第33話 花のような人

 ハンナ、もといウツギハナという人はどういう人なのだろうか。

 わたしはほとんど知らない。

 知らないまま、ここまで来てしまった。


「空色の空に木曜日の木、それから花の花で、空木花――です。驚きましたよね。ハンナというのは通称というか、あだ名というか……とにかく私の見た目がでしょう? だから幼いころからハンナって、周りからはずっとそう呼ばれてきたんです。親にも友人にも」

「あの……お産まれはどこの国だったんですか? ご両親は……」

「産まれたのは日本でですよ」

「えっ」

「両親は父がフランス人、母が日本人で、ふたりともフランスで出会って日本で結婚しました。だから、私の国籍は日本です。日本人として、ずっと日本で生活してきたんです」

「そうだったんですか」

「はい。家ではフランス語と英語と日本語が飛び交っていて、どれも大人になるまでにしゃべれるようにはなりましたが、学校や職場では私は外国人としてしか見られませんでしたね……」

「すみません。わたしもハンナさん――花さんのこと、外国の方かなってずっと思ってました。でも、今は別に、外国の人とかなんとか関係なく、あなたはあなただって……思ってるので」

「モエさん。ありがとうございます。私の名前をちゃんとって呼んでくださって、とても嬉しいです」


 彼女を見ると、うっすらと涙ぐんでいた。

 それだけ周囲にはハンナと呼ばれつづけてきたのだろう。


「両親からは愛称を込めてそう呼ばれていましたし、友人からもその方がかっこいいという理由で呼ばれていたので、そんなに悪い気はしてなかったんですが……。あ、オリーブの店長が涼っていって私の高校時代からの友人なんですが、あいつからも――」

「あっ、それ、前に店長さん自らが教えてくださいました。あの花さんが蛍さんのご両親の家に行っていて、連絡がつかなくなってたときに」

「ああ、そうだったらしいですね。あとからあいつに聞きました」

「あのとき、電源切ってたんですか?」

「ええ。というか充電する間も惜しかったのでそのまま行動してたら電池切れになってしまって。あとでジャスパーからも――あのときオリーブに来てた同僚です。同僚からもしこたま怒られました」

「ああ、ジャスパーさん。彼ともあのときお話ししました。ハンナとはどういう関係なんだって、お互いに情報交換しましたね」

「あいつ……」


 それは聞いてなかった、という顔をする花に、わたしは思わず微笑んでしまう。


「まあ、その話はさておき。職場でもこの日本っぽい名前だと変に気にする生徒さんや親御さんがいるかもしれない、ってことで、ハンナという通称を使っていたんですよ」

「そうだったんですか。英会話講師って、必ず外国人じゃないといけないって就業規則でもあるんですか?」

「そういう教室もありますね。でもうちはTOEICの点数が高得点だったり、ネイティブな発音ができたり、高度な会話ができるならOKっていう割とゆるい会社でした。講師名も、みんな余計なトラブルを回避するために本名じゃなくて、好きな名前をつけてましたし」


 話しながらゆっくり登っていたら、やがて丘の上に出た。

 見渡すと、周りはすべてライラックの低木に囲まれている。


「誰も彼もが私をハンナと呼ぶ。そのことを、いままで特に気にしたことはありませんでした。でも――蛍が亡くなって。蛍にも最後までそう呼ばれなかったなあって思ったら……」


 なんだか寂しくなって。

 そう言う花は、じっと目の前の紫色の花を見つめていた。


「あなたにも伝えるべきか迷いました。でもずっと一緒にいるわけじゃないかもしれない。蛍のように、急に目の前からいなくなってしまうかもしれない。だったら、わざわざ伝えなくていいんじゃないか――と。でも、あなたと旅行に行くってなったときに改めて思いました。できたらずっといたい。だから、私の名前もちゃんと知ってほしいって」

「花さん」


 花。本当に花のような人。触れたら壊れてしまいそうな、儚い人。

 夢の中にいるみたいに、全部いつか消えてしまうんじゃないか、そんなことを案じてずっと不安がっている、可愛い人。


「わたしの名前も教えます。わたしは、山田萌枝といいます。普通の山田に、萌え出るの萌、小枝の枝、で萌枝です」

「萌枝さん……素敵な名前ですね」

「ありがとうございます。花さんも、ですよ」


 丘の上には幾人かの観光客がいたけれど、わたしは勇気を出して花の手を取った。この人とずっと一緒にいたい、ずっといますよ、と態度でも示したくて。花はわたしの手を強く握り返してくれた。


「嬉しいです。萌枝さん……私とずっといてくれますか?」

「はい。花さんも……わたしとずっと一緒にいてください」


 わたしたちは顔を見合わせて、微笑み合った。

 しばらく丘の上にいた。

 ライラックの森を散策したりして、いろんな品種があることを知った。

 やがて、日が暮れてきて、人が少なくなってきた。


「あの、萌枝さん。受け取ってほしいものがあります」

「はい。なんでしょう」

「これです」

「えっ……これ……」


 紫のライラックの木の下で、わたしは見覚えのあるジュエリーケースを渡された。細長い箱には、黒のベルベッドの布が貼られている。


「開けてもいいですか?」

「はい」


 そっと開けると、中には薄緑色の宝石のペンダントが入っていた。


「これ……」


 ペリドットだ、と思った。

 しかし、これはわたしがいままで身に着けていたオーバル型ではなく、涙型となっている。さらにその上には、小さなダイヤが三つも縦についていた。宝石たちと金色の鎖が、箱の中できらきらと輝いている。


「こんな……高価そうな……」

「それ、つけてみてもらえませんか」

「えっ」

「今、萌枝さんにつけてみてもらいたいんです。お手伝いしますから。いいですか?」

「は、はい」


 言われるまま、わたしは花に着けてもらう。


「ど、どうですか?」

「最高です。やっぱりオーダーメイドしてよかった!」

「えええっ!?」


 どういうことだろう。こんな、わざわざ一から作るみたいなこと。まるで――。


「萌枝さん。好きです。私とこれからも一緒にいてください」

「それって」

「プロポーズ、みたいなものですかね。さっきも似たようなこと言っちゃいましたけど。あらためて」

「花さん……」

「返事は?」

「はい。わたしも、さっき似たようなこと言っちゃいましたけど、はい。こちらこそ、ずっと一緒にいてもらいたいです」

「……萌枝さん」


 わたしを見つめつづける花を、ぎゅっと抱きしめる。

 ライラックと同じ匂い。

 その香りに包まれながら、わたしはそっとつぶやいた。


「わたしも、好きです。大好きです、花さん」

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