第17話 返却

「いらっしゃいませ~」


 翌日、私はまた喫茶「オリーブ」にやってきた。

 結局ハンカチは見つからなかった。いったいどこへ行ってしまったのか。気分が落ち込む。ペンダントも、勿忘草のハンカチも行方知れずになってしまうなんて。


 入り口から店内を見ると、いつもの場所に「彼女」がいた。

 来て、くれたんだ……。

 それだけがまだ救いだった。

 彼女は窓の外を見つめていた。東口の公園の桜は、昨夜の風で花弁がかなり散ってしまっていた。物憂げな表情をしている彼女に、私は努めて明るく声をかける。


「こんにちは。昨日は、バタバタしてすみませんでした」


 いつもとは違う第一声。

 しかし、「彼女」が私に向ける目つきは変わらなかった。


「隣、いいですか?」

「……」


 おそるおそる、いつもの問いかけもする。

 彼女は黙って首を振った。

 まだ、か。まだ私に心を許してはくれない、か……。仕方なく、また一つ席を開けた場所に座る。


「昨日、これ、忘れてましたよ」


 その私の背に、思わぬ声がかけられた。振り向くと、あのハンカチが差し出されていた。白地に青い小花が描かれた、それはまさしく蛍からもらったハンカチだった。


「あ、それ! 私のです。ありがとうございます!」


 まさか見つかるなんて。私は大喜びでそれを受け取った。

 ああ、ああ、良かった。

 このハンカチがまた手元に戻ってきた。私はそれをしっかりと握りしめた。


「ずっと探していたんです。お店に忘れたかもと思ったけど、店員さんには届いてませんって言われてたし、ああ良かった!」


 この人が拾ってくれていたんだろうか。

 やはり昨日、この店に来たときに落としたんだ。

 でも、なんとなくだけどハンカチが綺麗になっている……気がする。もしかして、洗濯してくれた?


 どうして。

 どうして。

 どうして。


 聞きたかったけれど、うまく言葉にならなかった。


「そんなに大事なものだったんですか?」


 そう尋ねられて、私は少し恥ずかしくなった。

 そんなにあわてて見えていただろうか。たしかに、必死だったけれども。


「はい。大切な人からもらったものでしたので」


 事実だったので正直に言う。これは必死になるに値するものだった。無くしてはならない大切なものだったのだ、と。 

 そう言うと、彼女は急に謝罪してきた。


「ごめんなさい」

「え?」

「わたしが持って帰ってしまったから、辛い思いをさせました」

「そんな! ちゃんと返してくれたじゃないですか。それにあなた以外の人がもし拾っていたら、こうして私の手元には戻ってこなかったかもしれないんですよ。だから、感謝こそすれ、責めたりなんてしません」


 本当にそうだ。彼女がこうして返してくれなければ、ずっとなくしたままだったのだ。だから気に病む必要なんてまったくない。それなのに、女性はずっと申し訳なさそうにしていた。

 うーん、どうしよう。

 私はハンカチをバッグにしまうと、あるいいことを思いついた。


「そうだ、今日は何を注文されるご予定ですか?」

「え?」

「今日食べようとしてるメニューですよ」

「ええと……カツサンドを」

「じゃあ、今日はそれおごります。今までご迷惑かけていたお詫びと、ハンカチのお礼に」

「はっ? いやいやいや!」


 彼女は目に見えて動揺していた。

 でも私は構わずにカツサンドを二つ注文する。


「あ、ああ……」

「ふふっ、どんな味か楽しみですね」


 これで少しは罪悪感を抱かないでいてくれるといいんだけど。

 私は料理ができあがるまで、静かに窓の外を眺めていた。


「あの……なんでいつもわたしに話しかけてくるんですか?」


 私からは無理に話しかけないようにしていたのに。

 今日はどうしたことだろう。彼女の方から話しかけてくれた。そのことに、若干驚いている自分がいる。


「わたし以外にも、気に入った人に連絡先を渡してるって言ってましたよね? なら、わたし以外の人とお昼を食べたほうがいいんじゃないですか? なんで、毎日……わたしに関わってくるんですか」

「え? 気になりますか?」


 良かった。

 気にしてくれた。

 私はこらえることのできない喜びを全身で感じていた。ようやく、ようやくだ。こうして気にしてくれたなら、これから会話の糸口もきっと増えることだろう。

 どうして毎日ここへ通っているのか?


