第28話 葉子さんに相談

「そうかい、そうだったのかい」

「……」


 ひととおり話し終えると、とっくに開店時間は過ぎてお昼近くになっていた。重い沈黙が続く。

 涙は出切ってしまったようで、目元はすでに乾きはじめていた。でもひりひりする。近くのごみ箱にはわたしの涙と鼻水を吸ったティッシュがうずたかく積まれていた。


「あれだね。一つ言えるのは……いまの萌枝ちゃんが悲しいのも、憤っているのも、戸惑っているのも、そのハンナって人が――好きになったから、じゃないかい?」


 その言葉に、わたしは息が止まった。

 言ってないのに。キスしたことも、それ以上をしたことも、変わりたいと思ったことも。

 そして、好きになってしまったことも。

 全部伏せて、それ以外を話したのに。


「どうして、そう思うんですか」

「うーん。それは……そのハンナって人のことを話すとき、萌枝ちゃんがうちの夏の話をするときの表情と似ていたから、かな。ああ、きっと恋をしてるんだ――って」

「……」

「新しい恋が、できて良かったね」

「……」

「罪悪感なんか、感じなくていいんだよ」


 どうして。どうしてそんな優しい言葉をかけてくれるんですか。

 わたしは、わたしはあなたのお孫さんのことを――ずっと夏先輩のことを好きでいつづけたかったのに、別の人を……好きになってしまったんですよ。

 それなのに、なんで。さみしくないんですか。


「いいんですか? わたし、夏先輩のことを……いままでみたいに同じように思えなくなるかもしれないんですよ。夏先輩の話をするとき、いままでみたいに同じ熱量で話せなくなるかもしれないんですよ。ハンナの……あの人の話を、こうして、またしてしまうかも……しれないんですよ?」

「いいよ。それで。だって、あんたは生きてるんだから」


 生きてるんだから?

 死んでいる人と、生きている人は、同じ時を生きられない?

 だから? だからそれでいいなんて。


「だって萌枝ちゃん。時を経るたび、年を取るたび、同じ人のことを同じ熱量で話しつづけるなんてのは、そもそも難しいことなんだよ。あれからもう、五年も経ってるんだ。あんたはまだ若い。どんどん変わっていける年齢だ。だから、それが普通のことだよ」

「普通……?」

「ああ。だから、自然に身を任せていいと思う」

「……」

「完全に、夏のことを忘れることだってできないはずだ。忘れることも、忘れないことも、変わることも、変わらないことも、萌枝ちゃんの自由だよ」


 自由。

 それを手にしていいのだろうか。

 その先に、幸せがあるかもわからないのに? 手を伸ばしても、また別れがあるかもしれないのに?

 ハンナが……また会ってくれるかもわからないのに。

 最初から好きじゃなくて、好きになるふりをして、全部全部、相手をだましていただけかもしれないのに?


「まあ、人生はさ、楽しんだ者勝ちだよ。悔しいなら、そのハンナってやつのこと、なんとか見返してやれたらいいのにね」

「見返す?」

「ああ。そのペンダントを取り返すだけのために、近づいてきたんだとしても、本当にそれだけだったとは……どうもあたしは思えないんだよね」

「どういうことですか?」

「本当に、ハンナは萌枝ちゃんを好きにならなかったのかどうか、ってことだよ」


 どうなんだろう。

 詐欺師としての腕が良かったら、そういうそぶりを違和感なくやれる人だったと思うけれど。

 でも……昨夜の、あの、キスは。


「ありゃ」

「え?」

「老人には若い人の恋は刺激が強いね」


 葉子さんはそう言うとパタパタと顔を仰ぐまねをして、バックヤードの奥へと歩いていった。そしてエプロンを脱いで、ハンドバッグを持って戻ってくる。


「さあ、じゃあひとまずお昼でも食べに行こうかね。たまには一緒に行かないかい?」

「えっ、はい」

「場所は……オリーブに行こう」

「オリーブに?」

「ハンナがいるかもしれないし、今日はいないかもしれない。もしいたとしてもあたしが一緒なら心強いだろう?」

「はい。そうですね。ありがとうございます」

「さあ、早く、支度して」


 わたしは急かされるままに立ち上がった。エプロンを脱いでロッカーにしまうと、ロッカーの扉の裏に張られた小さな鏡が目に入る。そこには顔を耳まで染めたわたしが写っていた。

 葉子さんはたぶん、この顔を見たのだ。

 これでは、ハンナと何があったのか見抜かれてしまってもおかしくない。

 泣いて興奮していたのであまり気づかなかった。さらに恥ずかしくなって顔が熱くなってきてしまう。


 だって、誰かとキスをしたのも、それ以上も――。

 はじめてだったんだ。

 ハンナが。

 わたしのはじめてだったんだ。


 バッグを持って戻ると、わたしはなるべくうつむいて顔を隠さねばならなくなった。葉子さんは苦笑していたが、何も言わずにオリーブまでの道を歩いてくれた。

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