第2話 WWⅠ:ブルール・ル・メリット

WWⅠ:ブルール・ル・メリット



 一九一八年一〇月、第一次世界大戦。

 戦争も終局へと近づいていた頃、フランス北東部において、ドイツ軍狙撃手ラルス・レマルクは毎日のように塹壕から顔を出し、イギリス軍将校を狩っていた。それに対しイギリス軍は、エリート狙撃部隊である「ラヴァット斥候隊」の狙撃手達をレマルクの元へと送り込む。レマルクは自分を殺すために派兵されて来た精鋭狙撃手達を返り討ちにするため、相棒と共に塹壕間での熾烈な狙撃戦を展開する。
















一九一八年一〇月、フランス北東部、ヴェルメル村。


 塹壕内には常に死臭が漂っていた。

 まだ生き残っている者達に対しても、シラミとダニがその活力を奪おうとする。その感触を肌で感じながら、ラルス・レマルク上等兵は四〇〇メートル先にあるイギリス軍の塹壕をスコープで注視していた。

「諜報将校だ、狙え」

 レマルクの隣で、ローゼ・ディックハウト一等兵が呟く。

 二人は今、自軍の浅い連絡壕から顔を出し、お互いの得物を敵陣に向けて構えていた。軍から支給されたゲヴェーア98ライフル。装弾数は五発。

 レマルクはディックハウトの指示に従い、三倍率スコープの中で動く目標に集中する。狙撃手の周囲に漂う臭いはきつく、昼間でも風が少し寒い。それでも優秀なドイツ軍狙撃手は、独自の呼吸法によって照準を安定させる。

 そして、狙撃手はライフルのトリガーを絞った。

 レマルクの肩には心地良い反動と、耳には独特の「ガァン」という銃声が届いた。その後に続く動物を鞭で打つような銃声が、前方にある敵陣へと響いていく。

「トート(死んだ)」

 ディックハウトの報告を聞いて、レマルクは反動で動いてしまったスコープをもう一度目標の居た位置に合わせてみた。盛り土から突き出ていたイギリス人将校の頭は、既に見えなくなっていた。

 代わりに五、六人の新手がレマルク達の居る塹壕に向けて撃ち返してきた。

「ラルス、もう行こう」

 塹壕内に戻ったディックハウトに服を掴まれ、レマルクも後に続いた。


 ◆


 戦車や戦闘機、そして化学兵器などの新兵器が登場し、これまでとは違う新しい戦場が生まれた第一次世界大戦。

 一九一四年から一九一八年まで続いたこの最初の世界大戦において、狙撃兵はそれら新兵器のように、戦場に現れた珍しい存在の一つ——それ以前は、狙撃兵では無く「射撃の名手(シャープシューター)」と呼ばれていた——に過ぎなかった。

 しかし、それ以前の歴史において、戦術家の中に「戦場において、いつか狙撃兵は無視できない存在となる」と、不本意ながら認める者は既に存在していた。そして、その予想は的中することとなった。


 ◆


「一体、あと何人やられるんだ」

 頭を撃ち抜かれた準大尉の遺体が部下に運ばれていくのを眺めながら、イギリス人将校は双眼鏡を両手に持て余していた。一日で敵の狙撃兵に一〇人以上やられるなど、日常茶飯事だった。

