第24話 嵐の夜に①

 ほどなくして到着したタクシーにわたしたちは乗り込んだ。

 ホテルの目の前に停まってくれているとはいえ、このどしゃ降りの中、傘もなしではあっというまに濡れそぼってしまう。


「ご利用ありがとうございます。どちらまで参りますか」


 そんなわたしたちを運転手の初老の男性はおだやかな声で出迎えてくれた。

 わたしたちは、はたと顔を見合わせる。


「K駅までと思ってましたけど……」

「この雨じゃ、家まで送ってもらう方がいいかもしれませんね。モエさんはそれでもいいですか?」

「仕方ないですね。風邪をひきたくはないですし」


 ということで、それぞれの自宅まで相乗りしていくこととなった。

 自転車を駅前の駐輪場に停めていることを思い出したが、さすがに今日は置いていかないとだろう。


「ええと、モエさんの家ってどの辺りなんですか?」

「……あんまりあなたに教えたくないんですけど。〇〇町の四丁目のあたりですね」

「えっ、奇遇ですね。私も同じ〇〇町です。その七丁目。駅からは少し距離があるので、バスで通勤していますけど、モエさんはどうやって……」

「わたしは自転車で通勤しています」

「あ、やっぱりK駅の周辺で働いてらっしゃるんですね」

「……」


 しまった。職場のことまで知られてしまった。

 まあ、お店の名前まで言わなければ大丈夫だろう。


「じゃあ、私の家がある七丁目の方が遠いので、先に四丁目に寄ってから七丁目に向かっていただけますか?」

「かしこまりました」


 ハンナがそう伝えると、タクシーはすべるように発車した。

 強い雨風が、窓ガラスを叩きつづけている。


「ひどい雨ですね。安全運転で参ります」


 フロントガラスのワイパーが忙しなく動いていた。運転手さんは丁寧に曲がり角を曲がっていく。

 わたしとハンナは、狭い後部座席にくっつくようにして座っていた。その触れ合っている部分だけがあたたかい。他は、雨に濡れて寒かった。


「大丈夫ですか?」

「え?」

「寒いでしょう」


 ハンナは着ていた薄手のジャケットを脱いで、わたしの肩にかけてくれた。あまりの寒さに断ることができず、わたしはされるがままとなる。


「これも少し濡れてしまっているけれど、ないよりはマシですよ」

「そんな……ハンナさん、あなただって寒いはずなのに」

「いいんです。四丁目に着くまでの間ですから、気にしないでください」


 なんで、こんなに優しくされるんだろう。

 優しくされる理由なんてないのに。わたしにそんな価値なんてないのに。

 この人を好きになりたくない。この人だってわたしを好きになりたくないはずなのに。

 こんなことされたら――。


「モエさん?」


 少しでも体温を返してあげたくて、わたしはハンナの手をもう一度つなぎ直した。

 さっきみたいに指を組むことまではしなかったけれど。

 ハンナの手は今、濡れていてあたたかかった。その熱を交換し合うように、わたしはその手をにぎりつづける。

 やがて、わたしの家がある四丁目に着いた。

 ここまでの料金をわたしだけ運転手さんに払う。


「じゃあ――」


 ありがとうございました、と言う前に、ハンナがわたしの服のすそを引っ張ってきた。


「何——」

「待ってください。やっぱり、ここで解散は……」


 見るとハンナが泣きそうな顔をしていた。その表情に、わたしは胸の奥がぎゅうと締め付けられる。


「えっ、あの……?」

「うちへ来てください。私の方からも、まだ……話があります」


 どうしよう。

 なんて、きっと口実だ。これは……わたしが手をつなぎ返したから、勘違いさせてしまったのだ。この表情は、目は。幾度か夏先輩も見せてくれていたものだ。

 そう、あれは、気のせいだとずっと思い込んでいたけれど。これは。


「ええと、まだ話し足りないなら……うちでもいいですけど。たぶん」


 たしか母は今日も夜勤だったはずだ。なら別に少しくらい家に人を呼んでも大丈夫だと思う。帰宅するのはいつも明朝になってからだし。


「ご家族がいるなら、ご迷惑になりませんか? 話をするなら、その……うちの方が。うちなら大丈夫なので」


 ハンナは、いまは家族と住んでいないのだろうか。一人暮らしならたしかに気にしないでいいけれど。

 バックミラーをちらと見ると、運転手さんが困惑した顔でこちらを見ていた。どうしよう。これ以上ここで押し問答していても不審に思われてしまうだけだ。

 仕方ない。わたしは努めて明るく言った。


「わかりました! じゃあハンナさんちで話の続きをしましょう。運転手さんすみません。やっぱり七丁目まで行っていただけますか?」

「はい」


 冷静に考えると、自宅に招いた後のことを何にも考えていなかった。可能性は低いが、もし万が一母と出くわしてしまったら……説明が面倒くさすぎる。ハンナの家でもし何かあっても、嫌なら逃げ出せばいいのだし。


「では参りますね」


 運転手さんがそう言ったので、わたしは座席に座り直した。タクシーはまた滑らかに動き出す。

 やがて、七丁目についた。


「あ、このあたりで停めてください」


 ハンナがそう言って、ここまでの経路の残りの代金を支払った。

 後部ドアが開き、二人、雨の中に放り出される。

 タクシーを見送る間もなく、ハンナは先導するように走り出した。


「こっちです」


 少しでも濡れる時間をなくすために急ぐ。

 しばらく行くと、とある一軒家にたどり着いた。


「えっ」


 それはかなりの豪邸だった。

 白い外壁が、雷が光るたびに闇に浮かび上がる。玄関の外灯しかついておらず、家には誰の気配もなさそうだった。


「駐車場に車が二台とも停まってないので、両親は帰ってきてません。兄弟ももともといませんから、安心してください」


 何を?

 問うまでもない。


 ハンナはバッグから鍵を取り出すと、玄関のドアを開けた。中に入ると不思議と空調が効いていて外のような寒さはない。

 びしょ濡れのまま立ち尽くしていると、ふいにまた手を引かれて、わたしは玄関ドアに押し付けられた。


「は、ハンナさん?」


 それぞれのバッグが足元に落ちる。

 玄関の中はいまだ暗く、ドアにはめられた小窓から外灯の明かりだけが月の光のように差し込んでいた。


「あの。さっきのは、なんなんです? 私を……煽ってたんですか」

「えっ」


 彼女の端正な顔が、若草色の瞳が近づいてくる。

 わたしは、息をするのを忘れてしまった。

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