プール掃除②

 作業を再開してしばらくすると、プール内はかなり綺麗になった。


 そのタイミングで部長が口を開く。


「あと少しってところかな? 二人とも、ちょっと休憩しよっか!」


「おっ、いいですね!」


「私はもう少しだけやっててもいいですか?」


 俺は疲れてきていたので部長の提案に大賛成するが、無藤さんは俺とは対照的な返答だ。さすが仕事熱心な無藤さんだ。


「まあいいけど、ほどほどにね!」


「ありがとうございます」


 無藤さんは部長に軽く頭を下げると、デッキブラシを動かし始める。俺と部長はそんな無藤さんを背にプールサイドに上がり、日陰に座り込む。


「無藤さん、ほんと仕事熱心ですよね」


「うん、むとーちゃんはいつも頑張りすぎなんだよね。今日は暑いから体調悪くしないといいんだけど」


「あー、確かにそうですね。でも、無藤さんなら大丈夫じゃないですか?」


「うーん、そうなのかな……?」


 部長は無藤さんの方を見ながら首を傾げている。無藤さんはハイスペックだから心配いらないと思うんだけどな……。


「そういや、みっきー、喉乾かない?」


「あっ、めっちゃ乾いてます」


「じゃあ、ちょい自販に飲み物買いに行ってくる! みっきー、何がいい? 奢ったげる!」


「え? いいんですか?」


 驚いてそう聞き返すと、部長は「うん!」と言って大きく頷いてくれた。俺はそんな彼女に遠慮なく甘えることにし、「じゃあ、俺はジュース系がいいです」と希望を伝えた。


「りょーかい!」


 部長は俺に可愛らしく敬礼すると、無藤さんの方を見て大声で呼びかける。


「むとーちゃんはなんか飲みたいものあるー?」


「私は大丈夫ですー!」


「えー? じゃあ、うちが飲むやつと同じやつにしちゃうねー!」


 部長は無藤さんの返事を聞く前にすたすたとプールサイドを去っていった。


 俺は部長から無藤さんに視線を移す。無藤さんは少し顔を赤らめ、汗を滴らせながら力強くデッキブラシを動かしていた。無藤さん、いつも頑張っててえらいよなぁ……。一生懸命な無藤さんの姿を見ていると、なぜかわからないが、笑みがこぼれてしまう。


 無藤さんが掃除をしている様子をしばらく眺めていると、不意に「みっきー!」という部長の声がした。


 その直後、頬に冷たい金属のような物が当たる感覚がし、驚いて「うおっ!」という声が出た。


 ばっと横を見ると、そこには右手にアイスコーヒーの缶を持ってにこにこしている部長の姿があった。


「みっきー、むとーちゃんのこと、見てたね〜!」


「え? い、愛おしそう?」


「ふふっ、気付いてない感じか。ほい、みっきーはオレンジジュースね」


 部長は左脇に抱えていたオレンジジュースのペットボトルを渡してくる。


「あ、ありがとうございます」


 感謝を伝えると、部長は「うん!」と嬉しそうに頷いた。そして、彼女は俺から視線を外すと、無藤さんの方を見て大きく手招きをする。


「おーい、むとーちゃんもおいでー!」


 無藤さんは「あ、はい!」という大きな返事をした後、プールサイドに上がってハンカチで汗を拭う。その仕草はなんとなく色っぽくて、俺は少しドキッとしてしまう。


 無藤さんは汗を拭いた後、俺と部長の方に颯爽と近づいてくる。


「ほい、むとーちゃんはうちと同じアイスコーヒー!」


 部長は左手に持っていたアイスコーヒーの缶を無藤さんに渡すと、俺の隣に体育座りをした。


「あ、ありがとうございます」


 無藤さんはそう言って部長に頭を下げると、近くにいる部長の隣には座らずにわざわざ俺の隣に座ってくる。無藤さん、なんで俺の隣に……?


 首を傾げていると、部長が俺と無藤さんの方を見て楽しそうに微笑み、アイスコーヒーの缶を掲げるのが見えた。


「じゃあ、かんぱ〜い!」


「「乾杯」」


 部長と無藤さんと飲み物の容器をくっつけた後、俺は早速オレンジジュースを二口ほど飲む。すると、口の中にほのかな甘味と酸味が広がった後、喉が潤って清々しい気持ちになった。


「……うまいっ!」


 喉が乾いてる分、美味さが倍増してるな。そう思いながら再びペットボトルに口をつけようとするが、俺はその寸前で思わず手を止める。無藤さんがアイスコーヒーの缶を持ったまま、やや険しい顔をしているのが目に入ったからだ。


「あれ? 無藤さん、飲まないの?」


「え? いや、飲みますよ!」


 無藤さんは急いで缶を開け、口元に近づけるが、その状態のまま固まってしまい、一向に飲もうとしない。無藤さん、なんで飲まないんだろう……?


