Allegro con fuoco(6)

 要求されたものをすぐさま返せない焦りに黙り込む僕を見かねてか、なあ、と隣から助け船を出してくれたのは夏紀さんだった。


「アルくんをそこまで責めんでもええんやないの。別に悪いことしたわけやないんやし」

「責めとるわけやない、訊いとるだけや」と、里見さんの小さな顔が夏紀さんの方にクルンと回り、縛った髪が背中で揺れた。

「でもそんな風に威圧するような言い方されると、アルくんも言いたいことが言えへんようになるやろ。ホンマは悔しいんとちゃうの、自分が吹きたいからって」

「そんなんちゃうわ! 部外者が黙ってて!」


 狭い部屋に里見さんの声がわんと響いて、声の震えに応えるようにして棚の上から一冊の本がバサリと床へ落ちた。粟崎さんのいち推し漫画である「百歌ひゃっか祈祷師きとうし」だ。表紙に描かれた平安装束の少年が、百人一首の札を背景に、緋色の剣を構えて何かを叫んでいる。タイミングよすぎる落ち方に何かの意思を感じたというか、演奏会を諦めきれない粟崎さんからのメッセージが込められているようで、バツの悪いひと時の沈黙が木セク部屋に漂った。「もうええ、会議は終わり。アル、後で連絡ちょうだいな」と言い残して里見さんは帰ってゆき、他のメンバーもそれに続いて、はみ出しっ子の城西大コンビだけが気まずくその場に取り残された。


 漫画を拾って棚に戻す。狭い部屋に五百冊もある漫画本は、僕の足元から天井まで、腕を大きく広げるほどの幅があり、手塚治虫から最近の流行りのものまで、改めて眺め渡すと壮観だ。卒業までに全て読むと宣言していた粟崎さんの挑戦は、どこまで達成されたのだろう。


「部外者やって……とうとう本音が出たなあ」と呟きながら、夏紀さんがロングスカートの中で足を組み、ゴージャスな柄の入ったレースの裾から白いヒールを覗かせた。

「怒ってますか」


 別に、と一重の瞳がふっと細まり、「ムカついてはおるけどな。里見さんとは気い合わへんなって、前から思っとったもん」と遠慮のない返事をされた。ここまではっきりとした態度を取られると、僕としてもどうしようもなくて、棒立ちしたまま夏紀さんの話を待った。


「タダハルにも指摘されたことやけど、私な、他の人を苛立たせてしまうような言い方するときがあんねん。直そうとはしとるんやけど、元々の性格やしどうしようもなくてな……城西大オケを辞めたんも、パート内競争が大変やからって言ったけど、ホンマはちゃうねん。ちょっとしたことがあって、クラリネットの子と揉めて、パート内でもハブられて、居場所がなくなってもうたんよ」


 付き合っていた城西大の指揮者と美華とのことかな、と思いを巡らせたが、声には出さないでおく。夏紀さんが首を傾げると、日本人形の黒髪が簾のようにするすると肩へ流れた。


「でも人付き合いって上手くいかへんもんやな……私はどこへ行っても迷惑になるようや。里見さんとも馬が合わへんし、みんなの輪にも気軽に入れんし、折角仲良うなりかけたミファちゃんさえも、最近はえらい他所よそ他所よそしくされとってな……もう外大オケ辞めようかなって思っとる」

「ええ? そんな……来たばっかりじゃないっすか」

「ええねん。アルくんにお願いしてここへ引き入れてもろうたのに、混乱させて悪かったな」


 帰るわ、と言って夏紀さんは木セク部屋を出ていった。一人部屋に残された僕は、グズグズと崩れ落ちる床を目の前にして、手出しが出来ぬまま途方に暮れる。

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