(9)

「ミファの炎はとても美しい。陰りのない鮮やかな紅色で、見ている人も火照らすような、僕にはない情熱の炎だ。僕はきっと、君のそういうところに惹かれていたんだと思う。ミファがもしどこかで演奏するようだったら、僕にも教えて。場所が遠くても、許せる限りいつでも聴きに行くよ」


 僕の声は低周波で振動する水のように音を持たなくて、空気の響く感触だけがロビーに残された。外の雨がいつの間にか止んでいて、ロビーの窓から光が差し込んだ。雲間から届くランダムな光の筋は天から下ろされた梯子のようで、遥か宇宙の向こうにいる誰かが僕たちを誘っているようにも思えた。光の筋を体の片方に当てているミファは小さく息をし、宇宙の向こうの誰かを探すようにロビーの窓へ顔を向けた。首元の星が光を跳ねる。誰かからのメッセージを受信したかのようにして。


「今度な、オケの仲間を集めて京都に楽団創ろうと思っとる。今年はコロナで無理やけど、もしコロナが治まったら、来年の年末にドイツのベルリンへ行って第九を演奏しようかって話になっとん」

「すげ、マジで?」

「うん、今はまだ企画段階やけどな。募集も始まっとらんし。日本でも演奏すんよ」

「へえ、じゃあそれが決まったらチケット送ってよ」


「そやなくて」ミファと首元の星がこちらに向いた。「もし興味があるんやったら、アルにも参加お願いでけへんかなって思っとる」


 言葉の意味が咄嗟に飲み込めず、中途半端に口を開け、閉じて、またポカンと間抜けに開けた。一世一代の決め台詞でクラリネットを辞める気満々になっていたもんだから、ミファからオケを誘われていると気が付くのに、たっぷり十分は掛かった気がする。実際にはたった数秒だけれども。いやいや待って、それはさすがにないでしょうと慌てて否定しようとする僕に、ミファの押しの決め手が畳みにかかった。


「今やったら、第九のクラリネットファーストの席は間違いなくアルのもんや」


 僕の喉仏が上下に動く。光の梯子どころか、目の前に旨そうな人参がぶらんと下げられた。オーケストラで、ましてやベートーベンの第九を演奏する機会なんて、これから先の人生であるかどうかも分からない。しかもファースト、ファーストってマジかよ! そんな貴重な椅子が僕のものに?


「ホールはベルリン・ドイツ交響楽団が使っとるSFB放送コンサートホールな。客席数は千百や。サブ曲はモーツアルトのフルート協奏曲第一番。ソリストも日本人な。篠原しのはら遥香はるかさんっていう、若いプロの女の人。オケは八十人、合唱団も五十人集めて、指揮者もソリストも連れて、飛行機乗って、大晦日の夜に演奏してお客さんとオケで新年を祝うの。このコロナ禍やし、大掛かりな企画やし、お金の負担もあるし、そもそもドイツ人が日本人の第九を聴きに来てくれるんかっていう懸念もあって、この企画自体がどうなるかは分からん。でもコロナがあったからこそ、音楽で励ましたい、絶対に成功させようって、みんなでめっちゃ意気込んどる」


 喉仏を何度上下すればいいのだろう。第九、ファーストの座、ドイツへの演奏旅行、客席数千百、大晦日の年越し企画……話が大きすぎて僕のイメージの許容範囲を超えている。これはなんだ、何かのドッキリ企画なのか?


「知っとる? ベートーベンってホンマにぶっ飛んでたおっちゃんでな、せっかく時間を掛けて作った一楽章から三楽章までの音楽を、四楽章の冒頭で全否定しとんのよ。『アカンアカン、こんなん俺の音楽ちゃうねんて!』って、バアンってちゃぶ台を引っ繰り返すみたいに。ふふっ、オモロイねんな。その後にベースとチェロと、遅れてビオラが例の有名な歓喜の音をおずおず弾くんやね。ベトベンさん、エライすんまへんな、こんなん歌がありますけどどうでっかって。その裏で一人ひっそりと踊ってんのはファゴットなん。みんなとは全然違う旋律で、星の上に住む神様からのメッセージを伝えてるんよ。天の声を踊ってんの。おお、これやこれ、こういうのを求めとったねんっていう、嬉しそうな神様――ベトベンの声。ファゴットは天使の歌声なんよ。うちはな、あの瞬間がめっちゃ好きなん。ファゴットの音を愛してくれたベトベンも好き。こんな企画は無謀すぎる、客も入らん、失敗するはずやって、意地悪く決めつける人もいっぱいおんねんけどな、うちは何が何でもこの演奏旅行をやり遂げるって決めとるし、この第九のファゴットを絶対に吹きたい思っとる」

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