 その疑問に答える代わりに、近くに立っていた二等兵が将校に報告した。

「これで最後ですよ。斥候兵達が来ました」

 将校は、塹壕内でぎゅう詰めになっている兵士達の間を縫いながら、四人の黄土色の軍服を着た隊員達を出迎えた。

 イギリス軍が得意とする戦法の一つは、密集隊形を組むことだった。そして、比較的狭い地域に対し、長時間集中的に激しい砲撃を加えるのだ。

 斥候隊員の一人が敬礼する。

「この班の指揮を担当しています、ロブ・バラット伍長です」

 将校は隊員達に向けて自己紹介した。

「サウス・スタッフォードシャー連隊第七大隊所属のベネット・マクドナルド大尉だ。敵の狙撃手を排除してくれ」

 マクドナルドの言葉に、年若い伍長は力強く頷いた。

「了解しました。一つ質問しても?」

「ああ」

「大尉はボーア戦争での経験がおありですか?」

 マクドナルドはバラットの質問に対し、黙って頷く。

 ボーア戦争は、かつてイギリスとオランダ系ボーア人が、南アフリカの植民地化を巡って争った戦争だった。そして、ボーア戦争での経験がある正規の将校達は、優秀な射手が二人組か小規模な班に分かれ、別々の軍事行動をとれば部隊の規模に限らず、敵軍に対し大きな損害を与えることを知っていた。ボーア人が使用していた「戦場や野外での様々な実践的な技術」である「フィールド・クラフト」は、ボーア人自身が狩猟の合間に学んだものだった。イギリス軍も、この大戦までにはそうしたフィールド・クラフトの経験を身につけた人間、つまりは鹿撃ち猟師(ディア・ストーカー)の将校が多くなっていた。

 恐らく、バラットの知りたいことは、短い間ながらも自分の上官になる男が、果たして狙撃手の使い方を知っているのかどうかということだろう。マクドナルドはそう感じ取っていた。

「それと、ラヴァット卿が『前線の兵士達によろしく』と」

「分かった」

 そう言うと、スコープ付きのショート・マガジン・リー・エンフィールド(SMLE)ライフルを持った隊員達と、マクドナルドは一人ずつ握手をしていく。

 ラヴァット卿は、スコットランド高地地方の貴族出身で、将校だった。彼は紳士な鹿撃ち猟師で、高地地方の私有地で「ラヴァット斥候隊」という連隊を募集していた。その地方では、ボーア人がアフリカ南部の草原で発達させたフィールド・クラフトを、鹿の追跡の際に見事に使用していた。

 しかし、ラヴァット斥候隊の男達は狙撃手に指名された訳では無かった。どちらかと言うと、ボーア人のように高性能の望遠鏡を持って戦場に潜伏し、敵を監視してその動きを理解する監視兵、斥候兵だった。

 それでも、狙撃手及びその教育係としての彼らの価値は充分に認識されている。

 斥候隊は二〇〇名程の規模で、隊員には経験豊富なスコットランドの猟師や、「ギリー」と呼ばれる猟区管理人が多かった。彼らが持つ「ギリー・スーツ」は、偽装術の中でも非常に重要な地位を占めていた。これは長いローブに、頭または顔を隠す布と、全身を隠す植物を取り付けた物だった。元々は、スコットランド北部のハイランド地方の私有猟場で、獲物に忍び寄ったり、密猟者を捕まえたりするのに用いられていた物だった。また彼らは、三年前にフランス北東部の街ベテューヌ近郊に設立されたイギリス軍狙撃学校、「第1陸軍狙撃・監視・偵察(SOS)学校」の生徒の指導を担当することもあった。

「SOSの出は?」

 マクドナルドがそう訊ねると、一人が手を上げた。

「学校では何を習った?」

「ライフルの保管と整備、照準の合わせ方、偽装術、地図の読解です」

「何日間行うんだ?」

「訓練課程は一七日間です」

 マクドナルド大尉は、目の前の男がどれ程の実力を備えているのか知りたかった。

「その他に習ったことは?」

「訓練では、二人一組になり、狙撃役と監視役を定期的に交代するよう指導を受けました」

「何故、交代する必要があるのか教わったか?」

 隊員は即答する。

「はい、敵の塹壕を双眼鏡などで見ていると、短時間でもすぐに疲労が溜まってしまうからだと教わりました。作戦効率を最大限まで高めるために必要なことだとも」

 将校は頷いた。

「存分にやってくれ。敵は四〇〇メートル先の塹壕内に居る狙撃手だ。成功したら、最高司令部に全員分の『VC』を持ってこさせるように言ってやる」

 隊員達は上官の言葉に笑った。

「VC」とは、イギリス連邦で最高の武功勲章である「ヴィクトリア十字勲章クロス」のことだった。


 ◆


 夜が訪れ、レマルクとディックハウトは歩哨から自軍の塹壕へと戻っていた。

 二人は静かに壕の中を進んで行く。すると、二人の帽子上部にある記章の上に、二枚のオークの葉が交叉した特別の記章を見つけた同僚兵士達は、二人のために道をあけ始める。

 狙撃兵は、塹壕内に居る兵士達の間では格上の存在だった。

「飯を食おう」

 ディックハウトは自分の場所に辿り着くと、レマルクの分の食糧も手渡してくれた。二人は灰色の軍服を窮屈そうに折り曲げ、暗い塹壕の中、充分とは言えない食事を始める。肉、ゼリー、パン、ジャムなど種類は多かったが、一口食えば終わりという量だった。それでも、決して満たされることはないが、兵士達にとっては唯一の楽しみだった。

