(2)

「緊張しとるん?」と、隣へ腰を下ろしたミファはこちらを見て、前髪を指で掬いながら首を傾げた。金色の光は指から失われたままだ。

「していないって言えば嘘になるかな。合宿中のリードミスがたまに記憶を駆け巡るよ」

 ため息交じりの僕の自虐に、アハハ、とやんわり微笑む。


「うちはな、緊張でどうしようもないときには頭ん中を真っ白にするんよ。羽を生やして飛んでるみたいに、心を軽くフワフワさせんの。そうすると胸がすうっと軽くなって、めっちゃいい音出せるんよ」

「へえ、ミファにピッタリのイメージだ」

「ソロ、頑張ってな。うちはいつでもアルの演奏を頼りにしとるんよ」


 この子の力になれるなんて、これほど嬉しいことはない。ありがとうと感謝しながら「ミファにお願いがあるんだけど」と上半身で向き直る。

「何?」

「この演奏会が終わったら、タダさんのところに行ってあげて。あの人、ミファのことをずっと待ってるよ」


 意味不明な異国の言葉を耳にしたような顔で、ミファは僕の顔を本人かどうか確かめるようにして訝し気に見つめた。


「……何のこと言っとるん」

「この定演が終われば僕は外大オケに来なくなる。よそ者の僕を快く受け入れてくれたミファへの感謝っていうか、こんなことくらいしか僕には出来ないし、ミファは僕の大事な友だちだから、最後の餞別だと思って受け取って」


 胸の疼きがじりじりと喉元までせり上がってくる。それでも僕は、エゴと嫉妬で固まるヘドロを理性というフィルターでろ過しながら、限りなく純粋なまでに漉された感情をここへ満たしていった。


「君はすごいよ、自分で道を選んで、あらゆる障害物と戦うことを諦めないで、自分の力で正しいものをちゃんと勝ち取っている。合宿で話してくれた国籍のことでもそうだし――好きな人のことでも。あの人ってなんだかなあって思うこともあるけれど、それでも意外と人のことをよく観察していて、君が戦うときには盾になって全力で守ってくれるはずだ。君は選ぶべきものをちゃんと分かってる。タダさんがミファを選ぶんじゃない、本当に好きな人を君が選ぶんだ。好きな人も、国籍も、選択権は君にある」


 天へと続く薄明の梯子はしごがこちらにも下ろされて、太陽を削いだ粒子が僕とミファの周囲を舞っていた。黄金の光を吸い込んだミファの瞳は琥珀色に透けていて、澄んだ心を映すような宝石の瞳を、僕はとても愛おしいと思った。


「でももし辛いことがあったら、いつでも僕のところに来て。僕が君の力になるから。ミファが友だちでいてくれていることを僕は誇りにしているし、応援しているし、感謝だってしている。ミファは僕にとっての大事な――仲間なんだ」


 ホールの開演時間が迫ってきたのか、遠くからオーボエアーの音が流れてきた。控室の廊下で、加田谷さんが団員を集めてチューニングを始めたらしい。四四二ヘルツのチューニングの音。オーケストラを生み出す全音符。全ての曲はこの音から始まる。


 僕は古くなった過去の息を深く捨て去って、生まれ落ちたばかりのAの音を目一杯取り込んだ。躰中の細胞の隅々までそれを行き渡らせると、新鮮な細胞が勢いよく弾ける感覚がした。


 大丈夫、今なら伝えられる。


「僕はミファのことが、好きだよ」


 オーボエAの音へ乗せるように僕は手を前へ差し出し、ミファの白い手が重なった。チューニングの音に揺れながら、ゆたり、ゆたりと二人でダンスを舞うように、窓を抜けて、壁を越えて、雲の隙間へ吸い込まれ、僕たちの体は全音符の光に溶けていく。


 開演を知らせるブザーが鳴る。新世界への扉は、今、開かれた。

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