Allegro con fuoco(11)

 土曜日の練習は客演指揮者の安原先生が指揮を振ることになり、ラフマニノフの一楽章をする。客演指揮をお願いするのはメインだけなので、プロの指揮者というものは初めての経験だ。数年前から外大オケの客演指揮者を務める彼女は、城西フィルハーモニー管弦楽団の首席クラリネット奏者が本業であるが、音楽大学の講師を務めたり、中学や高校への出張レッスンを積極的に行うなど手広く活動しているようである。見たところ年は三十代後半か四十代前半といったところか。黒髪を結い上げた佇まいは凛としながらも、鼻筋の通った顔立ちには熟成された華があり、曲の合間に見せる柔和な笑顔がオケの雰囲気に明るさをもたらしていた。しなやかな指に同化しているような指揮棒の遣い方がとても優雅であり、オケ全体を見るバランス感覚に優れていて、特に主旋律の歌わせ方が絶妙に上手かった。合宿中にダメ出しされたクラリネットソロは特に指摘されることもなく、トュッティはつつがなく行われてゆく。


 安原先生に個人レッスンを申し込み、次の日の夜に弁天町へ向かう。指定された城西フィルハーモニー管弦楽団の練習場にはいくつかの防音室があって、高校生や一般人、フルートやチェロといったあらゆる楽器の人たちがそれぞれ個人レッスンを受けていた。


 スケールとエチュードをいくつか吹いた後、三楽章のソロをみっちりと吹き込み、息の遣い方にブレスの位置、フレーズの取り方、替え指まで細かな視点から見てもらう。


「まずはテンポ通りに吹いてみて……うん、このソロで一番の聴かしどころは、ここやここ、シ・ド・レ・ドって上がるとこ。ディミニエンドからピアニッシモにぐうっと下がって、もっと、もっと……そう、それくらいはっきり感情を付けて」

「うーん、これ以上音を小さくするのが難しくて……」

「こっちの替え指はどうや? ……ああ、ええ感じやん。意識がどんどん薄まって、自分が一瞬消えるように。過去の自分を棄てて、天上へ昇って新しい世界へと生まれ変わる瞬間っつうか、アレで昇天するっつうか……アレっていうのはもちろんアレな、ふふっ。ああ、めっちゃええやん、イケてんで」

「そうっすか」

「あとな、息のコントロールやな。小さい音ほど楽器の先まで息が届くようにしっかりと……あ、このミの二分音符、こっからファゴット入るやろ。チャララーラって、これが大事やねん。お隣さんをちゃんと聴きや」

「分かりました」

「あのファゴットの一番の子って、ええ音鳴らしとんな。せや、デートやデート、あの子とデートするように絡んだらええねん……あら、赤くなっとん? 意外とウブなんやね。瑞河くんも可愛い子には弱いねんな」


 ミファのことはともかくとして、おじさんといい、この女性指揮者といい、こっちの人はどうしてこうも余計な話が多いのだろう。一時間のレッスンはあっという間に終わってしまい、それでもソロへの不安は拭えなくて、今しがた教わったものを頭で反芻しながら楽譜をじっと睨みつけた。


「まだなんか気になるん?」

「はあ……これだけの練習で、本当に満足いく演奏出来るのかなって」

「瑞河くん、これだけの練習量で、自分がプロにでもなっとるつもりなん?」


 投げた野球ボールが黄色いテニスボールになって跳ね返ってきたような、僕と先生の意見の微妙な食い違いに困惑し、その質問に答えることができなかった。先生はそれを気にすることなく、時間があるから夕食でもどうかと誘ってきて、ビル外にある中華屋へ入った。


 塩ラーメンを注文して、先生は今までの経歴を簡単に話してくれた。幼いころから指揮者に興味はあったが、女性指揮者は活躍できないと周囲から猛反対されてそれを諦め、クラリネットを本格的に学ぶことにしたらしい。


「でもな、指揮のことは頭のどっかで残っとった。知り合いからとある大学オケを紹介されたときに、これはチャンスやって我先にと指揮を申し込んだんよ。やけど、先方から断れてもうて……そこが選んだのは、弦楽器やっとる男の指揮者やった」

 先生は水を飲み、運ばれてきたラーメンを豪快にズズッと音を立てながら啜った。


「私の経験や実力の足りなさに不安があったのは、確かにあったかもしれん。でも女性のハンデも少なからずあったんやないかって、疑いが拭いきられへん。世界の有数な指揮者ん中で、女性指揮者の数は指で数えられるほどしかおらんでな、それくらいクラシックの――特に指揮者は、男女の格差意識が二百年前からほとんど変わっとらんのよ。体力がないとか脳の働きが違うとか、いちゃもんだけはめっちゃあるけどな、結局のところ、男勝りに動く女性の下では演奏したくないっつう偏見が、どっかにあるんやないかってな」


 大変なんですね、とラーメンを咀嚼しながら相槌を打つ。

「でもそんなことにいちいちクヨクヨしたってしゃあないし、じゃあ今できることを考えなって。女性やからこそ――つうより、女性がどうとかそれも関係なくて、私やからこそ伝えられる音楽は確かにあるはずで、それをずっと探しとる。瑞河くんもな、今の君やからこそ伝えられるもんはあるんよ。私はその伝え方を教えとるだけ」


 人生経験を滔々と語る先生の意図を汲むことが出来ずに、はあ、と僕は頷くだけだった。格差問題についての理解は深まったが、僕のソロはいいのか悪いのか、結局のところどちらなのだろう。来週のトュッティは三楽章すんで、と先生は言い、返事の代わりに僕は豚のチャーシューをパクリと食べた。

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