(7)

 ラフマニノフの練習が終わり、プロコフィエフの演奏までニ十分ほどの時間が空いた。プロコフィエフには参加しないし、時間を持て余しながらロビーのソファにぼんやり座る。二階ホールの扉を挟んでトイレとは真向いにある小さなソファは、音楽の道筋を失って鬱々となっていた僕が落ち込むには最適の場所に位置していて、このまま日陰に埋もれて消えてしまいたいなどという、どん底のネガティブ思考を助長させるには十分な静けさがあった。外大オケでの僕の世界は木管組という限られたもので、よく知る木管のメンバーはミファと粟崎さん以外に来ていないし、金管や弦楽器方面にはとんと疎いし、ホールから出入りする人なんか眺めていても楽器と顔が繋がらない人ばかりだ。本当に、なんで僕はここにいるんだろう、ここへ何しに来たんだろうという思いばかりが渦を巻く。打ち上げはキャンセルしよう、晩飯は新大阪か、駅弁か……などと、同奏会途中ですでに帰宅後のことへ頭を巡らせながら、外で降っている雨のように、鬱々、鬱々三昧していると、ホールの扉からミファの小さな頭がひょっこり出てきた。


「アル、次のロミジュリは出えへんの?」

「うん、僕はラフマニノフで終了。みんなの演奏を席で聴いておくよ」


 そっか、と言いながら、ミファはトコトコと僕のソファに近づき、席一つ分離して華奢な体を座らせた。ミファの肌は購入したばかりの高級なビロード生地のように光沢があり、秋の寒空に咲くバラのようなピンク色を淑やかに織り込んでいて、大人びたからか、化粧が上手くなったからか、学生の時よりもさらに美しく見える。飴色に塗られたアイシャドウは派手過ぎず、光を通して胡桃に変わるミファの瞳にとても似合っていた。薄手のセーターは喉の辺りでVになっていて、大気中で燃え尽きることのなかった流れ星が首元に一粒光っている。講師という仕事が醸し出す高尚な雰囲気は、まるでオリオン座にあるリゲルを統治する王女さまのような落ち着きを持っていた。僕とは住む世界がまるで違うというか、彼女との間にある一つ分の席が何万光年という隔たりのようにも感じられて、仕事はどうしてる、オケには入ったのというとりとめのない話題が終了すると、落ち着きのない沈黙がこの場に纏わりついた。居心地の悪い沈黙はとても意地悪で、気を緩めると失恋のことを記憶の底から引っ張り上げようとするし、かと言って黙ったままにするのもアレで、どうしようかなあ、トイレにでも行こうかななどと考えていると、「タダさんとはな、付き合ってすぐに別れたんよ」と、ミファの方から例のゴシップネタが持ち出されてきた。


「え、そうなの?」と、知っていたくせに、僕は驚いたふりをする。

「うん、二人でめっちゃ揉めて、喧嘩になってもうてな……あの人のことは好きやったけど、自分の意見を強引に押し付けるとこがあって、うちにはそれがどうしてもアカンかった」


 タダさんが強引、という言葉に引っ掛かりを覚え、その話題に触れるか触れまいかしばし悩むと、「国籍のことやよ」と、再びミファが話を繋いでくれた。

「前にアルに相談したやつな。タダさんにも相談したんやけど、あの人は日本に帰化しろの一点張りやった。その方が苦しまんで済むし、辛い思いをしとるうちを見たくないって」


 ミファは膝の上に肘を立て、前かがみになりながら両手で組んだ拳骨を口に当てた。物憂げに、僕の知らない過去や未来を腕の中へ抱え込むように。

「そりゃあ当たり前だろう。誰だって――僕だって、巷のヘイトで傷つくミファを見るのは嫌だ」

「そんなにうちって弱く見えるん?」

 ロダンの彫像のように悩ましい顔つきをしていたミファは、その目を開いてこちらへ向けた。

「そういうことじゃないよ。君が悪意に屈しないことは知っているし、タダさんも君のことは認めていた。君の強さがどうしても必要だって」


「タダさんの求めていたものって、うちの思ってたんとはちょっとちゃうねん。自分の思い描く形を作って、好みの色を塗って、想像通りに仕上げたイメージ通りの姿が、あの人の欲しかったもんなんよ。日本人として生きていく、生まれ変わった星川美華な。タダさんはそういうところが根っからの指揮者で、指導者なんやと思う。そういうんやなくて、うちは、今まで形作ってきた自分本来の姿を見て欲しかった。本名で通して、嫌なこともいっぱいあって――イジメなんて小学校のときだけではないんよ。それでも二十年間生きてきたありのままの姿な、それを認めて欲しい。凹んで潰されてどうしようもなかったこともあって、でもそういう時に支えてもらえたんは、自分の家族とホームやった。家族がいたから生きてこれた。自分の血があるからうちがうちでいられるし、このアイデンティティがあるからこそ何度も這いあがってこれた。アルやタダさんの言わんとすることは理解できるけど、ユン・ミファで生きてきた二十年を否定したくはないんよ。大学だってそう。城西外大の名前はなくなってもうたけど、あの四年間の大学生活はうちの血と肉になってもうとる。名前が変わろうが変わるまいが、うちは城西外大卒業生やってことには変わらんし、これからも在日コリアンのユン・ミファであり続けるよ」

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