれも凜の絵。

 なら、それなら、どうして清生と名のって?

 私は赤い彼の判子を思い出す。茶色く染まった彼の着物を。血痕が飛び散った凜の印を。

 凜の幽霊画を手に取り、走っていた。凜の御墓なんて知らない。根無し草だったはずだ。もし、清生として生きたのなら、彼の骨は清生の墓に入っているはずだ。では、どう弔えばいいのだろうか。

 だから、彼は、私の後をつけているのだろうか。酒瓶の音がする。追ってくる。柳が風に吹かれている。お皿を数えている幽霊がいる。人魂がたゆたっている。行き先は分かっている。つけなくても、案内しなくても大丈夫。分かっている。

──会いたかった。

 彼はそう言っていた。私のお店に来るにはお金が必要だった。だから、そうなんだろう。もう分かったよ、凜。

 あなたは、あの日、清生を殺した。

 そして私と別れなければならないと聞いて、あなたは清生に成り代わって、清生の贋作を描いて売った。たくさんお金を稼いだけれど、心は疲弊していった。酒瓶を手放せなくなったとしても、あなたはあなたの絵を捨てて、贋作を描き続けた。

 私に会うために。

 あの日の路地裏に私は立っていた。凜が幽霊になって蹲っていた。紙にたくさんのあやかしを綴っている。垢まみれで、ふけまみれ。蛆もたかる。白髪で、ふけてみえるくらいに皺がよっている。

 あなたと私はここで出会った。

「私も会いたかった」

 だから、幽霊になってもはなさない。この絵のことも、あなたのこともはなさない。この絵を手放さない。

 誰にもわたさない。

 路地裏の幽霊となったあなたを、私は絵と共に抱きしめる。

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