無名の狙撃手達

SaitoDaichi ミリタリー作家

第1話 WWⅠ:アブドゥル

目次


WWⅠ:アブドゥル


WWⅠ:ブルール・ル・メリット


WWⅡ:ターラミソタ


WWⅡ:スターリングラード


WWⅡ:沖縄


CW:抗美援朝


MW:極東の空挺大隊戦闘群


主要参考文献


















WWⅠ:アブドゥル



 一九一五年八月、第一次世界大戦。

 トルコ領ガリポリ半島の平原にて、オスマン帝国軍狙撃手のダーマード・セネルは一人でオークの木の根元に隠れ、連合軍兵士を倒し続けていた。すると、それに対抗するように連合軍はある一人のスナイパーをセネルにぶつけてくる。セネルは自分の持ち場と戦線を維持するため、敵の狙撃手と一対一の対決に挑む。

















一九一五年八月。トルコ領ガリポリ半島、平原。


 この地域特有の成長の止まったオークの木は、背丈が低い上に密集して育つことで知られていた。

 その木の下でうつ伏せの状態になって身を隠していたダーマード・セネル一等兵は、ANZAC(オーストラリア・ニュージーランド連合軍)の兵士から鹵獲(ろかく)したライフルを手に、伏射の姿勢を維持していた。

 イギリスが開発したリー・エンフィールド・ライフルだった。鹵獲とは、敵から奪い取ることだ。軍服の上から羽織った植物の偽装のせいで、セネルは自身の身体が汗まみれになっていることが分かった。

 暑さ対策のため、事前に軍服の背にいくつかの小さな穴を空けていたが、ほとんど無駄だった。

 セネルはそう感じながら、前方五〇〇メートル先をスコープ越しに見つめる。

 そこには、ANZACが設けた堅固な塹壕陣地があった。時折、スコープの中でオーストラリア軍の軽騎兵が被っているつば広の帽子がちらちらと見える。自軍陣地の盛り土から顔を出して、周囲を偵察しているようだ。

 しかし、撃つのはまだ早い。狙うは敵の将校だ。

 セネルはそのために、五日前からこの場所に潜伏していた。上官からの命令を受け、顔を緑に塗って待ち伏せし、充分な量の実包と水と食糧を持ち込んでいた。周囲では頻繁に銃声が鳴っているため、将校が見える前に何人かの敵兵を射殺しても全く気付かれなかった。この地域は内陸に進むほど深い森を作っており、狙撃兵が身を隠すには絶好の場所だったのだ。

 その時、セネルのスコープの中に妙な兵士が現れた。髪の毛が雪のように白く、その上、白いシャツを着た少年の兵士だった。その隣には、呑気にパイプを吹かしている兵士が立っている。どちらもこの五日間見たことの無い兵士達だった。

 恐らく、新入りだろう。

 セネルはスコープのクロスヘアをパイプの方に合わせ、呼吸を整え始める。トリガーに指を掛け、深呼吸を二回行い、身体中の血液に酸素を行き渡らせようとする。酸素が行き渡らないと、筋肉が緊張してライフルをぐらつかせることになるからだ。

 その後、大きく息を吸い込んでゆっくりと吐き出す。どこからか銃声が聞こえてきた。吐き出し終わると、今度は一〇秒間静かに呼吸を止める。その間にトリガーの遊びを引く。そして、クロスヘアが目標上で安定する。

 瞬間、セネルはトリガーをしっかりと、後ろへと真っ直ぐ絞った。

「バガン」という銃声が轟いた後、セネルはスコープでパイプの男を確認する。しかし、塹壕内に倒れたせいか、セネルの目で男が死んだかは確認できなかった。それでも、隣人である白髪の少年の表情が恐怖に染まっているのを見る限り、多分、命中したのだろうと考えた。その間も、少年は何かに身体を支配されてしまっているように、その場から一歩も動けずに居た。セネルが狙撃を行う直前から、彼の周辺では動物に鞭打つような銃声が何発も響いていた。

 今、セネルが少年を撃ったところで、セネル自身の居場所がANZACに露呈する心配は無いだろう。

 狙撃手はボルトを引き、排莢したカートリッジケースを回収した後、次弾を装填して照準を少年に合わせた。しかしそこで、スコープに映る少年の顔が今にも泣きそうになっているのが見え、セネルは十字線を目標から外した。白髪の少年は、その表情のままパイプ男の死体を担ぎ上げ、その場から立ち去って行った。

 その日、セネルがそれ以上敵兵を撃つことは無かった。


 ◆


 一九一五年四月の春。イギリス、フランス、オーストラリア、ニュージーランドの各軍は、トルコ領のガリポリ半島に上陸した。

 ガリポリ半島は、ヨーロッパとアジアを分けるダーダネルス海峡に面しており、ここに上陸することで連合海軍が海峡を突破するのを支援する意味を持っていた。また、トルコの首都イスタンブールを脅かす狙いがあった。

 しかし、ガリポリ半島は連合軍にとって敵地でもあった。オスマン・トルコはドイツと同盟を結んでいたからだ。トルコは周辺国を盛んに侵略していた。

 それでも連合軍の司令官達は、ガリポリ上陸作戦が成功すれば、トルコは和平を請うだろうと考えていた。そうなれば、劣勢に立たされているロシアに対し、黒海を経由して補給ルートを開くことができると考えたのである。

 こうして、膠着状態にある西部戦線から遥か数千キロ。近くに古代都市トロイの遺跡がある東の地で、陸海空軍を集めた上陸作戦としては世界初となる熾烈な戦いが発生していた。


