第26話 嵐の夜に③
ドライヤーのあたたかな風を頭に受けていると、なんだか気持ちよくなってきて眠くなってきてしまう。
ずっと気を張っていたからかもしれない。
ゆるゆると緊張が解けて、こわばっていた体もほぐれていった。
「さ、こんなもんですかね。終わりましたよ、モエさん」
わたしの髪を何度も持ち上げたり、
「あー、うん。あったかくなりましたね、モエさん。良かった」
「それは……あなたもです。シャワーを貸していただき、あ、ありがとうございました……」
「どういたしまして」
「あの……」
わたしのうしろ髪をかき分け、ハンナの鼻が素肌に触れてくる。
「いい匂い」
「えっ」
「ちょっとしばらくこのままでいいですか」
「ええと……その」
猫を飼っている人は、ときどき癒されるために「猫吸い」というものをするらしい。さしずめ今のハンナはそれと同じだった。わたしの匂いを吸っているのだ。
なんのために?
わたしはハンナと違っていい香水をつけているわけでもないし、シャンプーを借りなかったから雨か汗の匂いしかしないはずだ。どちらかといえばいい匂いではないはずなのに、なんで……こんな変態みたいなことをするのだろう。
「はー。落ち着きました。いや、逆にムラムラしちゃったかな……」
「どっちですか」
「頭を冷やしたはずなんですけど、あなたの体温を感じたら、つい。すいません。お水でも飲みますか」
「いただきます」
ハンナは立ち上がると近くのキッチンから水を汲んで戻ってきた。
わたしはその間に眼鏡をかけ直す。
「どうぞ。ウォーターサーバーの水ですからご安心を」
「ありがとうございます。来たときから思ってましたが、ハンナさんちってお金持ちですよね」
「両親がどちらも宝石商をしているので……まあ、それなりの資産はありますね」
「うちは賃貸のマンションです。母は看護師で、女手ひとつで育ててくれました」
「そうですか。それはご立派なお母さまですね」
「だからこんな大きなおうちに住んだことはないんです。入ったことも。なんだか夢みたい……」
「夢じゃないですよ」
水の入ったグラスを持ちながら、天井のシーリングファンが回っているのを見上げていると、ハンナがわたしのそばに座った。ソファの片方がゆっくりと沈む。
「私がうちに人を招いたのは、あなたが初めてです」
「え?」
「蛍は……うちに来たことがないんですよ。そこまで親しくなる前に、入院してしまって」
「そうなんですか」
「ええ」
それはどういうことだろう。
蛍さんがしたことなくて、わたしがしている意味。考えたくないけど、ハンナもそれをいま考えている気がした。わたしはうまい言葉が返せなくて、渡された水を飲む。澄んだ水が体に心地よく染みこんでいく。
「泊っていきますか?」
「えっ、いやいや。雨が止んだら帰りますよ。雷もだいぶ遠くなりましたし、きっとすぐ止みます」
「そう、ですか……」
「話があるって言ってましたよね」
残念そうにしているハンナに、わたしは当初の目的を思い出させようとする。
「ああ、あれは……口実ですよ。あなたにさんざん煽られて、もっと一緒にいたくなったからああ言っただけです」
「えっ! そんな……」
「あの、キスしてもいいですか?」
「き、キス?」
「はい。したいです」
「ええと……」
ハンナがグラスを置いて、じっとわたしの表情をうかがってくる。
わたしもグラスをテーブルに置いた。
「それは……口に、ってことですか」
「はい」
「口……」
「嫌ですか? やっぱり、口って気持ちがダイレクトに伝わってしまうじゃないですか。だから、私を好きになりたくないなら、好きになれないなら、止めた方がいいですよ。でももし……」
「もし?」
「好きになれるかもって思いはじめてきたなら、してほしいです」
「……」
わたしは、どうなんだろう。
どっちなんだろう。好きになりたい、なりたくない。わたし自身はどうなんだろう。夏先輩のことを思うとできない。でも、夏先輩のことを思わなければ――。
「罪悪感、ありますか?」
「……はい」
「私もあります。蛍のことを思うと」
「なら……」
「でも、してください。お願いします」
この人は。変わりたいんだ。
そう思った。
ハンナはわたしと同じだった。ずっと亡くなった人に操を立てていた。想い人をずっと想いつづけて、その愛を風化させないようにしてきた。でも、個人では、ちゃんと誰かを愛したいし愛されたかった。決して一方的なものではなく、与えて返してもらうことを望んでいた。
「これって、傷の舐めあいになりませんか。本当の愛を再び味わいたいのなら、わたしたちもっと健全な人をお互い選ぶべきです」
「そうですね。そうかもしれません」
「だったら。もっと悲しくなりませんか?」
「はい。でも……そうは、ならないかもしれません。あなたと私が本気で愛し合えば、同情なんかふっとばして、過去も関係なくなって、ただあなたと私だけに……なれるかもしれません」
「そんなの、わからないですよ」
「ええ、だから試してください。私と。キスを――」
ハンナは今度はわたしから来てもらうのを待っていた。
一歩も動かず、わたしの目をずっと見つめてくる。
こんなのずるい。
胸の奥が痛いほど切なくなった。涙がぽろぽろとあふれてくる。でも、ハンナは決して動こうとしなかった。
わたしは、歯を食いしばって両腕をハンナの首筋にまわした。
そこからは、あまり覚えていない。
熱烈な口づけがあったような気もするし、冷たい肌の感覚があったような気もする。気づくと朝を迎えていて、わたしは自宅のマンションにいた。
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