Allegro con fuoco(12)
楽器のキィを動かして、黒い貴婦人のご機嫌を確かめる。冬の冷気に晒された表面は神経質なほどの緊張感を保っていて、今日はちょっと寒いわねとキィの動きが伝えてきた。カチャカチャという固い金属音が指先を必要以上に凍えさせ、ズボンで手を擦って血を巡らし、冷たくなった指先を温めた。練習だというのにどうしても緊張が取れなかった。
――どうかいい音をお願いします。
いつものように呪文を唱えると、その呪文に重なるようにして「今日はよろしくな」と優し気な息が耳にふうっと掛かり、左腕の肌に微電流が優しく走った。
「アル、緊張しとるん?」
「いや、そんなことないよ」と弱気な心を伏せながら、背筋を伸ばしてミファを見た。
「よかった、今日は三楽章やし、緊張でガチガチになってたらどうしようかと思ったん」
「そんなに僕って頼りないかな」
「アハハ、気にせんとってな。練習やし、気楽にいこ」
口紅の塗られていないはずの唇は、水を含んだピンクダイヤモンドのように艶やかな色を保っていて、ミファが微笑むと真珠のような歯が覗いた。笑顔の透明度が僕の目の芯を貫いて、記憶を司る海馬に届く。
――あの子とデートするように絡まなあかんで……
デート、デートか……映画を見たりとか、演奏会を聴きに行ったりとか? 電車は一緒に乗ったけど。あとはキスとか、それ以上のこととか……それ以上? それ以上って……途端、今まで抑えつけていた蓋が外されたような感覚に陥り、欲望と煩悩が一気に膨む。これはマズいぞと慌てて蓋をしようにもそれはあまりにも重くって、抑制の効かない身体の生理反応を知られまいと、不自然な咳ばらいと身動きと深呼吸をして誤魔化した。
「アルの三楽章のソロってまともに聴くの、初めてやんな。んふっ、楽しみ」
栗色の髪の毛を揺らしながらファゴットを構えてミファは音を鳴らし始めた。ポコポコと軽やかに鳴らされるその音は、譜面台に弾けて壁に当たり、人の背中にぶつかり、窓や天井を超えたりして、そこら中を飛び跳ねながら曲の中を遊んでいる。見ているだけで幸せな気分になってくる、白い羽をした天使の踊りだ。天使たちは僕の貴婦人にも一緒に踊ろうとしきりに誘い、赤ん坊のふくよかな手を、僕はキュッと握りしめた。
大切な人に、ましてや尊いほどの思いを寄せる人に本心を表すなんて、僕にはハードルがとんでもなく高すぎるけれども、音楽なら、音楽に助けてもらえば、もしかするとこの思いを伝えることが出来るかもしれない。マウスピースに口づけしながら、黒い貴婦人にいつもと異なる祈りを捧げた。
――どうかミファと素敵なダンスを踊れますように。
巡りの良くなった血流のお陰で指先に温もりが戻ってきて、貴婦人の穴が僕の指にピタリと吸い付く。大丈夫、彼女はとてもご機嫌だ。僕の思いを汲み取って、きっといい音を出してくれる。
安原先生が指揮者台に立ち、「よろしくお願いします」と挨拶がされた。譜面台越しにこちらを向いた先生と目が合って、何かの意思が送られてくる。指揮棒の動きに合わせ、弦楽器にホルン、ミファと間山が楽器を構えた。
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