第25話 嵐の夜に➁

「モエさん……」


 目をつぶって覚悟を決めていると、ハンナはわたしの頬に自分の頬を摺り寄せてきた。熱い吐息が耳元にかかる。


「なんで、手をつなぐのを拒否しなかったんですか? なんで、あなたからも手を握り返してきてくれたんですか? それは……勘違いしてもいいんですか?」

「そ、れは……」


 言い淀んでいると、首筋にハンナの唇が当たった。

 いや、キスをされているのだ。


「は、ハンナさん……」

「嫌なら、拒んでください」

「……」


 ハンナの体を押し返そうと手を伸ばしたが、服に触れてすぐに気づいた。そういえばジャケットを借りっぱなしだった。ハンナはその下のブラウスをひどく濡らしている。これでは凍えてしまう。

 わたしは彼女の体をぎゅっと抱きしめた。


「モエさん……?」

「このままじゃ風邪をひいてしまいます。ここじゃ……というか、お風呂入りましょう」

「えっと……」


 薄暗い中でも、ハンナが困惑しているのがわかる。

 わたしはさらにぎゅうぎゅうと腕の力を強くして、自分の体をハンナに押し付けた。


「あの、モエさん。胸が当たってます」

「ハンナさんのだって当たってますよ」

「あの……その……困ります」


 ハンナは「ううう……」とうめいて、やがて脱力した。


「卑怯ですよ、こんなの」

「なにがですか?」

「こんなの反則だ」

「だから何がですか」

「優しいし、あったかいし、エッチだし……。本当に好きになってきちゃうじゃないですか」

「えっ……」


 わたしは腕の力を弱めてハンナを解放した。

 すると、よろよろと向きを変えて靴を脱ぎだす。ハンナは家に上がって、廊下の電気をつけた。


「ハンナさん……」


 白い肌がどこも真っ赤になっていた。

 それを見たわたしも、急にドキドキしてきてしまう。やばい、心臓がどこかにいってしまいそう。全身なんか……ばくばくする。


「ええと……お湯は貯めてないので、お風呂はすぐにはご用意できないんですけど、先にシャワーだけでもあびてきてください。私は……その、大丈夫です。しばらく頭を冷やします」

「そうですか……。じゃあ」


 わたしは足元に落ちていたバッグを拾うと、一つをハンナに返した。もう一つは自分のなのでウェットティッシュで汚れていそうなところを拭く。そして、靴を脱いで上がらせてもらった。


「ここがバスルームです。タオルはそこにあります。着替えは、適当にあとでご用意しますので、ごゆっくりなさってください」


 広い脱衣所だった。

 洗面台と、ドラム式洗濯機が置かれている。棚には綺麗にたたまれたバスタオルが、サイズごとにいくつも収納されていた。


「ありがとうございます。これ、お返ししますね」


 濡れてしまったジャケットをハンナに返す。

 すると、ハンナは受け取りながらまた顔を赤くした。


「どうしました?」

「え、あの……。わ、私もあとで服を脱ぐので。いったん出ますね。浴室に入ったらまた声をかけてください」


 そう言うと、すぐに出て行ってしまった。扉が閉まる。

 なんだったんだろう。

 ふと、洗面台の方を見ると、自分が鏡に写っていた。襟付きの白っぽいブラウスとネイビーのロングスカートを履いている。でも、それが雨で体に張り付いてしまっていた。下着はあまり派手な色じゃなかったけれど、それも透けて見えてしまっている。


「ああああ……!」


 これを見られてしまったようだ。

 ハンナは黒っぽいジャケットとパンツに、青いシャツを着ていたから、あまり気にならなかった。自分だけこんな姿だったことに、いまさら恥ずかしさがこみあげてくる。

 わたしは努めて冷静さを取り戻そうとした。


 そうだ、まずはシャワーをあびなきゃ。


 他人の家で全裸になるのは少し気が引けたけれど、思い切ってすべての服を脱いだ。バッグの上に重ねて置き、浴室に入る。


「もういいですよ。どうぞー」

「じゃあ、入りますね」


 声をかけると、脱衣所の扉が開いた。ドラム式洗濯機の扉が開き、服を脱ぐ音がする。

 なんだかまたドキドキしてきた。

 さっき、抱きしめたときのハンナの体の細さ、冷たさ、柔らかさが思い出される。だ、駄目だ、考えないようにしないと。


「服洗いますけど、モエさんの服も一緒に洗っておきましょうか?」

「い、いいです! 持ち帰って洗うので! ビニール袋か何かあとでいただけますか?」

「そうですか? じゃあ自分のだけ洗いますね」


 ハンナはそう言うと、ピッと洗濯機のボタンを押した。

 また脱衣所を出ていく音がする。

 え、もしかして今、裸で出て行ったのだろうか。まあ、家に誰もいないのだから気にする必要もないと思うけれど。


「わああ……どうしよう」


 今、この家の中でふたりとも全裸になっている。

 それを考えると頭が真っ白になりそうだった。


 その後、熱いシャワーだけでなんとか体をあたためていると、外からまた声がかかった。


「着替え、洗濯機の上に置いておきますね」

「はい、ありがとうございます」


 声だけで応じると、またハンナが出ていく。

 わたしはシャワーを止め脱衣所に戻った。棚のバスタオルを拝借して、体の水分を拭く。そして濡れていなかった自分の下着を身に着け、洗濯機の上に置かれた――おそらくハンナのものと思われる私服を着た。


「お、お待たせしました……」


 脱衣所を出て、物音がする方向に行くと、リビングと思われる場所でくつろいでいるハンナを見つけた。ハンナは白いトレーナーにデニムのパンツを履いてソファーに座っていた。ずいぶんラフな格好だが、これが彼女の普段の部屋着のようだ。


「あなたが着れるようなのだと、そういうのしかなくてすみません」

「いえ。わたしとハンナさんでは体型がかなり違うので……。こちらこそご苦労をおかけしてしまってすみません」


 貸してもらったのはワインレッドのワンピースだった。

 ハンナが着たらとても華やかで映えるのだろうけど、地味なわたしが着るとなんだかちぐはぐな感じがして、居心地が悪かった。

 でも文句は言えない。


「お似合いです。まるで赤いチューリップの妖精さんのようですよ」

「それって、褒めてますか?」

「ええ。とても可愛いです」


 わたしは近づいてきたハンナに抱きしめられた。

 乾いた服を身にまとったハンナは、ちゃんと熱を取り戻している。良かった。わたしはホッとしてハンナを見上げた。


「あれ? なんだ、髪がまだ濡れてるじゃないですか」

「ドライヤーの場所がわからなかったので……」

「もう、仕方ないですね」


 ハンナは脱衣所に走っていって、タオルとドライヤーを取ってきてくれた。そしてわたしはソファに座るよう言われ、子供のように髪を乾かしてもらう。眼鏡をはずして、ローテーブルに置くと、すべての視界がぼやけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る