第18話 私の元恋人
「そのハンカチをくれた、亡くなられた人って……」
「ええ。私の、元恋人でした。英会話教室でかつて私が受け持っていた生徒さんだったんですけどね」
赤の他人に蛍のことを話すのは、これが初めてだった。
涼や早苗ちゃんには話したことがあった。でもそれは、もともと彼らが友人で蛍とも面識があったからだ。
目の前の彼女は、そうじゃない。だから少し緊張した。
彼女は、私が付き合っていたのが職場の生徒だということに若干引いているようだった。
「あ、もちろん、職場では付き合ってませんでしたよ。でも意気投合して、職場以外でも会うようになって、そのまま……。彼女は五年前に希少がんにかかってしまって。あっという間でした……」
五年前。
この桜が満開の季節に、蛍は逝ってしまった。この話をするのは今でも辛い。でも、目の前の彼女はそんな私の心情を慮ってくれているのか、同じように辛そうな表情をしてくれている。
やはり、優しい人なんだな。
そう思ったら、図らずも胸に甘い痛みが広がった。
え、なに。なんだ、これ。
「お待たせいたしました~」
そのとき、ちょうど早苗ちゃんが二人分のカツサンドを運んできた。
私と彼女の前にトレーがそれぞれ置かれる。
「あ、じゃあ、さっそくいただきましょうか。うわー。これもすごく美味しそう!」
違う。
そうだ、食べてさっさと忘れよう。
さっきのはきっと何かの間違いだ。
「……いただきます」
「いただきます」
振り払うようにカツサンドに手を伸ばす。
サクサクの衣をまとった分厚いカツが、甘じょっぱいソースをたっぷりと身にまい、やわらかめの食パンにサンドされていた。私は思い切りそこにかぶりつく。
「うーん、美味しい!」
噛むたびに、じゅわっと肉汁やソースがあふれて、口の中で混然一体となった。作っている涼に客席から拍手を送りたくなるほどに美味しい。
「ほんと、ここのお店はどれも美味しいですね。あなたと食べられて、私とっても嬉しいです」
「……」
そう言って笑ってみせると、なんだか女性は急に大人しくなってしまった。
何か思いつめた様子で、胸に手を置いている。
どうしたんだろう。
気になるけれど、相手の食事を邪魔しないように私は黙って食べつづけた。やがて、皿の上は綺麗に空になった。
「はー、ごちそうさまでした! あ、ほんと気にしないでいいですからね。お礼です。お礼ですから。おごるの断らないでくださいね」
私はウエットティッシュで口を拭きながら、おどけた調子でそう言った。私といるときは少しでも楽しい気持ちでいてほしい。彼女はそんな私の顔を見てクスッと笑ってくれた。
「あ、笑顔。初めて見ました。かわいい! ほんとあなたってキュートですよね。ギャップが、たまらないな~」
お世辞だった。
本当にお世辞だったのに。
なぜか言葉通り、笑顔がかわいいと本気で思いそうになっていた。
「あの、あなた本当にわたしに一目惚れしてるんですか? なんか、すっごく嘘くさいんですけど」
「ええっ? そんな、心外だな……本当ですよ。信じられないっていうなら、元恋人の写真も見せますけど」
そう、そうだ。
私は蛍が好きなんだ。彼女を好きになったわけじゃない。たとえそうだとしても、蛍に少し似たところがあるからだ。そうに決まってる。
「はあ? 別に、それとこれ、関係ないでしょ」
「ありますあります。ほら、見て」
私はスマホを操作して、蛍の写真を探した。指が五年前までスクロールする。当然それ以降には一枚もない。そもそも最近はあまり写真自体を撮っていなかったからそれはすぐに見つかる。
自撮りしているので、かなり近い位置に私たちの顔はあった。蛍がまだ元気だった頃の写真だ。
「ね? どことなくあなたに似てません? 小柄で、眼鏡をかけていて、でも女性らしい体形で、知的さがにじみ出てるの」
「はあ……わたしにはよくわかりませんけど。ていうかわたしと似てるってなんですか? 元カノに似てる、だから気に入った? そう言われても全然嬉しくないですよ」
「えっ。そう、ですか? まあ、言われてみればそう、ですね……。すみません」
まあ、そうだ。
元カノと似てる、は別に嬉しい言葉ではない。
ない、けど……。
だってそれだけ好きだったんだ。心の底から愛していたんだ。だから、それを……少しでも知ってほしかった。
この人にはいっさい関係のないことだけど。大切だったことを共有したいと思ってしまった。
「あ、あったあった。ついでにこれも見てください。これは闘病をがんばっていたころの彼女の写真です」
それはこの町の中央病院で撮影したものだった。
病室のベッドに、蛍が半身を起こして座っている。放射線治療で髪が抜けてしまったために、頭に毛糸の帽子をかぶっている。
あの自慢の長い黒髪が。
私も蛍も、それが失われてしまったことをひどく嘆いていた。そんなことを思い出す。
「蛍と言います。治療効果は、けっこうあったんですけどね……」
とても残念な結果だった。
回復する見込みは十分あったのに。その矢先、あの「クラスター」が起きてしまった。
写真を見ていると、急に彼女が何かに気づいたように声をあげる。
「これ……」
「ん? どうしましたか?」
写真の一点を見て、顔色を変えている。
なんだろう、何を見て――。
「ごっ、ごめんなさい。そろそろ昼休憩が終わる時間だから。行きますね」
「えっ?」
カツサンドの最後のひとかけらを急いで食べきった彼女は、二千円をカウンターに出して立ち上がった。
「ちょ、ちょっと! おごるって言ったのにこれ……!」
「おつりは、取っておいてください」
そう言い捨てるとトレーを持って、返却口に返しにいく。
あっという間だった。私が呼び止めても、振り返らずに彼女は店を出て行ってしまった。
なんだろう。
何かものすごくあわてていた。
私はもう一度スマホに表示された写真を見てみる。
病室にいる蛍。その首元には、私がプレゼントしたばかりのペリドットのペンダントがかけられていた。
「これ、か? これを見て彼女は……」
やはり、何かを知っている。
彼女はこれを見て顔色を変えた。だったら、もう一度会ったときに訊かねばならない。
彼女と彼女のペリドットについて。
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