終章:ラフマニノフ交響曲第二番より三楽章

(1)

 ――演奏会当日は最高気温が一桁で、墨汁に浸して千切られたような雲が太陽を遮っていて、曇りと寒気と一時の晴れ間の狭間に市民ホールが覆われた。ラフマニノフのゲネプロが終わってすぐ、富重教授が団員たちの前で今後の外大オケについての説明をしてくれた。話の内容は今までに聞いたものとさほど変わらず、オケの存続と予算の確保をするよう城西大へ陳情しているようである。「この記念すべき文化事業を絶やさないよう、未来へ善処していく所存です」という終わりの挨拶で、教授の話は厳かに締められた。


 控室に戻り、黒い背広に着替えて蝶ネクタイを首に巻く。スマホを確認すると、母とおじさんからLINEが届いていた。母は時間通りに大阪へ着いたという連絡で、おじさんからは『守屋さんも連れて行くから楽しみや』という、ノロケ混じりのメッセージだった。


 緊張をほぐすため、コーヒーでも飲もうかと控室近くの自販機へ行き、三人掛けの狭いソファに座った。目の前には上から下まで壁一面が大きなガラス張りとなっていて、駐車場に見える空には、何層にもなる厚い雲が悠々と風に泳いでいる。缶コーヒーを口に含み、スマホをもう一度開けてLINEアイコンをタップした。指が繰り出した先には朝に届いた粟崎さんからのメッセージがある。


『この間は粗相してゴメンな、ちょっとだけ話させて』という文面から始まったメッセージは、ちょっとどころか数分おきに何度も送られ、吹き出しをいくつにも分けながら長々と語られている。


『私の好きな北寄ススムの漫画にな、こういうセリフがあったねん。個人戦は団体戦、団体戦は個人戦って。異世界かるた選手権で、対戦相手の鬼に怯えるナリヒラに向かってユキヒラが勇気付ける台詞なんやけど……って、今はそんなんどうでもええか。語りだすと止まらへんわ、コホン。オケの音はな、一人一人のソロが集まって出来るもんや。それぞれの音が纏まって初めてオケの音は一つの曲として完成される。アルは自分が外大生やないからってすぐに遠慮して独りの世界にいがちやけど、みんなと一緒になって演奏しとるのを意識してみ。周りの音を聴いて、自分から外へ話しかけるんよ。思っとることそのまんま話せば、それだけでアルのソロはええもんになる。誰かに認めてもらわんと演奏出来ひんなんて、そんな寂しいこと思わんといてな。ヤバイ、どうしようなんて気にしとんのは周りに誰もえん、心を縛っとんのは自分やで。アル、戦うんよ。戦わなアカン。戦こうとる相手は私やない、自分の心と戦わな。アル、行ってこい! 戦ってこい! これはパートリーダー真理愛さんからの命令や!』


 ノリの良すぎる文章がツッコミどころ満載で、どんな少年漫画だよと最後の方は爆笑しかけた。真面目に受け取るべきかどうかが甚だ疑問ではあったけれども、普段通りの粟崎さんが帰ってきたようで胸を撫でおろす。そういや粟崎さんの名前は真理愛って言うんだっけ。聖母マリア、愛と慈悲の象徴だ。


周囲がふと明るみを増して顔を上げると、目の前の窓から日差しが入り込んでいた。黒い雲の真ん中が風で途切れて穴が開き、太陽の光が蛇腹になって地表まで下ろされている。まばらに揺れる黄金の光は天へと続く階段のようで、羽のある者がそれを伝って舞い降りてきそうだ。


 あまりにも神々しい自然の恵みの情景がまるで夢の中にいるようで、しばらく無心で眺めていると、「隣、座ってええ?」という声が耳に触れた。

 ミファだ。天使の代わりにミファが来た。肩から腕がレースで透ける黒いロングドレスを纏うミファは、胸と腰のラインの起伏が女性の魅力を最大限に際立たせていて、いつもよりもずっと大人びていた。

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