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 去年までのコロナ禍騒ぎも患者数の減少により落ち着きを取り戻し、それでもコロナウイルスが消滅した訳ではなく、不測の事態を考慮して会社からは毎日のマスク着用を義務付けられてる。許可さえもらえればテレワーク勤務も可能だけれど、会議や社員との伝達、作業の効率化を図るためには会社へ出勤する方がはるかにマシで、コロナウイルスとの不幸な鉢合わせに戦々恐々としながらもその毎日に順応したというか、人もウイルスもそんな日常に慣れつつある。僕の周りにはテレワークをしている人なんて誰もいなくて、月一回会社から割り当てられているテレワークのご褒美に与るのがせいぜい関の山といったところだ。


 教授推薦で手に入れた僕の就職先は富士の裾野にあり、優雅な山を毎日拝める格別なロケーションの元、日々の会社勤めを果たしている。福利厚生に恵まれた社の雰囲気は、田舎暮らしの気風もあるのだろうか、とても穏やかであり、同僚や上司との関係もそれほど悪くない。新規蓄電開発を手掛ける僕の上司は一年前に中途採用された二つ年上の男性で、名前は黒田さんといって、趣味のツーリングを僕にもしきりに誘ってくる。僕の単車は中古車を購入する際に売却してしまったし、そもそも七五十cc排気量のバイクの後ろにノコノコ付いていける自信があるはずもない。週末はゆっくり過ごしたいからと、黒田さんの熱心な口説きをやんわりと断った。


「週末ゆっくりなんてなあ、若もんが言うもんちゃうで、瑞河くん。バイクでも山登りでもカヤックでも、なんかしてみいひんの」


 三階の喫煙ルームへ僕が休憩しに行くと、必ずといっていいほど黒田さんも付いてきて、どうやら絶好の茶飲み仲間として僕を認めてくれているらしい。目の形や頬の肉付きが明秋のお月見団子を連想させるような顔つきをしている黒田さんは、五平餅のように厚みのある指で煙草を挟み、鼻と口の機能をフルに活かしながら煙を味わっていた。僕も煙草に火を付けて、はあ、そうっすねと軽く相槌をしてそれを口に含む。甘党代表として国会演説でもしそうな黒田さんの雰囲気のせいか、煙がいつもよりも甘く感じられて、帰りのコンビニでみたらし団子でも買って帰ろうかなとぼんやり考えた。


「瑞河くんはなんや、ゴルフはしいへんの」

「ゴルフもあんまり……友人に勧められてクラブとかシューズとかを揃えたんですけど、コースデビューでスコアが百四十オーバーで、あまりの下手くそぶりにやる気なくして、それからはしてません。つか、カヤックってなんすか」


「ボードに乗ってな、こうやってガツガツ濃いでいくやつや」と、黒田さんは煙草を持たない左手をぼた餅のようなくるぶしにして、両脇に振った。「小っちゃいボードに乗って湖の上にいるとな、世間から離れた世界にどっぷりと埋もることができて、普段見えへんもんが見えてくる。見えへんもんが見えてくる世界っつうのは、この世のもんやないというか、諸行無常の響きが聴こえてくるような不思議な感じでな。河口湖でやってみい? なかなかええもんやで」


 この人の趣味はいくつあるのだろうと感心しつつ、はあ、と僕は答える。諸行無常の響きが具体的にどのようなものかは想像できないけれども、ごおんという寺の鐘の音なのか、念仏のようなものなのか、はたまた無音に近いものなのか、相当な厳粛さ漂う音には違いない。

「可愛い彼女とデートするには最高やで。瑞河くんも、どや?」


 その質問に僕は答えない。院に入ってすぐのころ――今から四年前になるのか、僕にも彼女ができた。研究室で秘書のバイトをしていた女の子で、名前を粗衣そいともかといった。短大を卒業して親のコネでこの仕事にありついて、暇さえあれば爪の手入れをしているような子だった。それでもグレージュ色に光る爪がいつしかのミファのそれを思い出して、栗色の髪の色もなんとなくだが彼女のものと似ていて――それくらい、僕はミファの失恋にすこぶるへこたれていたのだ――、顔の作りなんかはどのパーツもシンプルで、ミファとは全く似ても似つかないというのに、僕は彼女につい惹かれてしまい、一時期付き合うこととなった。体の関係にもなったけど、まあ、ミファのことを無意識のうちに彼女へ求めていた罰が当たったのだろう、二回目のベッドで身体が反応しなくって、色々と気まずくなった僕たちは次第に疎遠となった。ともかはその後ゼミの後輩の彼女となり、教授と不倫をしているという噂も沸いたりして、それを耳にした僕はいろんなことが面倒になり、一人で気楽に過ごしたまま今に至る。


 沈黙の煙に何かを察したのか、黒田さんは僕の返事を待つことなしに、短くなった吸殻を灰皿スタンドの穴にねじ込んで部屋を出ていった。部屋に漂う薄衣の煙は甘い香りを未だに残していて、ほのかな甘みを肺胞の小さな袋へ閉じ込めながら、僕は白い苦みを吐き出した。

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