第32話 北の町へ

 五月。

 新緑がさらに鮮やかになった、この季節。

 わたしとハンナは新幹線に乗って北の町へと向かっていた。

 どこまでも続く田畑と山々――それらの景色が目まぐるしい速度で窓の外を流れていく。


 あれからひと月が経ち、わたしは百葉書店を辞め、ハンナは長期休暇を取っていた。すべては葉子さんが商店街の福引で、一等の旅行券を引き当てたのがはじまりだった。


「これがいい機会なのかもしれないね。はい、萌枝ちゃん。これであのハンナとかいう人と旅行に行っておいで」

「えっ、これって……葉子さんが当てたやつじゃないですか。葉子さんが行けば――」

「退職祝いだよ」

「えっ」

「やっぱりもう、ここを閉めようと思ってね。それを引き当てたとき、あたしも元気なうちにいろいろな場所を見ておかなきゃと思ったんだ。あの世で会ったとき、夏にいろんな土産話をしたいからね」

「葉子さん……」


 それからほどなくしてわたしは百葉書店を辞めた。

 葉子さんは今頃、ヨーロッパのどこかの国に着いているはずだ。ツアーで何ヶ国も回ると言っていたけれど……大丈夫だろうか?

 わたしは福引の旅行券に付いてきたパンフレットを取り出してみた。そこには、北の町で開催される花の祭典のことが大きく書かれている。


「ここに行くの楽しみですね、ハンナさん」

「ええ。あ、駅弁そろそろ食べましょうか」

「はい」


 わたしが笑顔で応じると、ハンナは待ってましたとばかりに二人分の駅弁を座席のテーブルに並べはじめた。これは新幹線が出発する前に、あらかじめ地元の駅で買っておいたものだ。

 「季節の彩(いろどり)」という名の弁当は、筍の炊き込みご飯に、定番の筑前煮、天ぷら、牛時雨煮、だし巻き卵、焼き魚といったおかずがところせましと並べられている。


「うわあ、豪華。それに美味しそう!」

「早く食べましょう、モエさん!」


 急かされて、わたしは手を拭くのもそこそこに割り箸を割った。

 どれからいこうか迷っているうちに、ハンナがもう食べはじめる。


「うーん。エクセレント!」


 あいかわらず大きな口でぱくぱくと食べている。幸せそうに味わっているのを見ると、わたしもとても幸せな気持ちになった。


「ふふっ……」

「どうしたんですかモエさん」

「ううん。こうして、ハンナさんと一緒に来れて嬉しいなって思ってただけです」

「モエさん。それは、私もですよ」


 お互い笑い合いながら、季節の旬の味を堪能する。

 美味しい。楽しい。しあわせ。

 天国の夏先輩と蛍さんも見ているかな? そう思って、ハンナがつけている薄緑色の宝石――ペリドットのペンダントを見つめる。それは、ハンナが屈みこむたびにゆらゆらと首元で揺れていた。


「ん? モエさん? 食べないんですか?」


 じっと見ていたら、ハンナの若草色の瞳が視界いっぱいに飛び込んできた。

 この色も、綺麗。


「た、食べますよ」

「そんなこと言って。今私に見惚れてませんでしたか?」

「見惚れっ……?」

「ええ。そんなに私の顔が気になりますか? 花より団子ならぬ、団子より花ですか?」


 たしかにハンナの顔は整っていて綺麗だったけれど、今はそっちを見ていたわけではない。でも否定するのも違ったので、そうだとあっさり白状した。


「たしかに、初めて会ったときから美人だなあって、華やかなモデルみたいな人だなあって思ってましたよ。それは……今もです。今も見惚れてしまうくらい素敵で、わたしと一緒にいてくれるのが不思議なくらいの人です」

