Allegro con fuoco(8)
「でも、本当に僕でいいんですか? 僕って煽てられるほど、そんなに巧くないっすよ」
しつこく食い下がる僕に、二、三秒ほど間が開いた。ふうっというため息がして、はんなり声がそれに続く。
「あんな、前にも言うたやん、アルの音は真面目で信頼できるって。私の隣でずっと練習してきて、アルの音はちゃんと分かっとんよ。クラリネットパートの中でアルがこの曲を一番に理解しとるってことも、私は知っとる。だからアルに任せたんやんか」
粟崎さんの決定はどうやら本気らしい。スコア本の捲った先には三楽章のソロがあり、スラーで繋がる四分音符を順繰りに目で追って、舞台で演奏する姿を想像する――息が続かなかったら……指がガチガチで回らなかったら……リードミスをしてしまったら……困ったことに次々繰り出されるイメージはどれもこれも不吉なものばかりで、不穏と不安で入り混じる感情に小心者の僕が耐えられるのだろうかと、その怯えに頭を振った。
「そんな簡単に言われても……このソロを僕に吹けるかなって……」
「なんよ、まだなんか不満あんの」
「ほら、みんなが期待してんのは粟崎さんのソロなんすよ。僕の演奏なんかが、周りに認めてもらえるのかなあって思ってて」
樋の詰まった雨だれのようにしてダラダラ止まぬ僕の愚痴に、粟崎さんの返事はなかった。スマホの向こうの声がスピーカーへ詰まったように寸時話が途切れてしまい、もしや電話が切れたのだろうかと向こう側の違和感に気付いた、その瞬間――「もうええわ!」という粟崎さんの一喝が耳に突き刺さり、大音量に驚いて思わずスマホを遠ざけた。スコア本から指が離れて、目で追っていた三楽章がパタリと閉じられる。
「アルはなんでいつもそうやって自分の実力を卑下すんや! このラフマニノフ、私がどんだけ出たかったと思っとんねん。したくても出来ひん人の前でそういう態度とる奴って最低やで! やりたくないらなやらんでええ、私がギブス外してでも出たるし! アルになんかもう頼まへん、定演なんてくそくらえや。ファーストの椅子をなくして、いっそのこと演奏会自体なくなってしまえばええねん!」
わああんっという泣き声がスマホから溢れ出て、どうしたのという家族の声が遠くから聴こえる。すみません、ゴメンなさいと謝るも粟崎さんは聞く耳持たずで泣きじゃくり、プツンとスマホが切られてしまった。
――僕はバカだ。絶対に言ってはいけない人へ最低な言葉を投げつけた。
前へ進む地面に穴を開けているのは、自分自身の弱い心だ。底知れぬ穴の深淵から粟崎さんの泣き声が湧き水のように溢れ出て、後悔と懺悔の泥沼へ僕の心は埋没していく。
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