「あれ? むとーちゃん、コーヒー苦手だった?」


 部長がそんな質問をすると、無藤さんは恥ずかしそうに下を向く。


「……えっと……じ、実はそうなんです……」


 ……意外だな。無藤さんはコーヒーが似合うクール美人って感じなのに。


「そなの? ……うち、気が回らなくてごめん!」


 無藤さんは申し訳なさそうな表情をする部長は見ながら胸の前で手を振る。


「い、いえ、苦手なだけで、飲めなくはないので……!」


 無藤さんはそう言った後、アイスコーヒーを一口飲んだ。しかし、その瞬間、顔を歪めて小さく舌を出し、苦そうにする。


 そんな無藤さんを見て、俺はほぼ反射で「俺のと交換する?」と提案する。


「え? えっと、それはちょっと……」


 無藤さんは遠慮しているのか、ぼそぼそと口籠った。俺はそんな無藤さんに「はい、遠慮しないでいいよ」と言って、ペットボトルを押しつける。


「……じゃ、じゃあ、貰いますね」


 無藤さんはなぜかほんのりと頬を赤くしながらそっとペットボトルを受け取った。無藤さん、なんか照れてるような……?


 俺は無藤さんの様子を疑問に思いながら飲み物の交換をすると、すぐにアイスコーヒーを飲み始める。


 心地よい苦みを感じながらごくごくと飲み進めていると、その途中で無藤さんにじっと見つめられているのに気づいた。彼女はなぜか顔を真っ赤にしながら自分の唇にそっと触れていた。……ん? なんなんだろう?


 無藤さんの様子を疑問に思いながらもそのまま飲み進めていると、突然、部長が俺に悪戯っぽい笑みを向けてきた。


「それ、間接キスだね!」


「ぶふっ!」


 部長の衝撃的な一言にびっくりして、飲んでいたコーヒーを吹き出してしまった。俺の体操着はたちまち焦茶色に染まり、俺は急いで体操着を脱ぎ始める。やばいやばい! 体操着にコーヒーが……!


「な、並木先輩、な、何脱いでるんですか!」


 無藤さんのそんな叫び声を聞きながらも、体操着がピンチなので、仕方なくパンツ一丁になる。すると、無藤さんが鋭い言葉をぶつけてくる。


「へ、変態ですっ!」


「だってコーヒーまみれだから! 人を露出狂みたいに言わないで!」


 俺は自分の格好に恥ずかしさを感じながら無藤さんに向かって必死にそう言う。


 無藤さんは両手で顔を覆っていて何も言わないが、指と指の隙間から俺のことをじっと見てきていた。無藤さん、嫌なら見なきゃいいのに……。


「……みっきー、間接キスとか変なこと言ってごめん!」


 心の中で無藤さんにツッコミを入れていると、部長が申し訳なさそうな表情をしながら謝ってきた。


 そんな部長に「……ほんとですよ」と返すと、彼女がさらに申し訳なさそうな表情をするのが見えた。


「ほんとにごめんね! うち、みっきーの体操着とシャツ、洗って返す!」


「え? いや、別にいいですよ……」


「で、でも!」


「……うーん……」


 部長の提案になんとなく気が進まず、そんな唸り声を上げていると、部長はうるうるした目で俺を見つめてくる。そんな目をされたら断れるわけがなく、俺は彼女に「……じゃあ、お願いします」と伝える。


「うん! じゃ、ちょっと今から水洗いだけしちゃうね!」


 部長は明るい笑顔でそう言うと、俺の体操着とシャツを持って近くの手洗い場に向かって歩き始めた。


 遠くなっていく部長の背中を見ていると、不意に無藤さんの小さな独り言が聞こえてくる。


「……洗って返すなんていいなぁ……。……でも、私にはこれが……」


 気になってちらっと無藤さんの方を見ると、彼女がぼーっとした表情をしながらペットボトルの飲み口に口をつけようとしているのが目に入った。


 そんな無藤さんの姿はとても色っぽく、顔が熱くなってくる。しかし、無藤さんからはなぜか目が離すことができない。


 ドキドキしながら無藤さんのことを見ていると、彼女の口がペットボトルの飲み口につこうかというところで、彼女に鋭い視線を向けられてしまった。やばい! 見てたのバレた!


 俺は慌てて無藤さんから目を逸らし、制服に着替えるため、更衣室に向かった。


 着替え終わって、プールサイドに戻ると、さっき無藤さんが座っていた場所には空っぽのペットボトルが置かれていた。む、無藤さん、の、飲んだんだ……。


 無藤さんがオレンジジュースを飲み干したことを知った瞬間、顔が一気に熱くなるのがわかった。


 な、なんかあっついな! ……こ、これは多分、気温のせいだろうな!


 俺は自分を無理やり納得させると、プールに下り、部長と無藤さんと残りの清掃作業を終わらせるのだった。

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