「ここが職場から一番近い食事処だっていうのもありますけど……あなたはほぼ毎日ここにいらっしゃるでしょう? どうせなら、よく顔を合わす人とお近づきになりたいな、と思いまして」

「……」

「それだけじゃないですよ。他の理由も聞きたいですか?」


 慎重に相手の反応を見る。

 よし。興味が……ないわけではない。そういう目をしている。私はすばやく彼女の隣の席へ移動した。じろりと睨まれるが、引かない。深い内容を話すなら物理的にもお近づきにならなければ。


「あなたが、とても魅力的だったのもあります」

「は?」

「嘘だと思いますか? あなたは、ご自分の魅力に全然気づいておられないのですね」


 意味が分からない、といった表情をしていた。

 本当だ。蛍には遠く及ばないが、彼女には彼女の魅力がある。

 小動物のように警戒心の強いところ。この喫茶店に足しげく通い、少しでも美味しいものを食べようとしているところ。落し物をちゃんと律儀に持ち主に返すところ、そして――。


「その本。読んでいるときのあなた、とても知的で素敵でした。サピオセクシャルってご存じですか? わたし、そういう頭の良さそうな人間に惹かれるんです」

「え、いや……」


 これも本当だ。

 私は知的な人間に弱い。蛍も英語の習得にはなみなみならぬ熱意を向けていた。いずれは海外で活躍したいと、留学を視野に入れていたくらいなのだ。

 目の前の女性はいつもそばに本を置いていた。今日び、本を読む人間は少なくなっている。それだけでも、彼女がどれほど文学を愛しているかがわかる。


「何か、勘違いなさってるようですけど、わたしそんな知的を売りにしてる人間じゃないですよ?」

「そうですか? いまやスマホの画面を見る人の方が圧倒的に多いです。別にスマホを見る人=頭が良くない人、とは言いませんが、それでも本を読む人の方がわたしは知的だと感じます。作者と読者、それぞれ、個人対個人に誠実に向き合う、その姿勢がクレバーだと思います」

「はあ……」


 彼女にとっては「本を読む」ということがもはや日常となっていて、そのすごさ、すばらしさがわからなくなっているのだろう。それは、彼女が彼女自身の魅力に気づいていないこととよく似ていた。


「それに……」

「それに?」


 私はカウンターに片手で頬杖をつきながら、相手をじっと見た。


「見た目がすごく好み、だったんですよね。一目惚れ……ってやつですかね」

「は? 一目惚れ?」


 これは嘘だ。

 私は黒髪ストレートの女性が好きだった。でも目の前の彼女は、緩やかなウェーブのかかった髪を濃いブラウンに染めている。小柄な体型は好みだったけど、蛍に比べて少し顔があっさりしすぎてもいる気がした。

 割と面食いなのだ、私は。


「あなた……女性が好きな人、なんですか?」

「はい」


 そこから? と思ったけれど、隠してもしょうがないのであっさり認めることにした。


「すみません。本当に好みの女性だったので、何度も話しかけちゃいました。はは」


 そもそも目の前の彼女が異性愛者だったら、こんなふうにストレートに口説いても意味はない。

 まれに異性愛者でも、同性からまっすぐな愛情を向けられると応じてくれる場合もある。だから望みがないわけではないのだけれど。


「ええと……別にわたしはそういうのに偏見はないですけど、止めた方がいいですよ、そういうナンパみたいなことは」


 驚いた。偏見がない、というだけでも御の字だ。これはもしかするともしかするかもしれない。

 まあ、ナンパが印象悪いのは私も同感だ。


「でもこうでもしないと、社会人って出会いがなくないですか?」

「知りませんよそんなこと」


 ずばりと切られてしまった。

 女性は私から視線を外して、窓の外を見る。桜を見ているのだろう。


「時折、そうやって物憂げな表情をされますよね」

「え?」


 私はかねてからその表情が気になっていた。ついでにもう少し突っ込んで訊いてみるか。


「桜の季節が好きじゃないって……おっしゃってましたが、何か嫌な思い出でもあるんですか?」

「……」

「私は、あるんですよねえ」


 そう、嫌な思い出。

 この女性にもあるのだろうか。忘れたくない、忘れたくても忘れられない、悲しく苦い記憶が。


「このハンカチをくれた子が、ちょうど桜の季節に亡くなったんですよね」

「えっ……」


 話しても、いいだろうか。

 かつての恋人だった、蛍の話を。

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