笑顔の実践?
水曜日の放課後、部室の扉を開けると、中にはすでに無藤さんがいた。彼女は俺に気づくと、椅子に座ったまま俺の方に体を向けてくる。
「並木先輩、早速、先週部長が言っていたのを試しましょう」
無藤さんは珍しく挨拶もせず、いきなりそう声をかけてきた。
「……えっと、相手を小さい子だと思えば上手く笑えるかもってやつ……?」
無藤さんの発言を手がかりに記憶を辿りながらそう尋ねる。すると、彼女は首を縦に振り、淡々とした口調で話し始める。
「はい。じゃあ、私を小さい子だと思いながら話しかけてみてください」
「え……? 話しかけるのは要らなくない?」
「実践形式の方がいいと思いますが?」
「あー、そうなの?」
うーん、難しそうだな……。そう思いつつ椅子に座る無藤さんに正対すると、彼女はどこか期待するような眼差しを向けてくる。
そんな無藤さんの様子を疑問に思いつつ、彼女を小さい子だと思い込むため、心の中で「目の前にいるのは小さい子」と唱えてみる。
しばらくそれを繰り返していると、無藤さんが何かを期待するような表情をしているのもあってか、彼女が目を輝かせている小さい子に見えてきた。
そして、その瞬間、自分の口角が上がっているような感覚がした。……うん、いい感じかも。自然な笑顔ができてるかはわからないけど、このまま話してみよう。
「こんにちは、無藤さん」
何を話したらいいのかわからないので、とりあえずさっきし損ねた挨拶をしてみる。
「…………え、えと、こ、こんにちは」
無藤さんはなぜか頬を赤く染め、もじもじした様子で挨拶を返してきた。あれ? 無藤さん、どうしたんだろう? 俺が笑うと赤くなるのは知ってるけど、なんでもじもじしてるんだ……?
無藤さんの様子がおかしいのは気になるが、とりあえずそのまま会話を続けることにした。
「えっと、今日はいい天気だね」
「…………は、はい、そ、ですね」
赤面状態の無藤さんは、俯きながら消え入るような声でそう言った。そんな彼女の姿は恥ずかしがり屋の小さい子のように見えて、とても可愛いらしい。
無藤さんを可愛らしく思っていると、俺は思わず彼女の頭の上に手を伸ばし、そのまま頭を撫で始めてしまう。
無藤さんのさらさらした髪に掌をくすぐられるような感覚を心地よく思っていると、ふと無藤さんが顔を真っ赤にしているのが見えた。やばい、勝手に触ってた!
「無藤さん、いきなり頭撫でてごめん!」
「………………」
「…………あれ?」
無藤さんに怒鳴られるかと思って身構えたが、彼女はなぜか黙ったまま何も言わない。
「おーい、無藤さーん」
そう言って無藤さんの顔の前で手を振ってみるが、彼女は体を固まらせたまま、まったく動かない。無藤さん、どうしちゃったんだろう……?
