(8)

 初めて会った時の目力は、その強さをそのままに瞳を燃やしている。絶えることのない瞳の炎は、僕が最も愛してやまないものだった。変わらないと言いつつも、その炎はミファの歳と共に成長を続けていて、変わっていないどころかより紅く、より鋭く、新たに熱力を増幅していて、そのエネルギーに只々圧倒されそうだ。タダさんの説得は僕にも分からないわけではなくて、今、国籍のことを尋ねられたら、もしかすると僕も日本への帰化を勧めていたかもしれない。韓国と日本の壁、在日コリアンと日本人との壁はあまりにも分厚くて、何年経とうとも薄くなることがなく、大切な友人には――ましてやそれが好きな人だったら尚更こちら側にいて欲しい、という心理が働くのはどうしようもないことなのだから。多様性、相手への敬意と自身の誇り、これらのバランスを掴むには、まだまだたくさんの時間と相互理解が必要となる。それでも――


「うん、いいんじゃないかな。在日コリアンのミファであっても、もし君が日本人の美華を選んでいたとしても、どちらの道も正しいよ。僕は君を応援しているし、もし困ったことがあったら相談して。難しい問題に上手く答えられるかは分からないけど」


 これが、八年かけて選んだ僕の答えだ。この答えが意外だったのか、ミファは不思議そうな表情のまま首を傾げて組んでいた手を膝に下ろした。金色の指輪は既になく、その人差し指にはシンプルなシルバーの指輪が代わりに嵌められていた。


「僕、何か変なこといったかな?」

「ううん」と、ミファは首を小さく左右に振った。「国籍のことでうちが相談すると、大概の人は難しいことは分からん言って逃られげてまうか、どちらかの国の悪口を言われるか、あっちは止めとけ、こっちにしとけって説得されるかのどれかやったから。アルはええね、昔と全然変わらんくて」

「それって褒めてくれてんの? こう見えても変わろうとはしてるんだよ。今度、富士の麓まで行って、カヤックでも挑戦しようかなって思ってる」

「カヤック? 何それ、オモロいん?」

「知らないけど、多分ね。ゲームキャラみたいな名前からして、なんとなく面白そうじゃん」


 ああ、あのゲームやんな、とミファが口にしたのは幼いときからアニメで馴染んでいた敵キャラで、「ツ」と「ク」と字数しか合っていない、アヒル姿のお惚けキャラに、僕とミファが同時に笑った。


「僕の中にもね、湖があるんだよ。河口湖みたいに綺麗なもんじゃないけど、しんどいときとか辛い時には、山に囲まれた静かな湖を思い浮かべていたりする。何かチャレンジするときなんかは、その湖に川を通して目的の河口を目指すんだけど、僕ってほら、弱いから、せっかく流した川がいつも思い通りに流れてくれなくて、どっかの窪みに嵌ってすぐによどんじゃうんだ。それじゃあ違う道を探そうかなってもう一つの川を流すんだけど、その川も小っちゃくって流れも悪くって、また窪みに嵌っちゃう。川をいくつ作っても、いくら流そうとも、ちっとも目的のところへ流れてくれない。綺麗な水を流しているはずなのに、残されるのは小さな水たまりと、水が枯れた川底の痕跡だけだ。僕はほんとに弱くって、出来ることなんか何一つなくって、ちゃんと目的を果たそうとするミファが心底羨ましいよ――ミファ、僕はもう、クラリネットを吹くのを辞めようと思っている」


「え……なんで? 音楽がもうヤになったん?」


「音楽は好きだよ、ずっと、これからも。好きな音楽は聴いたりするし、演奏会にも聴きに行く。僕はね、水であり、川みたいな存在なんだ。高いところから低いところへ流れるだけで、それ自体にエネルギーはない。エネルギーをくれるのは周りの環境だ。勾配が急であるほど流れは早くなるし、風が強ければ波が荒れる。指で突かれれば流れの向きがすぐに変わるし、窪みがあれば落ちていく。障害物がなければないほど大らかに河口まで届くし、ストレスが溜まれば氷のように固まり付く。心の中にエネルギーを貯めて情熱という焔を燃やすような、ごく普通の人と僕とは、精神の作りが根本的に違うんだよ。川は熱を持たないし、ほのおを燃やすこともできない」


 ガラスのコップを静かに傾けながら、僕は透明な水を床に少しずつ浸してゆく。音を立てないように、誰にも気づかれないほどの慎重さで、そろり、そろりと垂らすように。汲み上げたばかりの川の水は指がかじかむほどに冷たくて、ミファの炎の勢いを弱ませたようにも見えた。尊いその火が消えぬように祈りながら、湖底にたゆたう思いを静かに吐露した。

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