 双方共に無言で食事を終えると、「ローゼ、記録を」と、レマルクが口にする。

 軍から支給されたマニュアルには、「狙撃兵は望遠鏡を使って敵の前線を監視し、その記録と自分の実包の消費量及び狙撃の成果をノートに記すこと」と書かれていた。

「ラルス、俺のことは名字で呼んでくれ」

「幼馴染なのにか?」

「『ローゼ』なんて、女みたいじゃないか」

「まだ気にしているのか? 勝手に言わせておけばいいだろう。俺の階級を気にしないように」

 そう言ってレマルクは、自分達が腰を下ろしている塹壕の先に目を向けた。そこでは二、三人の兵士達がこちらを遠慮がちに眺めていた。

 狙撃兵に配られたマニュアルには、「自己の部隊がある場所だけでなく、価値の高い目標が目に入れば、どこでも自由に移動して良い」と記されていた。それと、「余分な義務が免除される」とも書いてある。これは、一般兵のように退屈な通常業務をする必要は無く、自由に行動する権限が与えられているということだった。また、所属する大隊とは別行動をとるので、自分の判断で活動することができる。無論、こうした特権は大半の兵士には無関係だった。

 多分、向こうの陣営に居る狙撃兵達も、同じように同僚の兵士達から一目置かれているのだろうと、レマルクは考えていた。ただ、それが好意によるものなのか、それとも妬みによるものなのか、レマルクは分からなかった。

 自分の肩に乗ってきた害虫を手で払い落しながら、ディックハウトが親友に言った。「お前は昔から強かったからな……この戦争が終わっても軍隊に残るのか?」

「いや、武装警察に戻る——お前は?」

「俺は早く家族の元に帰りたい。それだけだよ。でも、イギリス兵は何人も狩ったから、『ブルール・ル・メリット』を貰った後に帰るよ」

 冗談っぽくそう言うと、ディックハウトは闇の中で目を凝らしながら、手帳に昼間の出来事を記録し始めた。レマルクもそれにならい、ライフルの整備をする。

 一九一四年に開始されたこの戦争では、連合軍と中央同盟軍が早期に地上戦で決着を付けることができなかったため、戦線が膠着していた。両軍が塹壕を掘って対峙し、消耗戦に移行したのが原因だった。こうして出来た両軍の塹壕戦の間には「中間地帯」が生まれたが、そこは砲弾が地面を抉り、僅かばかりでも侵入したら生きては帰れない場所だった。それはこのフランスでも例外では無く、両軍の兵士はお互いに塹壕に留まった状態が続き、過酷で悲惨な日々を送るはめになった。塹壕内は、刻々と変化する死体の臭いと、底なし沼のような泥、そして害虫達が絶えず襲撃してくる地獄だったからだ。

 そしてその状況の中に、任務を背負った狙撃兵達は自ら進んで足を踏み入れ、目標を仕留め続けた。情報収集を行い、敵の士気をできるだけ削ぎ続けることが、任務の一つだからだ。

 レマルクは、重量約四キログラムのシャルフシュッツェン・ゲヴェーア1898のスコープを布で軽く拭く。

 ドイツは戦前から優れた光学機器を作ることで有名で、この分野では世界一だった。狙撃兵に支給されたライフルには、既に工場出荷時から三倍率以上のスコープが装着されていた。

「ほら、Smk弾だ」

 相棒が手渡してきた実包を、レマルクが受け取る。Smk弾は、歩兵隊に支給されている標準的な実包よりも命中精度が高い物だった。その取扱いマニュアルには次のように書かれていた。

『望遠照準器付きの小銃は、三〇〇メートルまでは非常に命中精度が高い。これは塹壕から塹壕へ射撃を行う時、また特に夕暮れ時あるいは曇りの無い夜間など、通常の武器では充分でない時に、これを使って確かな成果を上げることのできる有能な狙撃兵にのみに支給するものとする——」

