Allegro con fuoco(10)

 一晩悩んで悩みまくり、今やるべきは本気で曲に立ち向かうことだと自分の気持ちを整理した。粟崎さんに叱られたからとか、タダさんを見返したいとか、最後の定演で華々しく錦を飾りたいとかそういう自己満足ではなく、ここで諦めて後悔だけはしたくないという、ごくシンプルな理由に過ぎない。おじさんに見せてもらった動画が、あまりにも強烈なインパクトを脳裡へ刻み付けていて、猛烈な音楽への希求に抗うことは到底出来なかった。やはり僕はクラリネットが好きで、オーケストラが好きで、音楽が好きなのだ。


『ラフマニノフのファースト、僕にさせてもらいます。よろしくお願いします』

 翌朝一番に里見さんと粟崎さんへLINEをし、自分の胸の内をはっきりと伝えておいた。昨日の今日ということもあり、鼻柱の強い奴だと軽蔑されるかもしれないが、誰にどう思われようがそんなのはどうでもよかった。とにかく、やるならやると決めたからには今すぐにでも練習を始めたかった。里見さんからは了解という一言で済まされて、粟崎さんからはOKという文字のスタンプが押された。


 ついでにセカンドは夏紀さんでお願いした。合宿中に代吹きをしてもらったのもあるし、それにきっと、ここで夏紀さんを繋ぎとめておかないと、本当に外大オケを辞めてしまうんじゃないかという危惧もあったからだ。夏紀さんを団へ引き入れた手前、僕には彼女の立場をフォローする責任と義務がある。


 練習時間を確保するため、大学に入って初めて一般教養の講義をサボり、扇田に代返をお願いした。出来るだけ早めに外大へ足を運び、なるだけたくさんの息をクラリネットに吹き込んだ。昼間のサークルボックスには誰もいなくて、木曜までの鍵開けは僕が一番乗りだったけれど、金曜日は先客がいたようで、桶男のポスター裏に鍵がなかった。


「アルくん、鍵は俺が開けといたで」と、部室の辺りを見渡す僕に声を掛けてきたのは、バイオリンを手にするタダさんだ。タダさんは桶男の――もちろん本人のことだけど――ポスターを捲って鍵を戻した。

「毎日練習ご苦労さん。えらい張り切っとるなあ。ソロの大役は果たせそうか」というタダさんからのあからさまな挑発に、「心配されなくとも大丈夫です」と、僕も負けじと見栄を切る。


「おお? 一丁前に調子こいとるやんけ。お手並み拝見とさせてもらうわ」

「ヘマはしませんよ。僕にだってソロは吹けます」

「ホンマにか。嘘やないんやな」

「大丈夫です」

「よっしゃ、男の約束やで。もし外大オケに恥塗るようやったら、パンツ一枚で大学一周な」


 ユーモアを含むもののその物言いは傲岸不遜で、僕の逃げ道を完全に塞ぐよう会話が巧妙に誘導された。練習するわと廊下を行くタダさんの背中に、僕は思い切って尋ねてみた。

「タダさん、夏紀さんのことで僕のことを恨んでますか」


 タダさんは一旦立ち止まってゆっくりこちらへ振り返り、僕の顔をじっと睨み、整った顔立ちの裏にある般若の一面を薄っすらとそこに浮かべた。


「恨んだよ。めっちゃ恨んだ。恨まん訳あらへんやんか。せやけど元はといえば俺の蒔いた種やからな、夏紀にはもう付き合わへん、これ以上近づかんといてくれってはっきり伝えた。俺にはミファがどうしても必要でな、悪いけどアルくんにはやれへんで」


 タダさんは般若の嫉妬を躊躇なく僕に浴びせて、トゥッティ部屋へ入っていく。バイオリンの弓を手にする右手には、黄金の光が人差し指を照らしていて、闘志むき出しの光を振り払うように僕は木セク部屋の扉を閉めた。

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