Allegro con fuoco(3)

 十一月に入った最初の土曜日は、「語劇祭」という大学の催しのため、オケの練習はお休みだ。外大の学園祭のイベントの一つで、各言語科の有志たちがそれぞれの言語を用いながら演技をする、小劇場のようなものである。ミファが朝鮮語の劇をするというので、単車を外大へと走らせて学内にお邪魔した。


 学生たちから通称「墓石階段」と呼ばれる、二十段ほどの白い石畳の階段を息切らせながら上り、赤いレンガ棟の並びを見上げる。劇の時間にはまだ早くて、暇つぶしのために左側の図書館へと入った。各言語の専門書や文学などに加え、歴史、哲学、芸術など、様々な国々の蔵書が取り揃えられている外大の図書館は、蛇が這った跡のような知らない文字がたくさんあって、城西大や市にある図書館とは違うユニークさがあり、本の背表紙を眺めているだけでも面白い。つらつらと歩きながら朝鮮語のスペースで足を止める。在日コリアンの本を一冊とってページをめくった。


 一九一〇年、韓国併合による植民地支配が始まったことにより、食料や労働力が日本によって搾取され、生活に困窮して日本へ渡らざるを得なかった大量の韓国人、また戦争の激化によって失われた日本の労働力を補うため、強制的に動員されてきた韓国人――彼らが現在の在日コリアンの前身となる。自分たちの意思に反して併合という形で日本国籍を押し付けられた彼らは、敗戦後の一九五二年、サンフランシスコ条約で日本国籍を奪われて無国籍となり、難民のような立場になってしまった。国籍がないとは即ち、最低限の生活保障すら国から許されないということである。一九六五年の日韓条約により、韓国との正常な国交がようやく始まって、日本という島国に閉じ込められていた在日コリアンの韓国籍取得者が増加した。


 日本に住む外国人の在留資格に「特別永住者」という区分がある。「一九四五年八月以前に日本国籍者であり、それ以降もひきつづき日本に住んでいる人、及びその子孫」と定義されたそれは、ほぼ在日コリアンを想定されている。帰化を選択しない在日コリアンはあくまでも日本政府から「特別」に「永住を許されている者」であり、日本国民という括りではない。だから選挙権もないし、外国へ行って日本へ帰るときには「再入国許可」が必要になるし、犯罪をすれば特別永住を取り消されることだってある。日本に生まれ、日本語を話し、日本で学び、日本で働き、日本人の友だちがいて、どれだけ日本に暮らしていても、彼らはあくまでも外国人扱いなのだ。


 僕はミファについて、知らないことがたくさんある。そしてそれを学ばなければいけないのだろう。

 城西大の僕は外大の本を借りることが出来ないので、間山にお願いしようと何冊かの本の表紙をスマホで撮った。時間が迫ってきたので図書館の外に出る。


 反対側のA棟に入り階段を上がって四階の大講義室へと移る。英語科の劇が始まっていたので、パンフレットを手にして中に入った。三百人ほど座れる木目調の椅子には学生や保護者、OB・OGと一般客で満員だ。


「喜劇ロミオとジュリエット」と題された英語科の劇は、ロミオとジュリエットが現代日本へ転生するというパロディーめいたものだった。ライバル菓子メーカーで働く二人が協力し合って、世界に一つしかない魔法の菓子を作り上げるという荒唐無稽なシナリオだ。演者の台詞に合わせて、後ろの壁のスクリーンへ背景と字幕が映し出される仕組みになっている。舞台に出てきたロミオにギョッとした――なんと我らが指揮者タダさんだ。スーツを身に纏うタダさんは、やっぱり舞台に映えるほどの輝くオーラを放っていて、ライバル社員ジュリエットへの顎クイ壁ドンも演技とはいえ手慣れたもので、観客の女性たちがきゃあきゃあと黄色い声援を送っていた。社長の御曹司であるロミオは劇中かなりの横柄ぶりを見せていて、その態度に心底辟易したジュリエットは、最後にパンチや平手打ちを思う存分彼に浴びせまくり、哀れな男の末路を目にしたというか、床に沈んだタダロミオにご愁傷さまと苦笑いをするしかなかった。


 次の劇はお目当ての朝鮮語である。李氏朝鮮時代の物語である「春香伝チュニャンヂョン」という劇のようだ。パンフレットによると、両班ヤンパンの息子・李夢龍(イ・モンニョン)と妓生キーセンの娘・成春香(ソン・チュニャン)との身分違いの恋物語であり、韓国では何度も映像化されるほどに人気のある題材のようである。さながら韓国版ロミオとジュリエット、といったところか。ヒロインの春香チュニャンはこれまたミファが演じていて、華やかなチマチョゴリを身に付けた彼女は舞台の上でも美しい。本家ロミオとジュリエットとは異なって、最後の二人は結婚してハッピーエンドだ。


 語劇というこれらの外大文化も、統合によりいずれは消え去ってしまうのだろうか。ミファたちの熱演に心ゆくまで拍手をしながら、不安定な外大の未来に一抹の不安をよせるとともに、その気持ちの揺らぎが心の砂粒を流してゆき、水底に残っていたタダさんの言葉を洗い出した。


 ――アルくんは、なんや、ミファのことが好きなんか?


 僕はミファのことが好きなのだろうか……僕のことを仲間と言ってくれたミファは大切で特別な友だちだということだけは間違いなくって、かけがえのないそんな友だちを、異性への好意という愛情表現で単純に線引きするのはどうなのだろう。ミファに対して、可愛いから好きだとか、男としてタダさんに負けたくないとか、抑えきれない性欲を満たしたいとか、そういう境界線を簡単に作ってはいけない気がする。それは答え方によっては、僕の狭い世界である仲間という括りから彼女を弾き出してしまうことでもあるからだ。壁の向こう側へ追い出した彼女へ会いに行く方法を、僕はまだ知らないでいる。それはマーカーで引いた線が水で滲んでいくように境界が定まらぬ心の畏れであり、怯えでもあり、先行きの見えぬ道筋への葛藤でもあった。

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