笑顔の練習

 水曜日の放課後、部室の扉を開けると、無藤さんの姿が目に入った。彼女は俺に気づくと、いつものように丁寧に頭を下げてくる。


「こんにちは、並木先輩」


「うん、こんにちは」

 

 挨拶の後、椅子に腰掛けると、隣に座る無藤さんが顔をそっと覗いてくる。


「あの、並木先輩。部長が来るまで笑顔の練習でもしませんか?」


「え、笑顔の練習?」


「はい。並木先輩、募金活動の時に全然上手く笑えていませんでしたから。私が見ますので練習しませんか?」


 無藤さんは淡々とした口調でそんな提案をしてきた。笑顔の練習か……。


「うーん……」


 無藤さんの提案には全然気乗りしなくて、思わず唸り声が出てしまう。笑顔の練習なんてそもそも面倒くさいし、人に見られながらやるものじゃないと思う。


 それに、そういうのはいつも無表情の可愛い女の子がやるイメージがある。俺なんかがやってたらサムすぎない?


「やりたくな——」


 無藤さんの提案を拒否しようとした瞬間、彼女に鋭い視線を向けられ、思わず口を閉じてしまった。その直後、彼女は俺にぐいっと顔を近づけ、さらに圧をかけてくる。


「人と接する機会の多いボランティア部員なら笑顔の練習をしておいて損はないと思いますが」


「……わ、わかったよ」


 無藤さんに気圧され、思わず了承してしまった。どうせ強制なら「しませんか?」なんて聞き方しないでほしい。


 それに、なんで俺に笑顔の練習をさせたいのかわからない。もしかしたら、無藤さんが俺の笑顔を見ると赤くなるのと関係してるのかな……?


 そんなことを考えていると、無藤さんは椅子に座ったまま俺の方に体を向けてくる。


「並木先輩、私の方を向いてください」


「あ、はい」


「……じゃあ早速、笑ってみてください」


 俺が無藤さんの方に体を向けると、彼女はそう言ってどことなく期待するような眼差しを向けてくる。無藤さん、なんなんだろう……?


 無藤さんの様子は不思議だけど、とりあえず彼女の指示に従って作り笑いをしてみる。すると、彼女は少し顔を顰め、首を横に振る。


「右の口角しか上がっていません」


 じゃあ、こうかな? 無藤さんの言葉を参考に左側の頬により力を入れてみる。しかし、彼女は再び首を横に振る。


「今度は左の口角しか上がっていません」


 それを聞き、今度は右側の頬により力を入れてみる。しかし、無藤さんは首を縦に振ってはくれない。


「最初と同じになってます。じゃあ、もう一度」


「は、はい」


 なんかアドバイスくれないのかな? そう思いつつも無藤さんの淡々とした口調にたじろいでしまって、ただそう返事をすることしかできなかった。


 ◇


 全然ダメだ……。もうやりたくない……。二十回ほど作り笑いをしてみたが、毎回どちらか一方の口角しか上がらないという奇妙な結果になった。


「うーん……。なかなかいい笑顔が見れませんね」


 無藤さんは唇を結んで悔しそうにする。そんな彼女の姿と「見れませんね」という変な言い回しが気になり、自然と首が傾いてしまう。無藤さん、どういうこと?


 無藤さんのことを不思議に思っていると、彼女は突然、俺の目をまっすぐ見つめてくる。

 

「並木先輩、ちょっといいですか?」


「え? うん……」


「じゃあ失礼します」


 無藤さんはそう言って立ち上がると、髪を耳の後ろにさっと掻き上げ、座っている俺の方にゆっくりと身を屈めてくる。


「え? む、無藤さん?」


 無藤さんが何をするつもりなのかはわからないが、無藤さんの仕草は色っぽく、そしてそれはドラマで見たキスシーンを思い出させるような仕草で、なんとなく慌ててしまう。


 自然と俺の鼓動は速くなり、目は無藤さんの桃色の唇に釘付けになる。そして、無藤さんの顔がだんだん接近してくると、思わず目を瞑ってしまう。


「………………」


——ドクンドクンドクン


 …………あれ?


