第16話 忘れもの
翌日、涼からまた連絡があった。
「お前、本当いい加減にしろよ。あの常連さん、今日また来てくれたからいいけど……昨日のあれ、マジでヤバいからな。クレームあったら即出禁だぞ」
「いや、泣かすつもりなんかなかったっていうか、なんで泣いてたかもよくわかってないんだって。とにかく、これからまた行くよ」
「マジで気をつけろよ」
昨日も私は、涼からこってりしぼられていた。
でも本当に「彼女」が涙を流していた理由はよくわからないのだ。身に覚えのないことで叱られても反省のしようがない。まあ、からかうようなそぶりは控えて、真摯な対応を心がけようか。
とにかく彼女がまたオリーブに来てくれて良かった。何日もまた会えなかったらどうしようと思っていたから。
私はスマホをしまうと、昨日と同じように職場から「オリーブ」へと急いだ。全速力で走るのは、あまり大の大人がやっていいことではない。持ち物を盗まれたとか、仕事に遅れそうとか、そういうときぐらいに発揮するものだ。じゃないとこうして――。
「うわっ」
段差につまづいて転びそうになる。私はどうにか転倒を回避して、エスカレーターに乗った。
二階のオリーブに到着すると、入り口から例の窓際の席に座る「彼女」が見えた。私はさっそく声をかけにいく。
「すみません。お隣、いいですか?」
彼女はちょうどオムライスを食べようとするところだった。
「なんで、また……」
「嬉しい。今日も会えましたね。あ、昨日なにか体調悪そうでしたけど大丈夫でしたか?」
彼女はスプーンを持ったまま私を見、目を丸くしていた。
目元は赤くなっていなかった。ということは、昨日は号泣していたわけではなさそうだ。今日は――元気でいる。
少し、ホッとした。
彼女に嫌な思いはしてほしくないから。あくまでも私は彼女と仲良くなりたいのだ。私という存在を強く印象付けたい思いはあるが、むやみに傷つけたいわけじゃない。
女性は私から視線を外し、また食事を再開させた。
「あ、今日はオムライスですか。美味しそうですね。私もまたあなたと同じのにしよう。すいませーん」
さっそく注文しようと手を上げる。
しかし、早苗ちゃんに気付かれる前にバッグから音が鳴りだした。電話の着信音だった。
「おっと。職場からだ」
スマホを取り出すと画面に「ノア」の文字。出てみると、ジャスパーからだった。「すぐに戻れ」といきなり言われる。どうやら私の生徒さんの授業料滞納の件みたいだった。把握していたけど、それを事務に報告するのを忘れていた。
「うん、わかったわかった。すぐに戻るよ。はい、それじゃ」
手短に通話を終える。
はあ、今日はここでは食べられないな。すぐに帰らないと……。私は隣にいる「彼女」に顔を寄せると小声でささやいた。
「急に戻らなきゃならなくなりました。残念ですが今日はこれで。あ、明日もまた来ますよね? ではまた明日」
「は?」
約束をする。一方的に。
これでも避けられたらおしまいだけど。でも、明日もここに来てくれたら、少しは私に慣れてくれたのかな、って思えるから。
私は振り向かないで店を出た。テイクアウトのコーナーがちょうど空いていたので、ついでにドーナツを二つ買う。
「急用ですか?」
「うん。残念だけどね。また明日来るよ」
早苗ちゃんにバイバイして職場に戻る。
結果から言うと、事務の人には少し注意されただけで終わった。件の生徒さんはもう三か月も滞納しているので、近々辞めることになるらしい。まあ、ひと月一万円以上するからなあ。
割とお高めの受講料なので、主に通っているのは経済的に裕福な家の人たちだった。それでも、ときおりこうして払えなくなったり、来れなくなったりする家の子がいる。蛍も――。
「あの子は病気で、だったけどね……」
親が病気、で来れなくなる人はいたけれど、生徒本人が病気、というのはめったになかった。一週間休んでまた来るとか、そういう軽い風邪みたいなものとは違う。長期間入院して、病気とだけ戦う、そういう重いやつだ。
勉強も恋も、病と向き合いながら続けていくことは難しい。蛍も、どんどん困難になっていった。そういうのをそばで見ている私も辛かった。
急に目頭が熱くなって、涙が出そうになる。
慌ててハンカチを探す。
「えっ、無い!」
嘘でしょ。
蛍からプレゼントされた、勿忘草の模様のタオルハンカチがなくなっている。
「えっ、どこで……どこで落としたの?」
あ、さっきの喫茶店だ。
あそこでスマホを取り出したときに、なにかが一緒に落ちたような気がしてたんだ。でも他に意識が向いてしまっていて――。
ああ、どうしよう。大事な蛍の形見なのに。
もうオリーブに戻って探している時間はなかった。買ってきたドーナツを食べて午後の授業に備えなくてはならない。一応涼に電話はしてみた。でも店内にそうした忘れ物は落ちていなかったらしい。
ああ、どうしよう。喫茶店じゃなかったのかな。
駅に行くまでの道で、落としたのかも。
ハンカチのことがずっと心に引っ掛かり続けていて、午後の授業はなかなか集中できなかった。大きなミスはしなかったのだけど、小さなミスをけっこう連発してしまった。生徒さんたちからは心配されてしまうし、もう散々だった。
「はあ……なにやってるんだろう、私」
蛍にあげたペンダントを探そうとして、蛍からもらったハンカチをなくしてしまった。
仕事が終わり、暗い夜道をしらみつぶしに見て回る。
でも、どこにもなかった。
駅の交番に寄ってみても、ハンカチの落し物は届いていなかった。
ねえ、蛍。どうしたらいいんだろう。ごめんね。無くしてしまって。
東口から見える公園では、夜桜が月にうっすら照らされて幻想的に風に揺れていた。
私のいる場所にも小さな花弁が舞い落ちてくる。
桜なんて嫌いだ。
今は、あのハンカチに描かれた勿忘草の青が恋しかった。
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