 この大戦において、連合軍の歩兵は砲弾や毒ガスなどに対する恐怖と同じく、狙撃兵にも恐れを感じていることだろう。

 レマルクはそう考え、Smk弾の五発クリップを暗闇の中、ライフルに装填した。


 ◆


 その日の朝は、清々しいまでの快晴だった。

 二人のドイツ軍狙撃手は、いつものように浅い連絡壕から顔を出し、数百メートル先の敵の塹壕を監視していた。二人が居るのは前線と前線の間に掘られた塹壕だったので、周囲に味方は居なかった。

「ソルダート(兵士)」

 望遠鏡を持ったディックハウトが、レマルクに小銃を構えるよう指示した。彼の指す方向へスコープを向けると、レマルクは盛り土から突き出た兵士のヘルメットを確かに確認する。

 だが、何かおかしい。レマルクはそう感じた。あんな所で歩哨が一人、ぼうっと何をしているんだ?

 異変に気付いた狙撃兵は、親友の肩を掴んで塹壕に引っ込ませた。

「銃弾が飛んで来るぞ。お前はここから左に行け、俺は右に行く」

 ディックハウトは困惑していた。

「どういうことだ?」

「あれは罠だ。長い棒か何かでヘルメットだけ出して、俺達の攻撃を誘っているんだ。恐らく、他の場所で味方が待機していて、撃った途端に俺達の居場所を特定し、応射してくるつもりだろう」

「ならどうする?」

「陽動だ。お前は一度だけ適当に発砲しろ。そしたら直ぐに伏せろ。その後、俺が仕留める」

「分かった」

 ディックハウトは自分のライフルを掴むと、土を蹴飛ばしながら走って行った。レマルクも塹壕内を素早く移動すると、目ぼしい位置に着く。その後、直ちに射撃体勢に移れるよう、壁から離れてGew98を構えた中腰の姿勢で待機する。レマルクは合図を待つ間、ヘルメットがどの位置で浮いていたか頭の中で反芻していた。

 その時、あの鞭打つような銃声が朝霧に響いた。レマルクは急いで膝を伸ばす。眼前には砲撃で抉られた大地が広がる。スコープを覗いてヘルメットを探すが見当たらない。そのかわり、ディックハウトが撃ったであろう位置にライフルを向けているイギリス軍兵士を一人発見する。レマルクは躊躇無く、その人物の頭を狙って引き金を絞った。

 再び銃声が鳴った。レマルクは目標が倒れたか確認するまでも無く、身を隠す。今度は別の銃声が響いた。先程までレマルクが腕を乗せていた盛り土が僅かばかり削られ、レマルク自身に降り注ぐ。

 この時点で敵は三人以上だ、レマルクは確信した。この周辺は狙撃の格好の場になっているから、誰も歩哨に立ちたがらない。敵が正確にこちらを狙ってきた腕前から見て、相手も恐らく狙撃手だろう。それも、少人数の班で攻撃を仕掛けている。

 このまま押し切ろうか、レマルクは判断に迷っていた。ディックハウトは無事なのか、それも分からない。

 すると、また鞭打ちの音が鳴った。レマルクは一瞬だけ塹壕から顔を出す。その間、イギリス軍側の塹壕で何かが倒れるのが確認できた。

 やはり殲滅するつもりか、レマルクはディックハウトに対し、僅かばかりの対抗心が芽生え始めていた。ドイツ軍のエリート狙撃手は塹壕をさらに進みながら、小銃の遊底を操って次弾を装填する。そして、息を整えてから盛り土の上でライフルを構えた。スコープから右目を六センチ離して、敵塹壕の様子を窺う。瞬間、別のイギリス軍陣地で銃口の煌めきが現れた。狙われているのはディックハウトの方だった。

 レマルクは塹壕内に身を落とし、相手の「抵抗巣」からの攻撃にどう対処するか考える。

 抵抗巣とは陣地の一種で、周囲を厚い鉄板で覆い、敵に向いた側に銃眼を開け、後ろには光がもれて位置が分かることの無いようカーテンを吊るしたものだった。

 やはり銃眼の隙間を狙うしかないな、レマルクは自身の帽子を外し、再び塹壕の中を移動した。適当に離れた位置の盛り土に、射手が分からないよう帽子を置く。そうして、また別の位置に身を隠し、慎重に三〇〇メートル程先の抵抗巣に目を向けた。

 偽の銃眼だったら終わりだ、ライフルを構え、レマルクはその時を待った。


(ここからは本編でお楽しみください)

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無名の狙撃手達 SaitoDaichi ミリタリー作家 @SaitoDaichi

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