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「結婚していてもしなくても福利厚生は同じだし、苗字も変えなくてすむし、それでいいんじゃね? って二人で話し合ってさ」と言いながら、間山はリュックからスマホを取り出して画像を見せてくれた。間山とブロンドの髪をした女性がどこかの農道に並んで立っていて、青い空と針葉樹の並木と遠くにそびえる白い山並みがいかにもカナダといった感じで、ブロンド女性の手には小さな赤ん坊が太めの青い紐で抱えられていた。


「おい、間山くん、この赤ちゃんってもしかして……」

「あ? 俺の子。シャーロットちゃん。今年一歳だよ。可愛いだろ」


 学生のときと寸分変わらぬ、飄々とした笑顔であっさりと答えられたものだから、扇田と二人で同時にむせた。僕たちは既に三十近いのだから、一人や二人子供がいてもおかしくはないのだが、学生気分が抜けきらないような間山と父親というカテゴリが頭の中でどうしてもリンク出来ない。女性のお腹の中にはもう一人の赤ちゃんが宿されているそうで、父親としての彼の将来に幸あれと扇田と三人で再び乾杯した。


 カナダ人の奥さんと娘さんは近くのビジネスホテルで待っているらしく、明日東京へ向かい、間山の実家に寄って挨拶をするそうだ。初孫の顔見せをするらしい。せっかく日本へ帰国したのだから、同奏会にも参加しろよと扇田が薦めるものの、「ミファになんか会いたくねえ」とプイと横を向かれてしまった。父親になろうがなるまいが、こういうガキっぽいところも変わっていなくて、それがいいんだか悪いんだか、扇田の呆れたような目が僕のそれとビールの上で寸時交わった。


「ところで、キヨトさんは同奏会に行くつもりかね」と、交わった視線に向けて、僕は湧き出た疑問を投げつけた。

「当ったり前やろ」

「城西大オケの人が、外大オケの同奏会になんで呼ばれてんだよ」

「俺の外大オケ出席率を舐めんなよ。ミファさんに振り向いて欲しくて、どれだけ参加を頑張ったことか。あまりにも優秀過ぎて、最後には外大特別団員としてオケから表彰されたくらいやからな。ぐふっ。アルの住所も俺が教えといたんやで――ところでな、そのミファさんのことやけど」と、扇田はおでんの卵を箸で半分に割り、ひっそりと身を隠していた僕にとっての禁断の話題を、卵の中からヒョイと取り出した。「タダさんと別れたらしいで。知っとるか?」


「マジで。なんでお前がそんなことを知ってんだよ」と、僕はおでんの竹輪にかぶりつき、あまりの熱さに目を白黒させた。熱いし、舌が痛くて、ビールを飲んでそれを冷やす。ミファへの告白と情けない失恋のことが、誰にもバレていないことを必死に祈りつつ。

「ぐふっ、俺の情報網を舐めんなよ。ツイッター、フェイスブック、友人たちからの近況報告でミファさん関連情報はバッチリや。なんでもなあ、一時期二人でよりを戻したらしいんやけど、大学二年、いや三年のときやったかな……アカン古くてもう忘れてもうた……二人がえらい喧嘩したらしくて、そのままサイナラやったらしい」

「ふうん、そうなんだ……」


 聞きたくもない名前が二つもある上に、よりを戻したなどという余計な事実まで丁寧に教えてくれる扇田の口の中へ、熱々竹輪を三本くらい突っ込もうかと思う。五本、いや十本でもいい。こんなゴシップ情報を知ったところで誰が得するというのだろうか。ミファなんてどうでもいい、僕には関係ないなどと強気な心で呪文のように念じながら、ぶり返しそうな失恋の痛みを咀嚼した竹輪と一緒に飲み込んだ。扇田は二つ目の卵を口に頬張りながら――余程おでんの卵が好きらしい――、「ま、俺としては、あんないけ好かん指揮者なんかにミファさんを取られんくてラッキーやけどな」と右側の頬を卵で膨らませてニンマリ笑顔を作った。


「他に彼氏がいるかもしれんだろ」

「あの指揮者やなかったらええねん」

「タダさんがモテてたからって僻んでんのか」


「やかましわ。あいつはなあ、ミファさんっつう素敵な人がおりながら、夏紀さんとも噂あったやろ? 付き合ってたことがあるとかないとか、ホンマかどうかは知らんけど、それが俺にはどうも気にくわん。タダさんは仕事でシンガポールに行ってもうたし、まずは一安心や。ミファさんな、今は京都の大学の非常勤講師で働いとるで。たまに在日コリアンについての講演会もしとってな、この記事――新聞にも取り上げられとる。ほらほら、今でもごっつ美人やろお。ええのお。ミファさんは俺の理想の嫁はんや」


 ミファの存在がファンやアイドルから扇田の嫁へと順調に昇格されていて、さすがのミファでも怒るのではないか。扇田が差し出したスマホの画像には、生徒たちの前でマイクを持つミファがいた。講師としての立場からか髪は黒色に戻っていて、後ろにお団子で纏められ、スーツ姿の彼女はすっかりキャリアウーマンだ。ユン・ミファという名前を使い続けてりところから察するに、どうやら彼女は韓国籍を選択したらしい。八年経っても彼女の美しさはそのままに、いくら気を逸らそうとも、僕の目がどうしても彼女に奪われてしまう。このような心境で、明日はまともにミファと会えるのだろうか。頭を振って強制的に目を逸らし、僕は二本目の竹輪にかぶりついた。

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