「ふふふ」

「なんですか」

「嬉しいです。そんな風に思ってくれて」

「初めはなんて強引に距離を詰めてくる人だろう、って警戒してましたけどね。まあ、それにも理由があったわけですけど」

「そうですね。私も、モエさんに一目惚れするフリ――のはずだったのに、まさかこんなに好きになるなんて思ってもいませんでした」


 わたしたちは鼻先だけを近づけて、また笑い合う。

 お昼ご飯を食べて少しすると、新幹線は目的地の駅へ着いた。


「うわあ……!」


 駅を出てすぐの広場には、ライラックという薄紫色の花をつけた大きな花木が植わっていた。

 この街には、いたるところにこのライラックが植わっているらしい。

 大通りの左右の歩道にも街路樹としてあり、房状の花がこれでもかと咲き乱れていた。


「あれ? この香り……」


 なにか覚えがある匂いだった。そうだ、これは――。


「ハンナさんの香水! ね、そうでしょう?」

「たしかに似てますね。というか好きな香りです」


 甘く優しい香りが風に乗ってわたしたちの元へと流れてくる。

 わたしたちはその香りに誘われるまま、花の祭典が行われているというライラック公園へと向かった。


「ええと……ライラックには色ごとにそれぞれ花言葉があるみたいですよ」

「花言葉?」

「はい」


 わたしはパンフレットを見ながらそれぞれの意味を読み上げる。


「ライラック全体には、友情、初恋、青春の思い出。白には、青春の喜び、無邪気。紫には、愛の芽生え、初恋。ピンクには思い出、ですって」

「ふうん。色ってこの紫だけじゃないんだ。私はこの色が一番好きだけどなあ」

「えっ」

「だって、ピンクはなんだか桜を思い出してしまうし、白も山桜みたいじゃないですか?」

「そう……ですね」

「私は、この紫色が好きです。花言葉も」

「愛の芽生え、初恋……」


 手の届くあたりに房状になった花の塊があり、ハンナはそれを引き寄せて顔のそばまで持ってきた。


「ね、写真撮ってくださいよ」

「えっ、ああ、はい」

「モエさんも」

「きゃっ」


 急に肩を引き寄せられる。

 わたしはどぎまぎしながら、なんとかツーショットの自撮りをした。かなり顔の距離が近い。上手く撮れたかすぐに画像を確認していると、ハンナがさらに顔を近づけてきた。


「もう、まだ慣れないんですか?」

「え……」

「すでにキス、してるのに」


 花房で隠しながら、軽く口づけをされる。

 金色の髪と、まつげと、それに縁どられた若草色の瞳。


「だ、誰かっ、見てたらどうするんですか!」

「あはははは! 大丈夫ですよ」


 くちびるが離れた後、あわてて周囲を見回すとハンナの言う通りそこまで通行人はいなかった。

 それでもめちゃくちゃ恥ずかしい。

 わたしはハンナが実質初めて付き合った人だ。キスも、手をつなぐのも、彼女が初めて。だからいろいろと……まだ慣れない。


「さあ、行きましょう」

「……はい」


 スマホをしまって、ハンナのあとを追う。

 ふたりともそれほど荷物は持っていなく、大きめのリュックサックをひとつ背負っているだけだった。

 「ライラック公園」に着く。そこには意外と様々な花が植わっていた。花壇も花木もカラフルな色であふれている。

 でも、五月の今はやはりライラックが最盛期を迎えているようだった。

 ところどころに植わっているライラックが、甘く優しい香りを放っている。


「あ、結構屋台も出てるんですね」

「うーん。もうお昼に駅弁を食べてしまったからなあ……」

「明日また来てみましょうよ」

「そうですね」


 公園は花の祭典の会場となっており、食べ物もいろいろと売っていた。焼きそばやフランクフルト、クレープなど、魅力的なものばかりだったが、開催期間はまだまだ長いので明日来ても大丈夫だろう。

 他にも、スタンプラリーや盆栽の展覧会が催されていた。

 わたしたちは様々なライラックがひとまとめに植えられている場所へと向かった。そこは小さな丘のようになっており、その上には澄んだ青空がどこまでも広がっている。


「素敵なところですね」

「ええ。ライラックの花も綺麗ですけど、それをバックにして見るモエさんもまた……格別です」

「な、なにを言ってるんですか」


 お世辞でも照れてしまう。

 そんなの、ハンナの方が綺麗なのに。

 爽やかな風に吹かれながら、わたしたちは丘の上へと昇る。 


「ねえ、モエさん」

「はい?」

「そういえば私たちってまだ、お互い本名を知らないままですよね?」

「あ、そういえばそうですね」

「知りたいですか?」

「ええ、知りたいです」

「じゃあ私から」

「はい」

「私の名前は……空木うつぎはな、といいます」

「えええっ!?」


 ウツギ、ハナ?

 ハンナって偽名だったの? とわたしは驚愕の事実にしばらく立ち尽くしてしまった。

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