アンコール:ベートーベン交響曲第九番「合唱付き」より四楽章

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 今年の富士の初冠雪が観測されたとネットニュースで見かけたのは、確か一昨日のことだ。車から降りると、住宅街の屋上に望む富士の頂には、雪らしき白いものが夕暮れの山の影に浮いていて、幽玄な趣がどことなく冬の寒気に歓喜しているようで――ダジャレではないけれども、関西人のノリにはさすがの僕も随分と感化されたようだ――、ドライアイ気味で疲れた目をその姿でしばし癒した。濃、紺、藍、藤、紅へと階段のように色の別れた空を抱く影富士は高尚な美術館に飾られている絵画のように美しい。この時間にこの富士と出会えるなんて、今日は少しツイている。残業を早めに切り上げて正解だった。鼻梁とマスクの隙間を指で押さえて、マンションの階段を上がり、部屋の鍵を回す――の前にポストの確認を思い出した。壁に備え付けられたアルミ製のポストに手を突っ込むと、紳士スーツのDMと共に葉書きが一通入っていた。ペラリと葉書きをひっくり返し、裏面の表題を目にして呼吸をそのまま飲み込んだ。


「城西大学外国語学部管弦楽団(旧城西外国語大学管弦楽団)同奏会開催のお知らせ」――外大オケからの招待状だ。



 拝啓 初秋の候、皆様におかれましてはますますご清栄のこととお喜び申し上げます。

 さて、私たちの母校となります城西大学外国語学部(旧城西外国語大学)が、本年、創立百周年を迎えることとなりました。これを機に、城西外国語大学管弦楽団の卒業生による「同奏会」を左記の通り開催することとなりましたのでご案内申し上げます。音楽を現役で続けていらっしゃる方も、そうでない方も、年齢経験関係なく、演奏を通じて楽しいひと時を過ごしたいと存じます。曲目はプロコフィエフ「ロミオとジュリエット」、及びラフマニノフ交響曲第二番となります。万障お繰り合わせの上、ご出席くださいますよう心よりお待ち申し上げております。 敬具

幹事 ユン・ミファ(平成〇年度卒団生)



 日時は二か月後、場所は僕たちが現役の頃に利用していた市民ホールとなっている。


 同奏会、というのは、ホールを一日貸し切り、観客は入れず、楽器ごとの人数制限もなく、初合わせ同然で自由に演奏を楽しむ目的での管弦楽団の同窓会らしい。らしい、というのは、僕はこの同奏会に参加したことが一度もないためだ。前回の同奏会は四年前で、僕は就職一年目で研究と仕事に没頭しており、参加する余裕なんてとてもなかった。一昨年、去年と、同奏会をしようという呼びかけがフェイスブックであったものの、コロナの影響でその予定もとん挫し今年に入ってようやくの開催となった。ミファは次の同奏会の幹事をすると早々から手を挙げていて、プロコフィエフとかラフマニノフとか、選曲の並びが華やかで如何にも彼女らしいものだと思う。


 外大オケを辞めてから八年となる。ラフマニノフの二番は彼女と横に並んだ最後の思い出であり、八年経った今でも記憶に残る彼女の美しさはそのままの姿をしていて、青空にプカリと浮かぶ金色の太陽のように、僕の心の真ん中で愛しい輝きを放ち続けている。


 団を辞めて以来、僕は外大オケに顔を出さなくなった。演奏会の後、僕は彼女に告白して、あっけなく振られたのだ。彼女が選んだのはタダさんだった。それでも金色の太陽の輝きは僕にとっての大切なものであり、悩ましくもあり、痛ましくもあり、小さく萎んでほしくもなくて、未練がましく心に浮かべていたりする。その太陽を刺激しないように、不意に訪れる悪戯な感情で割ってしまわぬように、大事な招待状を机の引き出しに入れておく。

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