——ガラガラッ
首を傾げていると、部室の扉が開き、部長が入ってきた。
「二人ともおまたせ! って、あれ? むとーちゃん、顔真っ赤だけどどしたの? 」
部長は無藤さんの顔を見て不思議そうにそう尋ねた。しかし、無藤さんからの返事はない。部長は「あれ〜?」と言って首を傾げると、俺の顔を見てくる。
「みっきー、むとーちゃんが変なんだけど、なんで?」
「え? ……お、俺が頭を撫でたら、こうなっちゃって……」
「え、頭撫でた? なんでなんで?」
「……え、えっと、相手を小さい子だと思えば上手く笑えるんじゃないかってのを試してたんですが、その時につい」
「……ふーん、そなの?」
部長はどこか疑うような視線を投げかけてくる。本当のことを言っているのに、そんな視線を向けられると少しドキリとしてしまう。
「あ、あー! そ、そうだ部長! 俺が自然に笑えてるか見てもらってもいいですか?」
俺は部長に怪訝な視線を向けられているのがなんとなく気まずくて、彼女にそんな提案をした。
「いいよ!」
明るい笑顔で頷いてくれた部長に正対し、さっきのように「目の前にいるのは小さい子」と自己暗示をしてみる。すると、自分の口角が上がるような感覚がした。……よし、いいぞ。
笑顔になった感覚を覚えていると、部長が俺に微笑み、大きく二回頷くのが見えた。彼女はポケットから素早くスマホを取り出して、すぐさま俺にカメラを向けてくる。
——カシャッ
シャッター音の後、部長はさっとスマホの画面を見せてくる。
「ほい、こんな感じ!」
「…………あ、はい」
部長の素早い動きに唖然としつつそう返事をすると、スマホの画面に目をやる。そこにはやや目尻を下げ、口角を左右対称に上げた俺の顔が映っていた。
「し、自然な感じで笑えてる……!」
「ふふっ。みっきー、よかったね!」
上手く笑えていたことに感動して声を震わせていると、部長が満面の笑みでそんな言葉をかけてくれた。部長、自分のことのように喜んでくれてて優しいな。
「ありがとうございます」
「うんうん! じゃ、今日は学校の周りのお掃除だから行こっか!」
「はい」
「むとーちゃんも行くよー!」
——ガタッ
「あっ、は、はい!」
無藤さんは部長に呼びかけられると、物音を立てながら立ち上がった。その直後、無藤さんと目が合う。しかし、一瞬で目を逸らされてしまった。無藤さん、頭撫でたの相当怒ってるな……。
◇
部長と無藤さんと一緒に校門から出た後、俺は学校周辺の掃除を始めた。
掃除を始めて三十分ほど経った今、俺の
そろそろ塵取りが要るかな……? そう思い、辺りを見渡すと、無藤さんの近くに塵取りが置いてあるのが見えた。俺は彼女の方に歩いていき、声をかける。
「無藤さん、塵取り借りるね」
「あ、は、はいっ!」
無藤さんは俺から不自然に顔を背け、うわずった声で返事をすると、早足で歩いていってしまった。
無藤さん、部室からの移動中も目を合わせてくれなかったんだよな。やっぱ、いきなり頭撫でたの怒ってるんだろうな……。
その後もしばらく掃除を続けていると、学校の塀の曲がり角に差し掛かった。角を曲がると、すぐ目の前に無藤さんがいた。
「あ、無藤さん」
俺が思わずそう呟くと、無藤さんは驚いたような表情をし、素早く反対側を向こうとする。しかし、彼女はその途中で突如体勢を崩してしまう。
「きゃっ!」
「あ、危ない!」
反射的に無藤さんに危険を知らせるが、彼女は片手をついて横に倒れ込んでしまった。
急いで無藤さんのそばに駆け寄ると、彼女が険しい顔をしているのが見えた。どこかを痛めてしまったみたいだ。
「無藤さん、大丈夫? どこか痛めた?」
「っ……! ちょっと右足を捻ってしまいました」
「え? 足捻った……? す、すぐに保健室行こう!」
「いや、大丈夫で……——っ!」
無藤さんは立ち上がろうとするが、途中で顔を歪め、地面に座り込んだ。捻った足がかなり痛むみたいだ。……歩くのは無理そうだな。
「無藤さん、俺がおぶるから保健室行こう」
俺がそう提案すると、無藤さんはびっくりしたような表情をする。
「えっ?」
無藤さんはそんな声を出すと、頬をほんのりと赤くし、恥ずかしそうに少し下を向く。
「…………じゃ、じゃあお願いします」
少し沈黙した後、無藤さんは小さい声でそう言ってきた。俺はそんな彼女に「うん」と返し、しゃがんだまま背中を向ける。
少しして無藤さんがゆっくりと首に手を回してきたのがわかった。俺は彼女の太ももに手を回し、ゆっくりと体を起こす。
その瞬間、一気に顔が熱くなった。両の掌にはややひんやりとした、ほどよい弾力のかたまりが沈み込む感覚があり、後ろからは石鹸のような爽やかな香りが漂ってくるのだ。
おぶると言ったはいいものの、いざやってみると恥ずかしい……。太もも柔らかいし、いい匂いするし。
————って、無藤さんは怪我してるんだから!
俺は首を横に振り、雑念を振り払うと、学校に向かって歩き始めた。
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