本編と関係のない 厳島の戦い

 本編世界で安崎がいなかった場合起こったであろう厳島の戦いの解説です。本編にいずれ出てくるであろう毛利元就などが活躍した戦いです。今話を読まなくても本編は問題なく読めます。なお、誤った知識が含まれている場合もございますが、別世界なので史実とは異なる動きがあったということにしました。本編のスパイスになれば良いなと思います。



※歴史が大好きだ。ために他の科目をおろそかにし、受験で滑った程である。ある日友人が某戦国系ライトノベルにはまった。はまったのだが数字は数字でも年号から時代を読み解くのではなく、微分したり積分したりするのが仕事だった我が友は背景知識がまるで無い。で、逐一聞かれたことに答えていたのだが、もしや歴史好きな方に需要があるのではないかと思い、調子に乗って書いてみた。


[厳島の戦い] 

西日本で五指に入るほどの名合戦である。勝利の立役者は下剋上の代名詞毛利元就。そんなこの合戦を見ていく。


ものすげえざっくり経緯を説明すると、大内家に仕えていた陶晴賢という男が主家を乗っ取った。同じく大内家に従っていた毛利元就は好機到来とばかりに独立を企図した。というお話。


 色々な事情の元、合戦が始まる。反旗を翻した毛利に兵を差し向け負けた陶方のもとに桂元澄という武将が内応を約束する。それは厳島が毛利軍の弱点だと伝えるものだった。正直突然味方につきたいといわれても信用できない気がするが、桂元澄という武将は過去に毛利元就といざこざがあったので「遺恨がある。」といわれて信じたのだろう。


さあ、桂の情報をもとに厳島に上陸した陶軍は宮尾城という厳島に建てられた城を攻撃する。しかし、そんな陶軍を毛利軍が包囲し殲滅した。ちなみに、包囲戦術は古今東西活躍した戦法の中でもトップクラスによく出てくる。とりあえず包囲した側が有利。たまに突破されるので一概には言えなけれど。


包囲された陶軍は逃げ場を失い、船で逃げようとした陶晴賢も討ち取られたと伝えられている。合戦は毛利の勝利。以後毛利家は中国の覇者としての道をかけのぼることになるが、この合戦は逸話が多く残されている。せっかくなのでいくつか紹介する。


毛利元就、背水の陣を敷く。

 厳島に上陸した毛利元就は乗ってきた船をすべて帰らせ退路を断つ。これにより兵が決死の覚悟をしたと言われている。普通退路を断ってもただ危険なだけだが、それだけ一世一代の勝負だったのだろう。


小早川隆景、機転の利いた上陸。

 陶軍に埋め尽くされた地点に上陸した小早川隆景は陶軍に味方だと偽って上陸を成功させたと伝えられている。敵地に乗り込むとは並外れた胆力の持ち主だ。


 名合戦なので逸話は山ほどあるが、定番の逸話も後に否定されることが多く、近年では伝えられていたほど兵力差は無かったのかもしれない説が出ている。色々調べるのも楽しい。


 <毛利元就>


毛利元就 先祖は宝治合戦で三浦についた大江広元。大江広元の息子だか孫だかが奥さんに頼まれて三浦につくことにした美談は有名。


毛利氏の第12代当主。安芸吉田荘の国人領主・毛利弘元の次男。家紋は一文字三星紋。  


1497年安芸の国人領主・毛利弘元と正室の福原氏(福原広俊の娘)との間に次男として誕生。幼名は松寿丸。


1516年、長兄・興元が没したので家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見する。こうして元就は僅か20歳で、毛利家の舵取りを任されることになる。


毛利家当主の幸松丸はわずか9歳で死去する。この死を受けた出雲の大名尼子経久は、毛利家の傀儡化を行うために元就の家督相続ではなく、新宮党(尼子家の精鋭軍事集団)を率いる経久の次男尼子国久の次男尼子豊久を亡くなった幸松丸の養子に入れ、毛利家を相続させようとした。これに反発した毛利家臣たちは、将軍足利義晴に要請して、元就の家督相続を認める御内書を受け取る。こうして毛利家の直系男子の元就が重臣たちの推挙により、27歳で家督を継ぎ、毛利元就と名乗ることになった。これにより尼子氏の介入を未然に防いだ。


1532年に家臣は従いますという主旨の起請文を連署して捧げている。


また愛妻家としても知られており、正妻妙玖存命中は側室を娶らなかったと言われている。


<小早川隆景>


村上水軍を説得し、厳島の戦いの勝利に貢献。


小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)は、竹原小早川家第14代当主。後に沼田小早川家も継ぐ。


毛利元就の三男で、同母兄に毛利隆元・吉川元春がいる。元春と共に毛利両川として戦国大名毛利氏の発展に尽くした。豊臣政権下で五大老の一人に任じられた。実子はなく、豊臣秀吉の養子・小早川秀秋を養子として迎えた。


1533年安芸国の戦国大名である毛利元就と正室の妙玖夫人の三男として、同国・吉田郡山城で生まれる。


1541年、竹原小早川家の当主・小早川興景が佐東銀山城攻めの最中に病死した。興景には継嗣が無かったため、竹原小早川家の重臣らは元就に対し徳寿丸を後継に求めた。大内義隆の強い勧めもあり、元就はこれを承諾した。興景の妻は元就の兄・興元の長女であり、それゆえに竹原家は隆景を養子に希望したものと思われる。


1547年、大内義隆が備後国神辺城を攻めたときに従軍し、初陣を飾った(神辺合戦)。この時、隆景は神辺城の支城である龍王山砦(坪生要害)を小早川軍単独で落とすという功を挙げ、義隆から賞賛された。なお、この合戦に関係する感状の署名が徳寿丸から隆景に変化しており、このタイミングで元服したとされる。「景」は養父・興景の一字から、「隆」は義隆の偏諱を受けたものと推測されている。


1551年10月13日、隆景は竹原小早川家の本拠・木村城を出て、沼田小早川家の高山城に入った。


なおこいつも愛妻家として有名、側室をもたなかったらしい。吉川元春も同様。遺伝かな?


<厳島>


宗教、交通、経済の要地。瀬戸内海西部、広島湾の北西部に位置する。通称は安芸の宮島(あきのみやじま)、または宮島。


江戸時代中期には、天橋立、松島と並ぶ、日本三景の一つに挙げられる景勝地として広く知られることにもなり、日本屈指の参詣地・観光地として栄えるようになった。


合戦に登場する宮尾城は毛利元就の計略の一つ。つまり陶軍を嵌めるために建設されたものとして有名だがそれ以前からあったらしい。


<包囲戦術>


戦史やライトノベルで散見される包囲戦術は大まかに二通りに分類される。

1.能動タイプ

毛利家の厳島の戦いがこれ。敵中突破とか右翼を打ち破って包囲を完成させるとかの流れで展開が激しく、読んでいて楽しい。

2.伏兵タイプ

島津家の釣り野伏が有名。代表的な戦が沖田畷の戦いや木崎原の戦い。

わざと敗走したりする場合はこれに該当する。仕掛ける側もかなりリスキー。






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ウィキペディア 厳島の戦い より


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%B3%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

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