第27話 なくなったペンダント

 わたしは自宅の玄関で立ち尽くしていた。

 どこをどうやって帰ってきたんだろう。

 見下ろすと、ハンナのワインレッドのワンピースを着たままだった。手には自分のバッグと、私服の入った白いビニール袋。


 まだ母親は帰ってきていない。

 わたしは急いで家に上がると、着ていた服を即座に脱いだ。ネットに入れて、縦型洗濯機に入れる。おしゃれ着コースでいいだろう。濡れた私服も下着も入れ、スイッチを押した。

 重々しい音をたてて洗濯槽が回る。


 裸になったわたしは洗面台の上の鏡を見た。

 キスマークはついていないけれど、断片的にいろいろなところにキスされたことを思い出す。

 体がまたほてりそうになったが、ふと首筋が寂しいことに気がついた。


 ペリドットのペンダント。

 これを外すのは、自宅のお風呂に入る前だけだったのに、すでにつけていないことがなんだか変な感じだった。バッグの底に隠していたハンカチを取り出す。この中にしまっていたのだ。


「あれ?」


 開いてみたが、その中にあるはずのペンダントがなくなっていた。


「え? えっ、嘘!」


 バッグの中をあわててひっくり返してみるがどこにもない。

 これを外したのは、駅の西口から東口に向かう前で、でもなくさないよう確かにハンカチの中央に挟んだのだ。それは鮮明に憶えている。なのに、なくなっている。

 まさか。


「ハンナが……?」


 わたしの知らない間に持ち物をあさって、盗ったのだろうか。そんな。

 わたしはスマホのメッセージアプリを起動した。


「なんて送ろう……」


 もしハンナが盗んでいないのなら、ひどい誤解をしていることになる。

 でももしハンナが盗んでいたなら、それはとても気まずいことだった。


 だってわたしを信用してくれてなかった、ということなのだから。わたしが持っているペリドットを確認したかったなら、そう言えば良かったのに。勝手に奪っていってしまうなんて……。


 まあ、もともとハンナが蛍さんという元恋人にプレゼントしたものなのかもしれないのだけど。

 でもそれを証明することなんて、あのときはできなかったはずだ。わたしの心の準備がまだできていなかったから。それがちゃんとできたら、普通に確認してもらうつもりだったのに。

 もしかして、最初からこれが目的だった?

 わたしたちが出会ったのは偶然じゃなくて、計画的な接触だった?

 どうやって? どうして?


 悲しかった。

 理由がなんであれ、どうやってそのことを確かめたらいいんだろう。

 「あなた盗んだの?」って? 「あなたこれが目的で近づいたの?」って? そんなこと訊けない。訊けないくらい、もう、わたしはあの人を――。


 お風呂から出て、髪と体を乾かして、わたしは少しだけ眠った。

 夢は見なかった。

 そして、母親が返ってくる前に家を出た。


「あっ、しまった……!」


 マンションの駐輪場で、昨日自転車を駅前に置いてきてしまったことを思い出した。これでは徒歩で行くしかない。幸い昨日の雷雨は嘘のように晴れていた。わたしは急いで走り出す。


「もう、泣きたい。うううう……」


 弱音が思わず漏れてしまう。走っていると、すぐ近くのバス停にバスが停車した。あれはK駅に向かうバスだ。わたしは迷わず飛び乗った。

 慣れない動作で運賃を払うと、バスはしばらくして発車する。

 車内はとても混んでいた。ふと、ハンナもバス通勤だったなと思い出したが、彼女の姿はどこにもなかった。出勤時間が違うのかもしれないし、今日は休みなのかもしれなかった。

 いないが、それでいいと思った。

 どんな顔をしてどんな言葉を交わせばいいか、わからなかったから。


 お店についた。

 百葉書店。開店前の店内はまだ明かりがついていない。「close」の札がかかっている。でも、すでに店長の葉子さんが来ているのはわかっていた。でなければシャッターさえ開いていない状態だからだ。

 わたしはドアを開けて中に入った。


「おはようございます」

「おはよう、萌枝ちゃん」


 濃い緑のエプロンをつけて、さっそく店内の掃除をしている。葉子さんはかなりの働き者だ。


「すぐレジ開けますね」

「ああ、頼むよ」


 バックヤードで着替えて、レジに向かう。

 ペリドットのお守りがない一日がはじまる。

 それは少し怖かった。夏先輩を身近に感じるためのものだったのに、それがないのは……もう本当に夏先輩がどこにもいなくなってしまったかのように感じる。


「萌枝ちゃん? 大丈夫かい」


 いつのまにか近くに来ていた葉子さんがわたしに声をかけていた。


「大丈夫? なにがですか」

「あんた、泣いてるじゃないか。ちょっとこっちへおいで」

「えっ?」


 自覚がなかったが、かなり涙を流していたようだ。わたしは葉子さんに促されて、バックヤードに連れていかれた。そして休憩用の椅子に座らされる。


「なんかあったんだね」

「……」

「なにか、大変なことがあったんだね」

「……」


 うまく話せない。


「ここ最近、様子が変だなあと思っていたけど、昨日は特に……普段は訊いてこないことまで訊いてきていたしね。どこまであたしが踏み込んでいいか迷っていたけれど、今日こそはちゃんと説明してもらうよ。こんな……泣くほどのことがあるのは、さすがに放っておけないよ」

「話すと、長くなります」

「いいよ」

「でも、もう開店時間が」


 そう言うと、葉子さんは紙にマジックで「臨時休業」と書き外のドアに貼り付けに行った。


「これでいい。さあ話せる範囲でいいから、話してごらん」

「はい……」


 わたしは事の経緯を、葉子さんにかいつまんで話した。


 ハンナのこと。

 夏先輩が入院していた病院のこと。

 それぞれの想い人のこと。

 ペリドットのペンダントのこと。

 そしてそれが――なくなってしまったこと。


 バックヤードには小さな窓が一つだけあった。

 それは商店街の裏手の小道の一部を切り取っていた。

 そこを時々見やりながら、わたしは悲しみと憤りと戸惑いを、できるだけ口に出した。ハンナと昨夜あれほど触れ合ったくちびるで。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る