Allegro con fuoco(5)
この緊急事態に、翌日のセクション練習は早めに切り上げられて、桶男のポスターが貼られた木セク部屋にてクラリネットパート会議が行われた。一回生一人、二回生三人、三回生二人の計六人が、円に置かれたパイプ椅子へ着席した。会議の進行は三回生の里見さんだ。ええと、と話を切り出した里見さんから、粟崎さんの状況が淡々と伝えられた。
駅構内の階段を駆け足で上っていた粟崎さんは、歩きスマホで注意散漫になっていた会社員と上り口で接触し、彼女の細い体はその反動に耐えることなく転げ落ちたらしい。頭部が無事だったのは不幸中の幸いだったけど、数か所の打ち身に右足関節捻挫、それから転んだ際に手を突いたのが原因で右親指の付け根を骨折し、六週間以上のギプスの固定が必要と医者から診断されたそうだ。
「……でな、粟さんと話し合ったんやけど――今回の演奏会はパスすることに決めたって」
ああ……と嘆きを含んだ六人分の吐息がこの場に澱んだ。ラフマニノフのソロを一番楽しみにしていたのは粟崎さんだってことは、ここにいる全員が知っている。演奏会辞退を決めた彼女の無念は如何ばかりであったか、運命の指が跳ね上げた残酷な仕打ちに皆の顔が重く沈んだ。
「でな、ファーストのことなんやけど」と、一筆書きでシンプルに作られたような里見さんの両目がこちらに向けられた。「アルがファーストでええんちゃうかって、粟さんからの推薦やねん」
目の前に里見さんのスマホが差し出されて、LINEのメッセージに目を疑い、はあ? と思わず訊き返す。
「こういうときは、里見さんか四回生が妥当でしょう。僕はセカンドで手一杯ですし」
「私だってそう言ったんよ」と里見さんの小さい目がキュッと吊り上がり、こめかみの皺を細かくした。「でもな、これは粟崎さんのたっての願いやねん。技術的には問題ないし、ここまで練習してきて曲をしっかり読み込んどるし、合宿で代吹きもしてもらっとるし、それでええんやないかってな。アルはどうなん? ファースト出来んの?」
僕と比べて一回りも体が小さい里見さんの発言は、その小柄な体に反して棘のついた鉄球が振り回されるような迫力を帯び、僕のひ弱な精神で太刀打ちなんてとても出来るはずがない。軽いスポンジに声を吸わせるようにして、「城西大生の僕なんかが、ファーストなんてしない方がいいと思うんですけど……」と、
「あんな、一つだけ言わせて」里見さんは声を吸わせた僕のスポンジを、手加減なくギュッと握りしめた。「アルは自分が他所もんのマイノリティーやって思っとるかもしれんけど、私らからしたら、城西大生っつう絶対的なマジョリティーに君臨する中での一個人でしかないんよ。そこらへんを自覚しといてな。自分では遠慮してるつもりでも、私らにとったらそんなん余計なお世話っつうか、暗に外大生が見下されているような気がして、人をイラっとさせることがあんねんか」
「あ、すみません……」
「なんで謝んの。こっちがえらい悪もんみたいな気がして、そういうとこも困るんよ」
「……っすね、はい……」
「割に合わんのは百も承知やけど、でも粟さんが頼んできたからしゃあないねん。アル自身がやる気見せてくれへんとどうにもならんわ。やるかやらんのか、吹くか吹けんのか、どっちやの」
里見さんは僕のスポンジをキリキリと雑巾のように固く締め上げてきて、鳩尾が痛くなり、気持ちの悪い脂汗が脇の下に染みてきた。
――やるか、やらないか、今すぐに決めろって? いやいや、無理に決まっているだろう……
ラフマニノフ交響曲第二番のクラリネットソロは、プロのオーディションに使われるくらい魅力的なものであり、この一吹きで曲の良し悪しが決まるほどの責任重大な箇所でもあるのだ。そりゃあ吹きたくないと言えば嘘になるが、合宿中の手痛い経験で自信の器は細かいヒビが入ったままだし、これ以上の失態を犯せば僕の器は粉々に壊れてしまう。かといってこの状況で即座に決めるというのも無謀というもので、せめて一週間、いや三日、一日でいいから、僕に考える余裕をくれたらいいのに……
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