Allegro con fuoco(7)

 北大阪急行電車に乗り、座席に座って目の前の車窓をぼんやりと眺めた。千里中央駅を出た電車は、真横に走る新御堂筋の車とのデッドヒートを駅ごとに繰り返していて、どちらが先に目的地へ到着するのか、勝負の行き先を脳の栄養にしながら今の状況を顧みる。粟崎さんの怪我、里見さんの苛立ち、夏紀さんの吐露などがラフマニノフのクラリネットソロに渦巻いて脳の奥へと溶けていき、激しい渦巻に眩暈がして目を閉じた。瞼を開けると、目の前に座っている女子高生もスマホから頭を上げて僕と目が合い、繕うように電子広告へ目を逸らした。映画の宣伝に一通り目を通して車窓へ視線を落とすと、女子高生はスマホへ興味を戻している。車は渋滞に巻き込まれ、電車は地下へ潜っていき、娯楽の奪われた僕はラフマニノフのスコア本を鞄から取り出して、曲をイメージしながら読み込んだ。


 家へ帰りスマホを取り出すと、ミファからLINEがあることに気が付いた。

『ラフマニノフのトップ、粟さんの代わりに吹くのって誰か決まったん?』

 代吹きを心配するのは僕たちだけじゃない、他のパートでも同じことだ。

『僕にファーストしろって、粟崎さんからの命令だよ』


 ミファからの返事はホンマに、でもなくて、すごい、でもなくて、ビックリマークを付けたヒヨコが驚いているものだった。これは好意的なのか、それとも心配されているのかどちらなのだろう……僕なんかがソロをしてもいいのか判断付かぬまま、『ちゃんと出来るかなって、まだ悩んでる』と正直に悩みを打ち明けた。

 既読になってすぐにミファの返事は来た。

『アルなら大丈夫やよ』


 ああ、これは彼女の持ちうる尊い才能なんだと思う。この子はいつでもこうやって、人を信頼し、安心させることにすこぶる長けているのだ。迷いなく返されたこの一言が、蛇のとぐろのように渦を巻き続ける僕の脳神経を、綿の花がぽわっと開くようにして優しく和らげてくれた。意気揚々としたその勢いを保ちつつ、粟崎さんの電話番号をリストから探し出す。


「もしもし、粟崎さんですか?」

 電話が繋がってから二十一時という時計の文字盤に気が付いて、すみませんと慌てて謝った。

「ええんや、暇しとったから気にせんとって」という粟崎さんの声は、いつものように柔らかく落ち着きがあって一先ず安心する。

「具合はどうですか」

「めっちゃ痛いよ。痛すぎんで、薬飲んでずっと泣いとる。アルに代わって欲しいくらいやわ」


 症状を訊くと、骨にズレはなくて入院もなし、四週間ほどのギプス固定で済んだという。


「転げ方が上手やったんねって、お医者さんにも褒められたんよ」と、粟崎さんの洟を啜る音とともに軽く笑う声が聞こえた。「でもな、足もグルグル、腕もグルグル、ご飯も風呂も不便で敵わんわ。こんな時に限ってアホやよなあ、ホンマ」

「じゃあやっぱり、演奏会は無理っすか」

手元にあるラフマニノフのスコア本をペラペラ捲り、目的の場所へ指先を動かしていく。

「楽器も持たれへんし、指も動かされへんからなあ、こんなん無理に決まっとんやん。メインを目指すんは来年や。里見さんとも相談したけど、ラフマニノフのトップはアルに任せんな」


 電話越しに聴こえるいつものはんなり声が、僕の心を縛り付けていた緊張感という紐をするすると解いてくれて――その紐の締め付けがあまりにも苦しかったものだから、いつも以上に紐を解いてしまい――限界までそれを解きすぎてしまった。解けた中からひょっこりと顔を出したのは、普段見せることのない、そしてここにあってはならない「甘え」という不謹慎な二文字である。


 ちょっと相談があって……と前置きし、「僕で本当にいいんですか? 正直言うと、ファーストなんて無理かなって思ってるんすけど」と、スマホの向こうに問いかける。

「え? ここに来てまさか自信あらへんの?」

「いや、自信っていうか……代吹きを僕に頼む理由が分からなくて。里見さんはどうなんすか」

「あの人はチャイコフスキー吹いたばっかやん」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る