放してはいけないよ
私はこの町に引っ越してきた。
小学生の私には、どれもこれもが目新しく、最初こそ田舎に行くことを嫌がっていたが、そんな気持ちもすぐになくなった。
小学生になりたての妹も私と同じだった。
私たちは、すぐに仲良くなった近所の友達と山や川、海に出かけて、色んな遊びを教えてもらった。
楽しい日々だった。
ある日、妹が母親に怒られていた。
妹は要領が良い方だと思うし、実際、私がやると怒られることも妹だと許されることも多かった。
そのことには一定の不公平感を感じていたけれど、さして妹に嫉妬も羨望もなかった。
姉妹仲は昔から良い方だったし、妹が「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と後ろをついてくる姿は、純粋に嬉しかったし、可愛かった。
だからいつもならば、怒られている妹に、それとなく助け舟を出してあげるのだが、その日は父親と外に出る約束をしていて、それができなかった。
涙をポロポロと流しながらこちらを見る妹に、私はお土産を買ってくるからとこっそり耳打ちをして父親と外に出た。
振り返ると、妹は涙を目にためて不安そうな表情をしていた。
私はこの時の妹の表情を一生忘れられない。
あの日から数十年が経った今でも。
私が父親と用事を終え、家に帰ってきた。
私の手には妹の大好きなお菓子と、お揃いで買ったキラキラのキーホルダー。
父親と笑い合いながら家に入ると、にこやかに出迎えてくれた母が瞬間に訝しそうな表情になる。
そして言った。
「あの子は?」
母親が何を言っているのか、わからなかった。
あの子、と言っているのが誰のことなのかも。
けれど不意に強い不安に襲われ、私は急いで家の中を見回す。
妹がいない。
どの部屋にも、廊下にも、よく隠れている押し入れにも。
今度は私が、慟哭と絶叫が入り交じる声で、動揺の色を隠せずにいる母親を責めるように問う。
「あの子はどこに行ったの!?」
私の声に、母親の隣りにいた父親の顔色もさっと変わる。
母親は、動揺するだけして、半狂乱になった後、放心状態になっていた。
ぽつりぽつりと母親が語ったのは、現実的にあり得ない、信じられないことだった。
母親は言った。
「お父さんとあなたが、あの子を連れて行ったんじゃない。あまりに泣いているから、少し外で散歩させてくるって」
「いつだ?」
「さっきよ?つい……三十分前くらい」
「はっ?私たち今帰ってきたんだよ?」
その後も母親に問いただしてみると、母親は私たちが用事で外に出ていたことも、とんと忘れていたと言った。
ただ、いつもように父親と私が妹を連れて外に出たのだと。
母親は怒っていたのもあって、家に残ったのだと言った。
しかし実際聞いたのは声だけ、見たのは後ろ姿だけで、母親自身、きちんと私や父親の姿を見たわけじゃなかったらしい。
しかし母親は、たしかにあの声は父親の声だったし後ろ姿も私たちのものだった、着ている服まで同じだったと言った。
母親は叫ぶようにそう言うと、また狂ったように妹の名前を繰り返し叫びながら、駆け出していってしまった。
父親は、近所の人達にも声をかけて、みんなで妹の捜索をしてくれるようだった。
私は友達と友達のお母さんと家で待っていた。
遠くで近くで、妹の名を呼ぶ声が聞こえていた。
友達が、自身のお母さんにぽそりと小さい声でたずねた。
「***様に連れて行かれちゃったのかな?」
「しっ!!滅多なこと言わないで!」
友達のお母さんが友達に注意しているのを聞いて私が二人に尋ねた。
その時、私は初めて***様も決まりについて聞いたんだ。
私たちが知らないことを、友達も友達のお母さんも驚いていた。
この町では当たり前で、よそでも当たり前のことだと思っていたそうだ。
初めて聞く***様のことを私は混乱する頭で考えた。
そして、友達たちから離れて、暗い部屋の中、泣きながら懇願した。
見たこともない、顔も知らない、妹を連れて行ったかもしれない相手に。
何度も何度も、祈るように請うように。
「あの子を返してください!!私の妹を!!これからは絶対に離れませんから!!お願いします!!」
何度も何度も。
「お菓子もおもちゃも全部あげるから!!お手伝いもするし、もっといい子になるから!!」
何度も何度も、何度も何度も。
「これからもお姉ちゃんでいさせてくださいっ!」
その時、一瞬、暗い部屋の中がさらに暗くなった気がした。
そして一言。
「決して放してはいけないよ」
私の頭上から女性とも男性とも、子供か大人かもわからない声がした。
驚いて前を見ると、そこには誰も立っていなくて、ただ私の足元で妹の寝息だけが聞こえていた。
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