(3)

 八年前の定期演奏会でラフマニノフ二番の代吹きを無事に果たし終えた僕は、スタンディングオベーションの喝采を浴びた。観客からの拍手を一身に受け、タダさん、クニさん、須々木女史ら弦楽器奏者は弓を叩き、金管軍団は足で床をドンドン鳴らして僕の演奏を褒めはやした。嬉しかった。胸の辺りがくすぐったかった。世界中の人々が僕の誕生日のために有給休暇を取って、ワイン片手に祝杯してくれているような気分だった。指揮の安原先生は汗で絞られた前髪を右手でかき上げながら、左手でこちらを指してチョイチョイと手招きするように動かした。僕のことかとキョトンと見遣ると先生は首を振り、僕の左側に指をさす。どうやら指名したのは隣に座っていたミファのようだ。スタンディングオベーションの祝福はクラリネットとファゴット、僕とミファにもたらされ、僕たち二人はホール中の歓喜に包まれた。感動した。人生最高の瞬間だった。どこからか教会の鐘が聴こえたような錯覚まで覚えた。


 そう、僕はこのムードに押され、飲み込まれ、勘違いをしたのだ。僕たち二人はきっと特別なんだと。そんな都合の良い気分をさらに揚げてしまったのが、観客からのアンケート用紙だ。打ち上げで読ませてもらったアンケートには、「クラリネット素敵でした」だの、「クラリネットの音がとてもよかった」だの、ごく簡単な語彙表現ながらも悪くない感想が何枚もあって、たとえそれが上辺だけの感想だとしても、僕にとっては勿体ないくらいの賛辞に溢れかえっていた。宙に浮かぶほど心が浮かれた。今日だったら願い事が何でも叶うんじゃないか、そんな気がした。ミファへの告白に思い至ったのはその瞬間だ。


 ――今だったら、ミファに思いが通じるんじゃね……?


 僕は全く馬鹿だなあと思う。戦う相手はあのタダさんだ。頭が良くて、容姿も良くて、人当たりも抜群の。平々凡々な僕なんかに勝ち目なんかあるはずもない。けれどもこの空気を味方にすれば、あのタダさんに立ち向かえるだろうという妙な勇気が入道雲のようにムクムクと沸いたのだ。音楽と酒の神様がもたらした危険な誘惑だ。それは几帳面すぎるほどの僕の警戒心を綺麗さっぱり取り払い、僕は不穏な雨水をたっぷりと含んだ勇気の雲にすっぽりと覆われて、打ち上げの後、闇雲に走り出した。千里中央駅でミファを呼び止め、勢いに任せて僕は彼女に告白した。ずっと好きだった、付き合ってほしい、と。


 結果は言わずもがな、ゴメンな、アルは仲間としか思えへんというあっさりとしたお断りだ。ああゴメン、と僕も釣られて謝った。振られたのに謝った。謝って、失恋をヘラヘラと笑い飛ばし、酔っぱらって頭が回らない振りを演じながらその場を離れた。ミファとは二両分離れた車両に乗り、天王寺駅に着くとすぐさま、涙と洟と吐しゃ物や苦酸っぱい胃液と、悔しさと悲しさといった一切合切全てのものを、報われなかった勇気の雨水と共にトイレの水で洗い流した。


 この失恋が原因となり、外大オケを辞めてからは練習にも合宿にも顔を出さなくなった。卒団してからも演奏会の案内状は下宿先に届いて、一度だけ聴きに行ったけど、ミファとタダさんの姿を見るのが辛くてそれからも離れた。就職して転居して、転居先案内で届いていた演奏会の案内状もそのうちに来なくなった。同奏会の案内状が届いたのは不思議だけれど、僕の住所を誰かが伝えてくれたのかもしれない。


 地元にはアマチュアのオーケストラがなかったし、吹奏楽団はあったけれども、オケの魅力に取りつかれた今となってはどうにもこうにもやる気が起きず、クラリネットのケースを随分と長い間開けようとはしなかった。ミファやタダさんに会うのも億劫だし、同奏会はキャンセルしようと頭から離していたけれど、僕の携帯に届いた一通のLINEメッセージで考えを変えた。


『同奏会行く? 久々に飲みに行こうぜ』

 間山だ。瞬間、八年前のオンボロ寮とお手製ペペロンチーノが頭によぎった。扇田も呼んでいるらしく、このメンバーなら飲み会もさぞや楽しかろうと、二つ返事で承諾した。これはもう流れだから仕方がないと、同奏会の案内状を机から出して、そこに記されたアドレスへ出席をメールし――ミファからのコメントがあるかとも不安半分期待半分だったけど、楽譜を送りますという機械的な文面が戻ってきただけだった――、クラリネットのケースを開けた。慣れ親しんだ貴婦人は美しい体に傷一つ入ることなく、艶やかな黒い光と金属の美しさを保っていて、眠りから覚める僕の儀式をずっと待っていたようにも見えた。ケースから管を取り出して体の起伏に指を伝わすと、今すぐにも歌いたい、歌声を魅せたいという欲求が指から痺れるほどに伝わってくる。その思いに抗えぬまま、週末、カラオケ店に行って音出しをする。八年前よりも腹筋は弱っているし、息は上がるし、指も回らない。調整も必要だし新しいリードだって買わないと。でも――


 ――クラリネットが、楽しい。


 愛しい貴婦人は僕の思いを汲み取るように、八年間のブランクを感じさせないようなふくよかな音を出してくれる。この人がいてくれたらきっと大丈夫。貴婦人の歌声さえあれば、ささやかに残る失恋の傷口もきっと癒えてくれることだろう。

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