閑話 神聖教誕生 前編
足利義政の建てた慈照寺。華美さはないものの当代一流の人材と物資を結集して建立されたその寺には、莫大な工費がかかった。放漫な財政を必死に修復し、応仁の乱を耐え、なんとか蓄えてきた幕府の蔵は、枯渇した。
日野富子、足利義政の妻にして義尚の母。幕府の財政を立て直した傑物は、実の夫のやりようを嘆いた。あなたの幕府ではないか。なぜ自ら潰すような真似をするのか。ただでさえ応仁の乱に金がかかり、義尚の地盤がもろく足利義視は油断ならぬ。これから金が入用だというのに。
考え直すよう訴える富子を退け、義政は寺を建立。その一年後、義尚が六角討伐のため近江に出兵、突然亡くなった。報告では、昨晩まで壮健であられたのに、なぜか翌朝こと切れていたとあった。当然毒殺が疑われ、宿直、毒見役、料理人その他怪しいものが捕らえられたが、原因はわからなかった。
富子は嘆き悲しんだ。おなかを痛めて産んだ我が子。常に慕ってくれた愛らしい実の息子の謎の死を受け入れられず、富子は毎夜、さめざめと泣いた。
義政に人望はなかったが、稀代の女傑を慕うものは多かった。そのうちの一人、応仁の乱中、富子に借りた金で戦費を賄った京極持清は彼女の姿に心を痛め、事件の真相について調査を進めた。せめて義尚の死を探ろうと努力した。
一向に成果は上がらぬ。しかし富子はやつれるばかりだ。困り果てた持清は実質隠居していた義政に協力を依頼した。先代将軍、その力で義尚が何者かに狙われていたのか、恨まれていたのかを解き明かしてほしいと、頭を下げた頭上に場に合わぬ安逸とした声が降りかかった。
やつは極楽浄土に行ったのだ。
困惑した。義尚が極楽浄土に行くことはよい。まさに己もそう思う。しかし、死の真相はなにかという問いにそぐわないではないか。
おまえもどうだと小瓶を渡された。ひどく嫌な予感がした。
この薬を飲めば、必ず極楽浄土にいけるのだという。今世の苦しみを味わうことなく、すぐに。
持清は、震える声で子細を尋ねた。
義政は、相変わらず安逸とした声で、知り合いの僧侶から特別にもらったと答えた。義尚が近頃幕府の在り方に悩んでいるのを見て、渡してやったという。彼は父の愛情を喜び、その場で飲んだと。あやつは酒と勘違いしていたようだ、そう言ってからからと笑う義政を、持清は青ざめた顔で見つめていた。
※
下賜された小瓶を家の下男に飲ませた。その男は何事もなくひと月がすぎ、突然死んだ。まったくなんの前触れも見せず、その日の朝も実に元気そうだった。
持清は吐き気がした。義政は「善意で」実の息子を殺したのだ。
誰にも言うまいと誓った。墓場までもっていこうと。だが、数か月ぶりに見た富子の、出陣の前にひたすらに感謝を述べた自分の前で、生気をみなぎらせた顔で金を返さないまま死ぬんじゃないわよと快活に笑っていたあの富子の、幽鬼のような顔を見て、持清はすべてを打ち明けた。
富子は怒り狂った。無気力な、邪魔ばかりする夫が、政務をおろそかにして傾倒する仏教のせいで最愛の我が子を殺した事実に耐え切れず、彼女は夫を呪った。激しく詰問する彼女を、義政があきれた顔で「極楽にいけたのだからよかろう」とつぶやいたとき、彼女のなにかが切れた音がした。
ひどく静かな、温度のない声で斬れと命じられたとき、持清は固まった。もう一度告げられ、持清は刀に手を掛けた。家と民の恩人と、無能な男。どちらをとるか、考えるまでもなかった。義政を斬ったその後、富子は幸せになれるだろうかとも思ったが、少なくとも呆けた顔をしているこの男を斬らねば幸せになれないことは確かだった。
※
新明解日本史辞典 テマリ書店・優天童文庫 共同編集 2009年版
<富子の変> 足利幕府8代将軍足利義政が正室、日野富子による一大事変。足利義政を討ち、あらたに将軍の座に座ることを宣言。これに反対する足利義視・義材親子を近江国朽木谷にて誅殺、実権を掌握した。
<廃仏毀釈> 足利幕府10代将軍日野富子による仏教弾圧運動。守護大名の年貢を半減し領国を安堵する代償に、領内の仏教を弾圧させた。寺院・仏像・習俗に及んだ大規模な弾圧により、6世紀半ばに伝来し、発展してきた我が国の仏教は東北北部などのわずかな地域を除いて、ほぼ消滅した。
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