 鼓動が速まっているのを感じながら十秒ほど目を瞑っていても、何も起こらない。でも、なんとなく至近距離でじっと見つめられているような気がする。


——グッ


 違和感がありながらもそのまま目を瞑っていると、突然、自分の両頬を押し上げられる感覚がした。


「え?」


 驚いて目を開けると、すぐ目の前に頬を赤くした無藤さんがいるのと、彼女が俺の両頬を指で押し上げているのがわかった。


 何をされるのかと焦ったが、俺の口角を上げようとしていただけだったみたいだ。それにしては顔の距離が異様に近い気がするけど……。


「並木先輩、今から手を離すので表情を保っていてくだ——」


——ガラガラッ


 無藤さんの言葉は部室の扉が開く音に遮られてしまった。


「みっきー、むとーちゃん、お待た……せ? って、えーー!! 二人ともちゅーしてる!?」


 扉が開いた直後、部長の驚いたような声が聞こえてきた。


「え、ち、ちが!」


 部長に誤解されたことがわかった瞬間、俺は無藤さんからばっと離れる。焦りのせいで否定の言葉もままならない。


「た、た、ただの練習です!」


 無藤さんは顔を真っ赤にし、胸の前で両手を振りながらうわずった声を出す。俺と同様、慌てているらしい。


「え? ちゅーの練習ってコト? な、なにそれ破廉恥すぎ!」


 部長は顔を赤く染め、両手で頬を押さえながら大声で叫んだ。どうやら部長は壮大な誤解をしてしまっているらしい。


 俺は部長の誤解を解くため、慌てて無藤さんの言葉を補足する。


「部長、練習です! 無藤さんは俺が口角を上げるのを手伝ってくれてたんです!」


「そ、そうです! 私が並木先輩なんかにキスするわけがありません!」


 無藤さんも若干俺が傷つくような言い方で同調する。すると、誤解が解けたのか、部長はほっとした表情で息を吐く。


「な〜んだ、よかったぁ。……でも、なんで笑顔の練習?」


 部長は人差し指を顎に当てながら可愛らしく首を傾げる。

 

「えーと、無藤さんの提案です。俺、募金活動の時、上手く笑えてなかったみたいで」


「あー、そうなの? それで、練習は順調?」


「いえ、まったく。口角が片方ずつしか上がらないという謎の現象が起きていて」


「片方ずつ? それは謎だね! でもま、一応は両方とも上がるってことだから、もうちょい練習したらいけそうじゃん?」


 部長は俺の目を見てそう言ってくるが、俺には自分が上手く笑えるようになるイメージはまったく湧かず、自然と首が傾いてしまう。


「うーん。そうですかね……?」


「そうですよ。できるようになるまで私がビシバシしごきますから」


 無藤さんは俺の目をまっすぐに見ながらスパルタ発言をしてきた。その瞬間、ぞっとして、鳥肌が立ってしまう。


「び、ビシバシ? 無藤さん、怖すぎるんだけど……」


 無藤さんの発言に怯えながらそう言うと、部長が彼女の方を見て「うんうん」と大きく頷くのが見えた。


「むとーちゃん、やる気だね!」


 部長は明るい笑顔を浮かべてそう言うと、突然はっとしたような表情をする。


「あ! でも、一人で鏡とか見ながらやった方が表情わかってやりやすいんじゃ——」


「はい、そうしてみます!」


 俺は無藤さんにしごかれたくはないので、食い気味にそう言った。その瞬間、無藤さんがやや落胆した表情をするのが見えた。無藤さん、そんなに俺をしごきたかったのか……?


 不思議に思って無藤さんの顔を覗いていると、突然、彼女は何かを思いついたような表情をして、俺に顔を近づけてくる。


「自然な笑顔ができるようになったら私に見せてください!」


「え……? な、なんで?」


「実践できなければ意味がないですから!」


「……わ、わかった」


 俺は無藤さんの大きな声に気圧され、思わず首を縦に振る。すると、彼女はどこか嬉しそうな表情をする。


「絶対ですからね!」


「う、うん」


 無藤さんがなんで念押ししてくるのかはわからないが、一応そう返事をしておいた。


「なんかまとまったみたいだし、二人ともそろそろ準備しよっか!」


 俺が無藤さんに返事をした直後、部長が明るい声でそんなことを言ってきた。準備ってなんだろう?


「はい。初めてなので楽しみです」


「あの、なんの準備ですか?」


 俺がそう質問すると、部長は優しく微笑み、無藤さんは鋭く睨みつけてくる。


「みっきー、保育園に行く準備だよ! 体操着に着替えるの!」


「並木先輩、なんで今日の活動を把握してないんですか?」


「え、えっと、俺、どうでもいいことはすぐに忘——」


 無藤さんに弁明しようとしたが、話している途中で無藤さんの殺気がどんどん強くなっているのに気づき、慌てて口を閉じる。や、やばい! 無藤さんにぶっ飛ばされる!


 無藤さんに恐怖を感じた俺は、椅子からばっと立ち上がり、部室の扉を勢いよく開ける。


「お、俺、着替えてきます!」


 俺は震えた声でそう言って廊下を全速力で駆け出す。無藤さん、怖すぎる……!


 しかし、無藤さんからは逃げられるわけがなく、俺は着替えの後にこっぴどく叱られてしまうのだった。

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