(10)

 これはヤバい、吊り下げられた人参が百本にも増えて、喉仏の上下運動も百回は軽く超えそうだ。ミファの話から漏れてくる炎の情熱が、僕の中にある湖のどこかを刺激した。それは多分、地下深くに眠っているマグマのようなものだ。僕にだってなけなしのマグマはある。ただそれがあまりにも深すぎて、表に現れることがないだけで。コンコン、コンコンと湖底が何度も突つかれて、マグマに押し上げられた地下水が次々と湧き出してきた。水が溢れ、湖の堰が切られて小さな川がいくつもできた。それらの川は次第に結ばれ、一本の川になり、悠々とした姿を保ちながら海へと繋がれる。


こんな「湧く湧く」を身近に感じるのはいつ以来だろう。僕は炎を持つことが出来ないけれども、エネルギーを溢れさせるとすれば、それは何かを物凄く「好き」になることだ。湖から、「好き」という水をたくさん川へと押し流すことだ。


「粟さんがアルのクラリネットを気に入ってたの、うちは分かるんよ。ラフマニノフのときに感じたんやけど、アルの音ってな、人の心に道筋を作るのがめっちゃ上手いねん。うちらの音にするりと入って、こっちの道もいいよ、どうかなって教えてくれんの。うちはな、炎を燃やすのは得意やけど、こういう性格やし、燃やしすぎて暴走して周りを延焼させてまうときがあんねんか。でもうちの炎にアルが水差してくれるとな、上手い具合にそれが調整できるっていうか、今までに見たことないような全く別の新しい炎を音に吐き出せるんよ。だからうちも、粟さんも、アルのクラリネットが好きやし、あの時のラフマニノフも成功したんや思う」


 ああ、これはもう、ミファの天賦の才能だ。ここまで気前よくおだてられて、どうやってそれを断れるというのか。僕の湖は河口湖のごとく透明度が高くって、馬鹿正直で素直で単純すぎるのだ。湖が溢れる、溢れてゆく。どうどうと流れだした僕の川を堰止めることなどとても不可能で、勢い高まる水の流れが伝播したのだろうか、「やろうよ、アル!」とミファははじけるような笑みをした。立ちあがって、ロビーの窓を背にすると、空から贈られた梯子の光がミファの背後に照らされた。白い光に包まれたミファはまるで天使の羽を付けているようだ。目力から放たれた炎の情熱が僕の心臓を真っ直ぐに貫く。智天使ケルビム。炎の剣を持つ天使。


「選択権はうちにあるんよね。うちは今まで見たこともないような、全く新しい世界を見てみたい。うちらが作り上げる新しい第九の演奏を、世界のみんなに伝えたい。アルがいてくれたら、それが叶えられる気がする。どんな新しい音楽が生まれるんやろって、めっちゃワクワクする。もう一度、一緒にやろう。ドイツの地で、歓喜の歌を。新しい世界を見に行こう」


 星の欠片を首に持ち、白い羽根を背に持つミファは、外大の屋上でいつか見た流れ星を僕の脳裏に思い出させた。神の意志を伝えるために天から舞い降りたメッセンジャーは、人の形をしてこの地で幸せに暮らしている――例えばそれは、そう、炎の意思を持つミファのように。


 炎の尾を持つ宙の使者は、ミファのことだったのか――


 僕は導かれるままに、ミファから差し出された手を取った。僕たち二人は握手を交わす。柔らかくて、温かな尊い契りだ。時が引き裂いた僕たちの結びを、ミファの炎が再び繋げる。星の向こうに住む誰かへ、僕は静かに感謝を祈った。ありがとう、ありがとうと、何度も、何度も。手にしたそれを失わないよう、強く、強く、僕はミファの手を放さなかった。


《完》

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シンフォニック・ダンス nishimori-y @nishimori-y

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