 ◆


 朝日が昇り、軽い食事を終えると、セネルは周囲の状況の確認を始めた。

 昨日より横風が強い。この状況では伏射する時に、地面から生えた植物がスコープの視界を遮ってしまう恐れがある。

 一人平原の隅に隠れているセネルは、エンフィールド・ライフルを両腕で抱える。そして、茂みの方まで高姿勢匍匐前進で移動する。高姿勢匍匐は、赤ちゃんのハイハイとほとんど同じ要領で、膝と肘を支点に前進していく戦術移動方法だ。

 セネルはそのまま植物の密生地帯に辿り着くと、カンバスで包んで隠しておいた別のライフルを手にした。ドイツ軍から支給されたモーゼル・ライフルだ。こちらの方が使用する弾の口径が大きいため、風の影響を受けにくかった。

 セネルはモーゼル・ライフルに五発入りクリップを装填し、イギリス製ライフルの背負い紐を肩に掛け、持ち場に戻ろうとする。

 その時、前方一五〇メートル先の藪が不自然に揺れた。セネルはすぐさまその場に伏せ、身の回りの環境に集中する。

 鳥の鳴き声、草木の乱れ、何者かが大地を踏みしめていないか……。

 セネルは腰の丈ほどの雑草群から慎重に顔を上げて、前方の状況を確認した。今のところは何も変化が無かった。偽装に使っていたオークの木まで、残り二〇メートル足らずだ。

 セネルはもう一度伏せて、ライフルを構えながら中腰の姿勢で進んだ。小銃のアイアンサイトを覗きながら、オークの木へゆっくりと近付いて行く。

 残り一〇メートル。

 瞬間、手にしていたドイツ製ライフルが砕け散った。銃身が収められていた部分が吹き飛び、セネルの軍服の袖が切り裂かれる。セネルは自身の右肩に熱を感じ、それを左手で押さえながら草原に倒れた。あたりには鞭で打たれたような銃声がこだましている。

 右肩を確認すると、撃たれた訳では無いようだった。破れた部分から赤く腫れた素肌が露出している。

 多分、敵の銃弾は皮膚を掠めて飛んで行ったのだと、セネルは安心した。そしてすぐさまエンフィールド・ライフルを取り出し、その場から高姿勢匍匐で移動する。腫れた皮膚がヒリヒリと痛んだが、その間も敵からの攻撃に対し警戒を怠らなかった。

 トルコの狙撃兵は別のオークの木に背中を預けると、小銃に実包が込められていることを確認し、装着されているスコープを使わずに敵狙撃兵を探すことにした。目標との距離が一〇〇メートル近いこの状況では、スコープを使用することで逆に自らの視界を狭くしてしまう欠点がある。

 樹木を盾にしながらセネルは、向こうの出方を窺うことにした。

 周りが夕暮れに包まれる中、セネルは風の音を聞きながらじっと耐えていた。

 長時間同じ場所に留まっていると、いい加減飛び出したくなる衝動に駆られる。しかし、その突発的な行動が命取りになる。この沈黙の中でセネルは、敵が迂回して来ないか、ただそれだけが心配だった。

 あと三〇分も経てば日も落ちて、一帯は闇になる。そうなればいくら銃の性能が良かろうと、頼りになるのは自身の夜目しかない。

 仕掛けるなら今しかない。

 セネルは地上から生えた植物の海に身を落とし、今度は低姿勢匍匐前進で木の裏から脱出した。低姿勢匍匐は、地面に腹這いになり、銃のスリング・スイベル——負い紐(スリング)を通す環状の金具——の真下を利き手で掴み、被筒部を逆の手の前腕に沿うように載せて匍匐前進する戦術移動だった。

 セネルは草むらのジャングルを突破しつつ、しばらく身を潜めていた木の裏から弧を描くように移動する。

 そして八〇メートル程進み、顔を上げた。

 セネルが怪しいと思っていたポイントには何の異変も無かった。あるのは自分が隠れていた木と同じ、オークの木だった。セネルはライフルの銃口を木の裏に向けながら、慎重に回り込むと、そこには誰も居なかった。

 おかしい。この平原で隠れられる場所と言えば、この木の根元か裏しかない。

 訝しんだその時、セネルはあることに気が付き、小銃を自分が隠れていた木の方向に向けた。案の定、そこにはANZACの狙撃兵と思しき人間が、セネルの痕跡を見つけようと努力していた。

 片膝を立てた状態でセネルは、男の頭部に向けて小銃の引き金を絞った。

 確かな反動を受け止めた後、銃声が鳴り響く。

 狙撃手は自分が倒した相手を確認するため、ボルトを引いて次弾を装填しながら、静かに歩を進める。敵に反撃の機会を与えないため、二〇メートル程進んだら立ち止まって様子を窺うといった行為を挟みながら、セネルは敵の正体を見極めに行った。

 射殺した相手は、セネルが昨日見た白髪の少年だった。

 弾頭は、彼の頭の上部に着弾したようだった。

 頭蓋骨の上部と脳味噌がまるまる無くなり、脊髄の端が丸見えの状態になっている。割れた頭蓋骨からは青い血管がぶらぶらと垂れ下がり、眼球が飛び出して神経が剥き出しになっていた。

 セネルはその衝撃に怯え、直ぐにその光景から目を離した。

 自分が殺した相手が、この少年にとって親友だったのかどうか、セネルには何も分からなかった。しかしセネルは、「仕方なかった」、「やるしかなかったんだ」と、平原の隅で自分を必死に正当化し続けた。

 最終的に、連合軍は戦死者四万六千人を含む二五万人もの死傷者を出して、オスマン帝国軍に敗北した。

 その後、一九一六年一月、連合軍はガリポリ半島から完全に撤退した。

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